原発と直接投票――ステークホルダーの観点から


私は政治理論を専攻していて、とりわけ「ステークホルダー」(利害関係者)という概念をテーマにした研究を行っています。企業の意思決定に対するステークホルダーが株主だけでない従業員や消費者、地域社会、環境などを含むように、政治も、法的な権限に根拠づけられないような多様な主体を想定できるのではないか。権利はないが重大な利害関心はある――というように、ステークホルダーという観点を用いることで、デモクラシーの中に存在する様々な「境界線」を問い直すことができるのではないか。大ざっぱに言うと、そうした問題意識から研究をしています。

福島第一原子力発電所の事故とその後の原発をめぐる議論は、まさにこのステークホルダーという観点に多くの対応を持つものでした。風や雨を通じて拡散する放射性物質による汚染は、地理的境界や行政単位の別を飛び越えていきます。原発からどれほど離れようが、どこ/何がどれほど汚染されているか分からなければ、誰がステークホルダーであるのかは確定できません。その範囲は、これまで原発とどのような関係を結んでいたかにかかわりなく、いくらでも拡大していく可能性があるのです。こうした状況を言い表すのに、ステークホルダーという語は極めて適しています。それは法的な権利・義務に限られない多様な利害関係に基づく主体を指すものであり、本来的に範囲が不確実で曖昧な対象を意味するからです。まして、原発廃炉や使用済み核燃料の処理は、遠い未来にステークホルダーを生み出し続けます。原発放射能を巡る議論は、時間的・空間的に茫漠と拡がる影響範囲を念頭に置き続けることを私たちに要求するのです。

原発について語ることが帯びるこうした一種茫漠とした性質は、政治における困難をも連れてきます。今や誰もがステークホルダーたり得ることが明らかな以上、「現地の声」を何よりも重視する素朴な「当事者」主義が批判されるべきなのは明らかです(それは首都圏の立場を全てとすることと同程度には馬鹿げています)。しかし、では原発立地自治体での決定過程に「部外者」がどこまで介入することが許されるのかは、容易に結論できる問題ではありません。他方、誰もがステークホルダー「だからこそ」、全ての声を聞くことはできないのであるから、まずは専門家や特定の関係団体による議論を先に置くべきである、との主張も有り得ます。この場合、ステークホルダーの観点は、責任を曖昧な全体に解消しながら既存の秩序を温存するために働きかねません。

本来であれば、ステークホルダーの範囲が広く拡散する問題については、国レベルで一般的・長期的視座からの議論が重ねられるべきでしょう。ですが、周知の通り、現在の日本ではそれは難しい状況にあります。それが、ある特殊な意味におけるステークホルダーとしての側面を持つ政党・国会議員が多いという事情に因るのかは、ここでは問題にしません。議会が頼れないのであれば、どのような手段が有り得るのかを考えるべきです。議会政治・政党政治原発を語ることが難しいのであれば、議論の舞台は別の形で準備するしかありません。そうした立場から展開されているのが、原発に関する直接投票を求める動きです(「東京「原発」都民投票/大阪「原発」市民投票」を参照)。

しばしば指摘されるように、選挙で候補者や政党に投票することは、パッケージとしての選択です。そこでは異なる様々な分野についての様々な政策が一緒くたに問われますから、個別の政策についての支持・不支持を表現することは事実上できません。単一のイシューを問う直接投票ならば、それが可能になります。議会政治・政党政治の中で表現されない意思を政治に反映させる上で、直接投票は極めて重要な役割を果たせるのです。もちろん、支持・不支持を決定する様々な理由の別は直接投票でも表現できませんが、そうした多様な立場の意思が反映される可能性は、直接投票を控えた社会を舞台とした議論が、どれほど豊かに為されるかにかかっています。直接投票を求める運動は、意思決定の舞台に参加できないステークホルダーたちが、自らに合わせて政治の舞台を新たに構成しようとする政治です。今や誰もがステークホルダーであるとすれば、私たちは既にこの構成的な政治への態度表明を求められていると言えるでしょう。


2011年の3冊


A3

A3

地方政府の民主主義 -- 財政資源の制約と地方政府の政策選択

地方政府の民主主義 -- 財政資源の制約と地方政府の政策選択

遺体―震災、津波の果てに

遺体―震災、津波の果てに


よいお年を。

民主党の組織と政策


民主党の組織と政策

民主党の組織と政策


今夏、書籍としてはほぼ初と言っていい、民主党についての実証的研究が出版された。若手の研究者を中心とする本書では、民主党の特徴を予め(1)理念や政策の曖昧さ、(2)政権獲得の追求、(3)組織戦略の不明確性の3つに見定めた上で、その曖昧な組織と政策についての分析を行っている。

1章では、地方議会における民主党所属議員の議席割合が自民・公明・共産各党などと比較して低水準であり続けていることや、党員・サポーター数が自民党の3分の1程度に留まっていることなどから、民主党の地方組織の脆弱さが示される。これは、国会議員を中心として結成されたため、院外の社会的基盤を欠いている同党の性格を現わすものとされる。

地方組織を分析した4章と5章はそれぞれ、地方組織が未発達な地域に同党所属の国会議員が誕生することで組織化が進む事例や、主要な支持団体たる労組内部の対立(旧総評系と旧同盟系)が局面によって表面化する事例を扱い、「上からの創出」に基づく民主党における社会的基盤の弱さと不安定さを裏付けている。

同党については結党以来「寄り合い所帯」との批判が付きまとってきたが、3章が明らかにするように、党内対立を促進しやすい「開かれた」党首選を行った新進党に対して、党員投票を伴う代表選があまり行われず、代表選後の処理も融和的に為された民主党においては、紛争の封じ込めが成功してきた。また、旧党派を持たない新人議員の増加が旧党派の対立を相対化する中で、党内グループ間のイデオロギー距離は縮小し、グループ内の立場は拡散している(2章)。


編者2人による1章では、「試論」と断りながらも、民主党を「資源制約型政党」であると性格付けている。既存の政党類型を踏まえた上で提出されるこの新類型は後に続く章では登場しなくなるが、同じ大衆的基盤を欠いた政党類型の中でも、効力・人員確保の両面で組織動員の縮小に直面するためにマーケティング的手法を用いる「選挙プロフェッショナル政党」や、党員減少による党財政悪化のために国家財政からの補助を求める「カルテル政党」などとは区別されるものだとされる。

そもそも無党派層の増大は、人々が今や政党に対する恒常的結び付きを持たないことを意味しており、党活動への参加、党費の納入、アイディアや情報の提供、公職への候補者の供給、選挙における投票といった諸資源を政党が社会から調達することが困難になったということである。社会からの資源調達が難しくなる中で形成されなければならなかった民主党はさらに、自民党による一党優位体制のため、国家からの資源調達も困難であった。政権交代も問題を解決しない。経済のグローバル化が国家による市場のコントロール余地を狭め、財源や規制権限などの国家資源を党派的に利用することへの制約が強まっているからである。

このように、国家からも社会からも十分な資源調達が困難な環境下に置かれていることが、資源制約型政党たる意味であるとされる。同類型については、自民党一党優位支配下の野党やグローバル化状況下の与党が民主党に限られないことや、政党交付金を通じた国家からの資源調達が為されていることなどから、カルテル政党との違いが解りにくい。また、資源制約型政党であることが、選挙プロフェッショナル政党であることと矛盾するわけでもないだろう。

それでも、社会から動員される政治的資源が乏しいことが利益集約能力の低さに結び付いているとの指摘は重要であり、同党が自民党的な利益誘導政治への批判をアイデンティティーの源泉としてきたことや、左右に振れる政策の中でも比較的一貫している普遍主義的政策傾向(8章)などは、この点と結び付くだろう。


政権交代自民党に対する批判票の受け皿として民主党が受け止められた結果であり(7章)、民主党の支持率上昇は、政権交代の可能性および実現とそれに伴う報道量の増加に導かれている(6章)。これは政権交代を追求してきた同党の成功であり、「政権担当能力」をアピールしてきたことの正しさを示すものである一方、民主党の政策そのものへの支持は乏しいことを意味する。

自民党に対する「懲罰」を可能にする代替的選択肢と見なされる民主党には、政権獲得を通じて自民党との政策的差異の縮小が促される*1子ども手当や高速道路無料化などに代表されるような、自民党型の利益誘導政治――斉藤淳の言葉を借りれば「エコヒイキ」――へのアンチとして生み出された普遍主義的な政策――いわゆる「バラマキ」――が(財源制約があるとしても)さほど支持を得ていないことは、民主党の存在が旧来の政治システムを敵視する一点で糾合された一種ポピュリスティックな政党であり、具体的な個別のニーズとは切り離されていることを意味するのかもしれない。

民主党の地方組織が未だに育っていないのは、国政におけるポピュリスティックなニーズと地方政治における個別具体的なニーズが直接結び付くものではなく、相互に分断されていることを示しているとは考えられないだろうか。本書4章の指摘によれば、民主党地方組織の形成を促し支持者を動員するにあたって共通する明確なインセンティブは、非自民の結集という以外にない。だが、非自民であることが普遍主義を志向することになるとは限らない。既存の利益誘導政治に対する様々な不満は、異なる形の利益誘導(エコヒイキ)への欲求であることが多いのである。

個別の異なる利害を糾合するポピュリズムがあくまでも疑似普遍主義にしかならないことを思えば、普遍主義的な負担と分配への支持不拡大も理解可能である。共通する敵を名指すことによって個別的な利害を糾合するポピュリズム民主党政権として一度成功したとすれば、その果実に対する失望が次なるポピュリズムを生み出したとしても、不思議ではない。

*1:二大政党制への接近が事実上の「一党制」に近づくことはかねて指摘されているところである。例えば、吉田徹『二大政党制批判論』光文社新書、2009年。

二大政党制批判論 もうひとつのデモクラシーへ (光文社新書)

二大政党制批判論 もうひとつのデモクラシーへ (光文社新書)

哲学的想像力の滞留――東浩紀『一般意志2.0』


一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル


東浩紀『一般意志2.0−−ルソー、フロイト、グーグル』(講談社、2011年)を強いて言えば、公共哲学の本と言えるだろう。表題の通り、本書は、グーグルに象徴されるような高度に発達した情報技術環境に刻まれる行動履歴が人々のフロイト的な無意識(本当の望み)を統計的に可視化することを通じて、かつてジャン・ジャック・ルソーが『社会契約論』の中で示したような「一般意志」の新たな形態と言えるものが現れ得るのであり、またそうした「一般意志2.0」こそが従来的な政治過程を規律する原理になり得ると主張する。著者は「政治」(過程/イメージ)の刷新を志しているが、考えられているのは、狭い意味での政治にとらわれない未来社会像そのものである。

一般意志とは主権者の意志を意味するが、個々人の私的利害のような「特殊意志」を集積して得られる「全体意志」とは区別され、人々に共通の利益を示すもので、定義上誤ることがないとされる。著者はルソーの「二次創作」により、一般意志は理性的な熟慮と討議を通じてではなく、コミュニケーションなしに導かれると読むべきであることを主張し、そこから個々人の勝手なつぶやきが政治空間を規制する「ツイッター民主主義」を正当化するのである。政治システムに直接かかわる範囲で本書の主張を短く要約するなら、あらゆる政治過程(「熟議」)を公開した上で、それを見た人のコメントがニコニコ動画ツイッターハッシュタグのようにリアルタイムで当の政治的アクターたち(政治家や官僚)の目に触れるようにすることにより、場の空気としての「みんなの均された望み」が議論の方向性を大まかに統御することができるのではないか、ということに尽きる。


ルソーやホッブズ、ロックらについての著者独特の解釈がどこまで妥当であるのかは、重要ではないだろう。実際のところ、先の主張を導き出すためにルソーは必要ない。本書の立場をより一般的な文脈に接続するなら、情報技術を通じて未組織大衆による利益政治の規律を可能にしようとするものだと言える。したがってそれは、流動性が高まった現代社会における利害伝達経路の再編を図ろうとする「ステークホルダー・デモクラシー」の一部として解釈することもできる*1。「当事者の専横は、非当事者の欲望によって自ずと限界づけられる」(162頁)という期待は、狭く濃いステークホルダーの議論に広く薄いステークホルダーへの応答性を確保しようとするものだと言えるだろう。

そのように解釈できるということは、著者の議論が結局それなりに穏当なところに落ち着いたということであり、それ自体は十分な評価を与えられるべきであると同時に、最早その議論に刺激的な部分は見出しにくいということでもある。私は本書の基本的な主張に賛成するものである。それゆえにこそ、本書の元となった連載を一通り読み終えたときに私が感じたのは、失望であった。回が進むほど同じ内容が繰り返され、想像力の枯渇を感じさせた。そして部分的な加筆が為された本書においても事情は基本的に変わらず、「具体的な実装や制度論は、読者のみなさんの想像力に委ね」られることとなった(4頁)。

むろん改めてまとまった形で読んでみると、有益な発見がないではない。ツイッター民主主義が、無意識レベルでの選好を自動的に集計して最適な均衡を図ろうとする純粋に功利主義的な立場ではなく、無意識を政治アリーナ上で可視化することそのものを重視するという意味で、あくまでも民主主義を志向していることが明確にされた点は、著者の立場自体を理解する上では重要である。こうした議論を積極的にフォローしてこなかった人々にとって、本書は大いに刺激的であろうし、便宜に適うと思われる。


さて著者は、国家や企業の「外部者」が、いかなる決定権も持たないにもかかわらず、その国や企業内部の人々に大きな影響を与え得ることを指して、新しいタイプの政治と呼んでいる。そして、コミュニケーションを重視する政治観と対立を重視する政治観の双方を退け、政治の概念を「ある特定の共同体への所属を前提とする活動という意味から解き放つ必要がある」と語る(249頁)。だが、既存の境界線を越えた政治の可能性については(ステークホルダーという言葉がそれであるように)最近30年程の間にかなり頻繁に語られ続けてきた。それにもかかわらず政治が最終的には必ず境界線と結び付き、(排除を含む)コミュニケーションを帰結するものであることは、既に明らかと言ってよい。著者は無意識を数えると言う。では、無意識を数えられる主体はどのようにして定まるのだろうか。そこには既に対立が、政治の分断線が横たわっているのである*2

一般意志は「数学的な存在」であり、それは「人間の秩序にではなくモノの秩序に属する」と言われる(67頁)。繰り返し示される「数学」に対する著者の信頼は奇妙なほどだが、人々の行動履歴さえあれば、そこから人々の本当の望みが自動的に生成されるという意味で、本書の議論はこの信頼に大きく支えられている。しかし言うまでもないことだが、数学は人間が作り出した論理体系であって自然そのものではない。それは人工的な秩序に属する。数学が幾つもの規約と仮定から出発するように、誰のどこまでのデータを集め、どのように均衡させて可視化するかといった「一般意志2.0」のシステムを設計・運営するのは、人でしかない。実は著者自身が、一般意志は「そこに共同体がある限り」存在すると書いてしまっている(67頁)。「数学的存在としての一般意志」が「友敵の分断線を決して作らない」(78頁)のは、それが分断の後の共同体でしか立ち現れないからではないだろうか。

著者は「主権は一般意志に宿っている」とするが(50頁)、逆である。一般意志があるから主権があるのではなく、主権という具体的な(定義上、至高かつ単一不可分とされる)統治権力が存在するからこそ、その行使を左右する一般意志の所在や成り立ち、内容が問題とされるのである。従来の一般意志概念を実在しない「抽象的な理念」としか捉えていない点で、著者の感覚には決定的に貧しい部分がある(それを私は「政治学的想像力」と呼んだことがある)*3。非凡な哲学的想像力の成果である本書が50年後、100年後にどう評価されるのか、私は知らない。ここに記したのは、同時代の読者たる私自身の個人的な感想である。

*1:ステークホルダー・デモクラシーについては、拙著「ステークホルダー・デモクラシーの可能性」(政策空間、2010年9月29日)を参照。そこで私は、こうした立場をステークホルダー・デモクラシーの「数理的解釈」と呼んだ。

*2:リチャード・ローティの議論を持ち出すことは、何の解決にもなっていない(13章)。想像力を規制するものは共同体への帰属であり、情念の成立は理性の働きを通じて可能になる。例えば、以下を参照。

感情と法―現代アメリカ社会の政治的リベラリズム

感情と法―現代アメリカ社会の政治的リベラリズム

*3:一般意志が主権に基礎付けられるのではなく、むしろ主権の観念が誤って一般意志に還元されてしまうために、権力は道具主義的にしか理解されなくなる。権力がそれ自体として存在する動かしがたいものとして認識されておらず、道具主義的にしか理解されないから、政治の概念が簡単に刷新できるものと思われてしまう。この政治学的想像力の貧困が著者個人の問題なのか、現代の日本社会の問題なのかは、検討の余地があるかもしれない。

掲載告知:「権力と自由――「自然の暴力」についての政治学」


論文掲載のお知らせです。

10月刊行の『法政大学 大学院紀要』第67号(91-111頁)に、「権力と自由――「自然の暴力」についての政治学」と題する拙論が掲載されました。

内容は、修論の権力論(第1章第3節)と「自由の終焉」の一部(こちらから読めます)を合体させたもので、その前後に辻褄合わせで少しだけ何か言っています。


随分と大きなテーマを扱っているので、タイトルに見合うような議論が展開されているのかと言えば分かりませんが、それでも何かしら人様の思考のヒントとなり得るような一断片でも含まれているのではないかなぁ、とは期待しておるところです。

全国の大学図書館にはそれなりに所蔵されているようですので、ご興味をお持ち頂いた方には是非パラパラとめくってもらえれば幸いです(ただし第1節は冗長なので、飛ばした方がいいです)。ある程度時日が経てば、リポジトリの方にも載るのかなぁとは思いますが、定かではありません。


最近は査読なしの紀要への風当たりが強いようですが、査読というシステムを回していくことの(投稿者・査読者・編集者の三方にとっての)大変さはあまり理解されているように見えません。他方で、査読誌に比べて長い分量(今回の拙論は4万字超)を書けて、かつ投稿から比較的短い期間で掲載される紀要のメリットもまた、見過ごされがちです。双方の利点を生かせる出版と評価のシステムを目指して欲しいと思いますが、まぁこれは余談でした。

内容的に新しい論文は、今後発表していけたらと思います。今後とも宜しくお願いします。

「コンセンサス」はいつ得られるのか――3つの条件


政治・政策に関する言説に触れていると、「この問題については国民的な議論が必要である」とか「まだコンセンサスが得られているとは言えない」などといった言い回しを、よく耳にします。ところが、どうなれば国民的な議論が行われたことになり、どこまで行けばコンセンサスが得られたことになるのかは、ほとんど明らかにされません。

議論は重要ですが、永遠に議論するわけにはいきませんし、永遠に議論したとしても100%のコンセンサスが得られることはありません。いつかの時点で決定が必要とされる以上、広範な議論と合意形成を求める主張には、「最低限ここまで達成できたらコンセンサスが得られたと見なしてよい」という基準の提示が伴うべきでしょう。

難しいのは、たとえば世論調査で国民の7割から8割が原発の停止・廃炉に賛成しているとして、それをコンセンサスと見なしてよいのかどうか。もし「よい」と考えるのなら、その人はコンセンサスと多数決の違いを理解していません。「過半数では物足りないけど8割ならいいんじゃないか」というのは、単純多数決か特別多数決かという違いだけであって、多数派の意見をそのまま通すという意味では変わりません。それをコンセンサスとは呼びません。

ある方針・政策(policy)や決定に7〜8割の人が賛成しているところで、残りの少数が強硬に反対する場合、その対立をどのように調停し、実行可能な選択肢を見出していくかという局面に、コンセンサスへ向けた努力が現われるわけです。原発問題についてそうであるように、自らの主張・立場を容易に崩さない人々というのはふつう、当該のイシューに対する強い利害関心(とそれに伴う専門性)や何らかの権力を持っている個人・集団です。そしてそれゆえにこそ、方針・政策や決定を(彼らの協力を得るか、少なくとも妨害を行わせないことによって)円滑に遂行するために、対立を乗り越えたコンセンサスが目指されることになるのです。

以上を踏まえて、ある方針・政策または決定について、コンセンサスが得られたと見なすために満たすことが必要な3つの基準を、試みに示してみます。

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かかわりあいの政治学8――「チーム」はなぜ愛されるのか


野球やサッカーなどのプロスポーツを愛好する人々には、決まって「ひいき」にしているチームがあるものだ。プロ野球であれば阪神タイガースJリーグであれば浦和レッズが、それぞれ熱烈なファン(サポーター)を多く持つことで有名だろう。こうしたファンの中には、子供の頃から何十年もの間にわたり、一貫して同じチームを愛し・応援し続ける人がかなりの割合で存在する。

だが、素朴な疑問がある。年月とともに各チームの選手やスタッフは入れ替わり、チームの戦術やプレイスタイルも全く同じではいられないだろう。チームのユニフォームや本拠とする競技場、スポンサー、場合によってはチーム名さえも、変わってしまうことがあるかもしれない。すると、そうした変化にもかかわらず同じチームを愛し続けるファンたちは、一体そのチームの何を愛しているのだろうか?

実際、こうした変化に伴って、自覚的にファンをやめたり、なんとなく熱心には応援しなくなったりする人は、それなりに存在する。だが、熱心なファンの多くは、チームが経験する様々な変遷にもかかわらず、自分が応援するチームへの愛を容易には失わないようである。これは一体、何によるものなのだろうか。チームの変化がファンの愛を失わせるものではないとすれば、ある日に選手・スタッフ全員が一挙に入れ替わり、ユニフォームやチーム名も変更されて、まるきり別のチームのようになってしまっても、彼らはこのチームを応援し続けるのだろうか。

もちろん、そんなことは考えにくい。選手の入れ替わりがチームへの愛を失わせないのは、あくまでもそれが一部の選手ごとに漸次的な速度で行われる(そしてその間に新入選手をチームの一員と見る認識の形成が進む)からであって、同時に丸々入れ替わってしまったときに同じ愛が維持されることは稀であろう。逆に長い年月の中で徐々に変化が生じ、その歴史をファンが共有するのであれば、結果として(客観的に見れば)全く別のチームになっていたとしても、ファンはそれを同じチームと見る。ここでは、ある種の連続性(経路・文脈の繋がり)がカギとなっているように思われる。


このように考えてくると、チームの同一性問題は、人格の同一性をめぐる哲学的議論と似てくる。30年前には人を人とも思わないような殺人鬼だった人物が、今では虫も殺さない好々爺になっていた場合に、「30年前の彼」と「現在の彼」という2つの異なる時点における人格を直ちに同一人格と見るのは困難である。これら異時点間の人格は、そのままでは相互に直接の「連結性」を持つものではないからである。両人格を同一と考えさせる理由があるとすれば、「現在の彼」は確かに「30年前の彼」から徐々に徐々に変化した果てに存在するものであり、その間のある時期ある時期の「彼」たちの「継続性」を通じることで「つながっている」という1点しかない*1

あるチームが経た内実の変化にもかかわらず、それは自分が愛する「あのチーム」だと変わらず思えるのは、同様の思考から説明できるだろう。実質的には全く別の存在になっているとしても、その間の年月を介した結び付きに基づくなら、同じ「あのチーム」であるとの見なしが可能になるのである。こうした説明の仕方は、法人格が同じである(から同じチームだ)などといったフォーマルな制度から為し得る形式的な説明を支え、その内実を補填するものである。それは、法人格などの社会的実在に一貫した統合性を与えるメカニズムこそ、こうした「見なし」にほかならないからだ。

個々のチームには何か固有の「本質」が存在するのだと、論理的に信じられる人は(おそらく)いないだろう。しかし、人についてはそうではない。個々の人間は、その人が他でもなくその人でしか在り得ない所以たる固有の本質を持っている。そう信じている人は多い。あるいは少なくとも、固有名を持つ1人の人物の存在を何らかの確定記述――男/女であるとか、出身・国籍がどこで、何語を話し、エスニシティや階層は何であるのかとか、身長・体重はいくつで、どんな容貌をしており、どういう声で、どんな話し方をし、どのような表情を見せ、いかなる考え方を持っているのかなどなど、その人に関して記述し得る属性・情報の全て――に還元し尽くすことはできない、といった考え方に反対する人は少ないように思う。

けれども、固有名を確定記述に還元できない「余剰」とする立場は、実のところ何も説明していない。こうした立場は、ある確定記述の集合を一個体と見なすときに識別タグの役割を果たすべく付けられる固有名に「余剰」という別名を与えているだけで、そのような「見なし」がなぜ可能であるのかを何も説明しない。タグがなぜ機能するのかを説明しない。見なしを「規定」や「命名」などと呼んだところで、やはり言い換えでしかない。個体の存立について説明を与えようとするなら、年月を超えてチームを同じチームたらしめる継続性のような、一定の繋がり・結び付きの存在がなぜ見なしを可能にするのかを問わなければ、何の説明も可能にならないのである。

見なしはなぜ可能なのか。見なしを支えているものは何か。何らかの形で繋がっている、結び付いているということが、同じであること、1つであることの理由になるのはなぜか。あるまとまりが他と区別される1個として取り出されることは、いかにして可能なのか。こうしたことが問われければ、特定チームへの変わらぬ支持も、唯一人の伴侶への恒久の愛も、自分自身の存立の基盤も、何一つ本当には説明できない。

*1:細胞などの物質的連続性を考えてみても、同じことが言える。肉体を構成する物質は日々入れ替わり、その意味で数年前の私と現在の私は、全く異なる物質から構成されていることになるからである。