デモクラシーの10冊と私が「ほんとうに望んでいたもの」


2007/08/29(水) 17:06:33 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-358.html

「民主主義とは何か」について、まとめを書きました。元記事よりは解りやすくなっているはずですが、まだ解りにくいところがあるかもしれません。色々疑問が浮かんでくる方は、デモクラシーについての10冊を挙げておきますから、そちらを参照しつつ、それぞれの考えを進めて頂ければと思います。


岡田憲治『はじめてのデモクラシー講義』(柏書房、2003年)
「デモクラシー?知ってる知ってる、おいしいやつでしょ」とか言う人のための入門書。


杉田敦『デモクラシーの論じ方』(筑摩書房:ちくま新書、2001年)
デモクラシーについての主要な論点を対話形式であぶり出した平易な本。


長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(筑摩書房:ちくま新書、2004年)
なぜ民主主義なのか?なぜ多数決なのか?という問いについて原理的に考察するための材料を提供している。


福田歓一『近代民主主義とその展望』(岩波書店:岩波新書黄版、1977年)
民主主義がごく最近まで忌み嫌われていた思想だった件を中心に、歴史的背景を把握するための簡便なスケッチ。


C.B.マクファーソン『自由民主主義は生き残れるか』(田口冨久治訳、岩波書店:岩波新書黄版、1978年)
防御型民主主義と発展型民主主義の相克を中心とした、民主主義理論史の入門書。


デヴィッド・ヘルド『民主政の諸類型』(中谷義和訳、御茶の水書房、1998年)
⑤の発展版として、民主主義(+共和主義)理論史における標準的教科書。


ロバート・A.ダール『民主主義理論の基礎』(未来社、内山秀夫訳、1970年)
ダールには平易な一般書もあるが、理論的著作として敢えてこれを。


ハンス・ケルゼン『デモクラシーの本質と価値』(西島芳二訳、岩波書店:岩波文庫、1966年)
古典一つ目は、価値相対主義者のあけすけな民主主義論。


カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』(稲葉素二訳、みすず書房、2000年)
次に、議会政治を自由主義的であって民主主義的ではないと攻撃したシュミット。


ルソー『社会契約論』(桑原武夫・前川貞次郎訳、岩波書店:岩波文庫青版、1954年)
最後は、無論ルソー。入門書や基本書を何冊読むよりも、この本を一度だけでもじっくり読む方がよっぽど勉強になると本気で思う。




さて、まとめで少し触れたのだけれど、シュミット=ナチス的な拍手喝采政治であっても、主観的には民主的であると信じられる余地がある。なぜなら、人民主権の意味内容は必ずしも自明ではないし、独裁者が民衆が望むものを与えてくれるのであれば、民衆は自己決定を為すまでもなく自己決定権が実現された(自らが支持・満足できる決定が為された)と考えるだろうから。実際、北朝鮮や中国、ロシアを含めて、現代世界のほとんどの国家が民主的であることを標榜している。それは必ずしもでたらめな僭称だと即断することはできなくて、民主的であるための要件をどの程度満たしており、民主主義の理念(自己決定権のできるだけ多くの実現)をどの程度達成しているのかについての捉え方の違いであると考えることができる。独裁下においても、統治権力を握る少数者は、あくまで平等者の中の前衛として国民を代表しているだけであり、一般意思を体現する政治を執り行うことによって、可能な限り多くの自己決定権を実現しているのであると信じられるなら、それは少なくとも体制内部では民主的であると見做され得るだろう。


これに対して「馬鹿な」と感じた人は自国の現状を翻って考えて欲しいのだが、(部分代表ではない)「国民代表」を建前とする少数の議員に一般意思の作成を委ねている統治体制は、前衛による統治と果たしてどこまで違うのであろうか(なお、「国民代表の独立性と拘束性」などを参照*1)。杉原泰雄によれば、いかなる機関であれ、一般意思の決定に直接関与するのが国民代表であり、いかなる機関が国民代表となるかは憲法に応じて異なり得るのであって、その地位は選挙とは必然的な関係を持たない(杉原泰雄『国民主権の研究』(岩波書店、1971年)、308-311頁)。もちろん現代の日本では、国民代表といえども選出母体の特殊意思にある程度拘束されざるを得ない半代表制ないし半直接制であるから、国民代表にフリーハンドが与えられているわけではない。しかしながら、命令的委任その他の制度によって被選出者の行動を直接拘束する仕組みが整備されていない以上、有権者が議員の責任を問うことができるのは基本的に定期的選挙においてでしかなく(しかも選挙は過去の責任だけを判断材料とするものではない)、国民ないし人民の利益や意思が正確に代表される保証など無い。すると結局、「前衛政治」と(少なくとも私たちが採用している)代議制民主政の間に何らか本質的な違いが存在すると言えるのか、疑わしくなってくる(この辺りのことを考えるためにも主権論を勉強することは役立つんだけどなぁ…)。


それでも私たちが自国の政治体制を民主的であると信じて疑わないのはなぜだろう。多分、かなりの自由が保障されているし、一人一票投じる権利があって、その結果として政権ができているからだろう。そして、自分たちの選挙の結果として政権ができているんだから、なんだかんだ言っても政治の結果は自分たちの自己決定の積み重ねの結果なんだろうと信じられているのだと思う。それを虚偽意識だと言っても言わなくても別にいいのだけれど、要は形式的な参加=自己決定の手続きに基づいて政治が行われている以上、その結果がどうも自分たちの望むものとは違うように思えても、ひとまず自分たちの自己決定権は実現されていると信じることができるということである(あるいはその結果こそ多くの人々が「ほんとうに望んでいたもの」なのだと信じることができる?ということなのだ)。


それならば逆に、形式的な自己決定の契機は確保されていないけれども、結果において人々が「ほんとうに望んでいたもの」を与えるような政治において、人々が「私たちの自己決定権は実現されている」と信じたとしても、それは自然なことだし、構造上は私たちの側と同じことであると言えるだろう(虚偽意識とか三次元的権力の問題は、多かれ少なかれ、どちらの側にも存在している)。こちら側では、満足ないし支持できる結果=実質的な自己決定が与えられるために、自分たちの政体は民主的であると信じられるわけだ。つまり、ある政治体制が民主的であるか否かについての主観的な認識は、その内部で人々の自己決定権が形式的ないし実質的にどの程度実現されているのかについての評価ないし印象に左右されるということだろう。


ところで、自分が「ほんとうに望んでいたもの」を実現すること=実質的な自己決定は、しばしば積極的自由の名で呼ばれる。それは必ずしも政治参加の自由を意味するわけではないが、多くの場合、政治参加の自由を意味して使われている。その理由は多分、人間は政治に参加することを通じてこそ蒙が啓かれ、人格が発展し、彼が人間として「ほんとうに望んでいたもの」を発見して「真の」自己決定が可能になるという物語が多少なりとも信じられているからである(とても信じている人々のことを卓越主義者とか共和主義者などと呼ぶ)。ルソーが「自由への強制」を避けるべきではないと訴えたのも、こうした文脈でのことだ。


しかし問題は、民衆がいちいち政治に参加せずとも独裁者ないし少数者が人民のための政治を行うことによって民衆の自己決定権≒積極的自由≒「ほんとうに望んでいたもの」は実質的に実現されると説く独裁主義ないしエリート主義と、政治参加を通じてこそ人々の自己決定権≒積極的自由≒「ほんとうに望んでいたもの」が実現されるのだから、自由への強制を敢行すべしと説く(一部の)共和主義の違いが、実質的にはよく解らないことだ。個々人が「ほんとうに望んでいたもの」が何かを判断する権限がまだしも残されていそうだという点で、前者の方が「自由」な気さえする。とはいえ、実際には折々の動員などの形で前者も後者に近い考え方と混ざり合いながら現われてくるのだろうが。うん、何か行き詰ったので、この辺りで終えておく。


TB


民主主義とは何か http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070829/p1