gated communityとリバタリアニズム


2007/07/11(水) 16:46:34 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-352.html

竹井隆人『集合住宅デモクラシー』(世界思想社、2005年)
エヴァン・マッケンジー『プライベートピア』(竹井隆人・梶浦恒男訳、世界思想社、2003年)
エドワード・J・ブレークリー&メーリー・ゲイル・スナイダー『ゲーテッド・コミュニティ』(竹井隆人訳、集文社、2004年)
五十嵐太郎『過防備都市』(中央公論新社:中公新書ラクレ、2004年)


gated communityについての主要文献にざっと目を通してみた。竹井本は非常に興味深い部分があるし、『プライベートピア』や『ゲーテッド・コミュニティ』の内容もまとめられてあるので、基本的にはそれ一冊で十分だと思う。一冊読むのも億劫なら、以前にも紹介した竹井隆人「米国のゲーテッド・コミュニティの実態」をじっくり読めば、概要は理解できるだろう。加えて、libelerさんによるエントリを幾つか挙げておく。下手に私が本の内容を要約するよりも、これらを読んだ方が理解し易いはず(私も楽だし)。


ゲーテッド・コミュニティ@Left and Right
プライベートピア@Left and Right
セキュリティ・タウン@Left and Right
足による投票@Left and Right


三番目のエントリで触れられているように、日本では、道路や公園などの共用部分を含んだ住宅地全体を囲う形のgated communityは成り立ちにくいらしい。ただ、状況は今後変わってくるかもしれないし、現にゲートと塀・フェンスで囲まれていることを売りにした商品は幾つも出てきているようだ。


軽く検索してみたところ、三井不動産の「広尾ガーデンフォレスト」が、もの凄く正面から「ゲートコミュニティ」であることを謳っている(「ゲーテッド」でないのは何故だろう)。トップページのコピーからして、「この門の、中に住む。」だから凄い。関係者インタビューno.4の「城門を築け。」も興味深い。セキュリティの項を見る限り、やはり内部に車道などがあるわけではないから、米国のgated communityとは少し区別されるべきなのかもしれないし、管理体制など細かい部分は私にはよく解らない。


竹井は、公共性という観点からgated communityに批判的な論者(酒井隆史、齋藤純一ら)に対して、日本にも見られる何重ものオートロックなどに守られた超高層分譲マンションなどを看過しながらgated communityを批判するのはおかしい、というもっともな反論をしている。「ゲーテッド・コミュニティのような物理的な閉鎖性、かつ視覚的に目立つ異様性を備えた集合住宅」ばかりではなく、「共有するロビー、廊下、駐車場などに外部者が立ち入らないようにする中高層ビル形態の集合住宅」も「共有空間への出入りを管制し、外界と遮断するという意では」、基本的に同一なわけだ(竹井前掲書、93頁、166‐167頁)。gated communityを批判している論者がオートロックと監視カメラに守られた分譲マンション(例えばこんな感じか―パークスクエア相模大野タワー&レジデンス)に住んでいたりするなら、まるで説得力が無くなってしまうだろう。


ただ、実際のところ、酒井や齋藤がそれを看過しているとは限らない。ビラまき裁判のことなどを考えれば、左派は集合住宅の共用空間への部外者の立ち入りを厳しく制限しようとする向き一般に批判的なのではないかとも思われる。門戸を完全に開いておくことはできないという前提は左派も含めて共有されているはずであるから、あるいは批判されるべき閉鎖性はあくまで程度問題だと考えた方がいいのかもしれない。そうすると、基本的方向性は一緒でも、程度の違いを重視して、gated communityと中高層マンション一般を同一視するべきではないとも考えられるかもしれない。


gated communityではないが、関連でしばしば言及される日本の例として、「タウン・セキュリティ」を謳う「リフレ岬・望海坂」がある。都市部の富裕層向けには広尾ガーデンフォレストみたいな露骨なgated communityが増えそうだが、郊外などではリフレ岬のような方向性で進んでいくのかもしれない。やはりゲートというのは象徴的意味が大きいように思うので、実際的にはもう少し外見的に開かれた印象を伴いつつ、情報技術を駆使したより効率的な監視・管理のシステムが普及していく気がする。


とはいえ、ど素人の私には未来予測はできない。関心のある方はセコムALSOKのHPを覗いてみるのも面白いかもしれない(余談:最近放送されているセコムのCM「野獣編」はむやみやたらに不安を煽っており、本当にひどい)。


gated communityを含む米国のCID(車道や公園などの広大な共用部分を伴う集合住宅地)におけるHOA(居住者によって構成される自治組合)を「私的政府」と呼ぶことについては、私自身は違和感がある。それは、あくまで既存の法制度と物理的暴力の管理体制に基盤を有する点でCIDないしHOAの独立性は限定的であるし、一定の公的領域の統治に関わっているという点で「私的」と呼び難い面が大きいと思うからである。ただ、マッケンジーによれば法人を「私的政府」と呼ぶことにはそれなりに伝統があるようなので、あまりこだわらないことにする。


私がgated communityを含むCIDについての議論を見ていく中で重要だと感じたのは、そこに居住する人々が有している、自己に関係する範囲のあらゆる物事を自らコントロールできるようにしたいという欲望である。セキュリティの問題に限らず、そうした欲望が根底的なのだと思った。


例えば、HOAがゴミ回収、街路や照明の保全、警察、消防、水道などの従来の公的サービスを代替していることを理由として、従来の地方政府への納税を拒むような動きというのは、受益者負担原理の徹底、あるいは負担とサービスの等価交換の追求として理解できる。居住者と「私的政府」の間の関係は約款に基づく私的契約であるわけだから、CIDにおける統治体制というのは、一種、(ロック的な)社会契約を現実化したものとして捉えられる。そこでは契約という具体的な「同意」に基づく統治が実現する(とされる)わけだ。HOAによって徴収される分担金=税金は自分たちが実際に同意している範囲で、自分たちが実際に享受するサービス提供に使用される(とされる)。


こうした具体的契約関係に基づく「私的政府」による統治体制を積極的に評価する人々の多くは、従来の政府の統治下においては、自分たちが納めた税金が自分たちの預かり知らぬところで(どこかの見知らぬ貧乏人のために)無駄に使われてきた、といった認識を有していると思われる。こういった認識に基づいて従来の政府への納税を拒否し、自らが負担するコストの使途を出来る限りコントロールしようとする立場は、いわゆる「連帯」とか「社会的なるもの」といった原理とは相容れない。例えば齋藤純一『公共性』(岩波書店、2000年)では、マイケル・イグナティエフ『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』(風行社、1999年)が引かれながら、見知らぬ人々同士を強制的に連帯させるシステムとしての国家の役割が積極的に評価されているが、そうした考え方は、自らが提供した資源が自らの意に反して他者のために用いられることを拒否する態度と正面から衝突する。


このように自分が負担するコストの使途を自分が望むような目的に限定するべくコントロールしたいという欲望というのは、自己決定権ないし自己所有権と呼ばれるような類の考え方から出てくるものだと思う。それは、自分の住居に近づく人間を制限したいとか、自分についての情報が流通する範囲を出来る限りコントロールしたいなどといった欲望にとっても共通の根っこなんだろう。そして、この根っこは、たぶん自由主義とか個人主義などと呼ばれるものから出てきたもので、だからやっぱりリバタリアニズムというものはリベラリズムの極北なんだなと感じる。


私は、発生的にはともかく、機能的にはHOAを「私的政府」と呼ぶべきではないと思うし、CIDが増えていっても無政府社会は到来しないと思う。個人の自己決定権やその延長にある諸権利を最終的に担保するのは、相変わらず国家権力であろう。だから、私が思うに、ここで起こっていることは政府≒統治のプライバタイゼーションと言うより、統治を一人一人の負担とニーズにより合致したものにしていくという流れであって、統治の柔軟化・個別化と見做した方がよいのではないか。この方向性の先には、「あなたはこれぐらい負担していますから、この程度のサービスが受けられます」といった形の完全にパーソナライズされた公的サービスの提供が実現されるのかもしれず、その場合には社会的なるものは失われることになりそうだ。


ただ、現実にはもう少し社会的な原理を巧く組み込んだ形が出来てくるのではないかとも思うのだが、その辺りは上手く掴めない。国家権力が存在し続けるという前提の下で、パーソナライズされた管理が可能になると考えるなら、負担の程度に基づいてサービスが切り縮められるという悲観的側面だけでなくて、社会的連帯原理を残した上でニーズの程度に基づいて個別的対応が可能になるという事態も有り得るだろうとは思う。その辺りがどのように整合されるのか、やはり上手く掴めない。いずれにせよ、未来は必ずアンビヴァレントなはずである。


プライベートピア―集合住宅による私的政府の誕生 (SEKAISHISO SEMINAR)

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ゲーテッド・コミュニティ―米国の要塞都市

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ニーズ・オブ・ストレンジャーズ

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コメント

動機について
Gated Communityに居住する人の動機って、どうなってるんでしょうかね。Setha Low "Behind The Gates"あたりでは、他者や犯罪への恐怖が強調されていた記憶がありますが、HOA的なものに基づく自治区を立ち上げようという発想は、少なくともアメリカに関する限りGated Communityとは独立に長い歴史を持っているわけで、なんとなくGated Communityが登場してきた理由とは切り離せる気がします。
2007/07/12(木) 07:43:34 | URL | charlie #CnnEYPK2 [ 編集]


どうなんでしょう。ただ、CIDには約款を利用して特定の人種や階層を排除して居住区の同質性を保とうとする姿勢が一貫して伴っているわけで、その辺りの欲望とゲート設置の欲望とは直接に結び付くような気がします。『ゲーテッド・コミュニティ』の著者達も割と、gated communityの拡大をCIDの普及の延長線上で考えているみたいです。


一般的にはセキュリティへの不安の高まりが最大の動機だとされるわけですが、『ゲーテッド・コミュニティ』における三類型では、「ライフスタイル型コミュニティ」は主にレジャー目的、「威信型コミュニティ」はステータス重視で、純粋にセキュリティ目的なのは「保安圏型コミュニティ」のみなんですよね。それとこの本に載っているgated communityの住民の話の中には、「セキュリティをそれほど重視してここに住んでいるわけではない」といったニュアンスが結構見られます。表面上の言葉だと受け取れる部分もあるでしょうけど、ゲートの中でも限られた人々としか交流が無い場合も多いようなので、総じて具体的なセキュリティへの(切迫した)不安と言うより、限られた人としか会いたくないなどの類の欲望(自己関係領域をコントロールしたい欲望)が大きいのかなという気がします。そう考えるとCID,HOA的なものより、むしろgated communityの方が特殊アメリカ的性格は薄くて、より日本との共通性が高いのかもしれません。
2007/07/12(木) 18:24:30 | URL | きはむ #- [ 編集]