「刑罰は国家による復讐の肩代わり」という神話


さて、藤井誠二『殺された側の論理』(講談社、2007年)に収録されている座談会で、小宮信夫が「中世の時代は被害者に復讐する権利や決闘という方法」があったけれども近代国家になると被害者からは力が奪われて、「当初は被害者の代わりに国が復讐する役割をして」いたが「いつの間にか国は秩序を乱すという理由で加害者を罰するというようになった」と発言している(252-253頁)。これは「被害者及び死刑」でも取り上げたように、しばしば見られる見解なのであるが、果たして小宮はどういった根拠に基づいて言っているのであろうか。仮にも犯罪社会学者という専門家の言うことであるから無根拠であるはずがなかろうと思うが、とりあえず自分なりに確かめられる部分は確かめようと思い、法制史の教科書をところどころ読み直してみた。


概説 西洋法制史

概説 西洋法制史


細かい部分まで詳述することは避けるが、この本にある記述を読む限りでは、国家による刑罰が被害者による復讐を肩代わりするものとして成立した歴史的事実は見当たらない。


確かに元々、ゲルマン社会では「通常の窃盗、姦通、傷害、公然たる殺人などの事件」は「親族の復讐または訴訟に委ねられ」ていた(47頁)。この「全自由人に許された、親族集団相互の血讐」を「フェーデ」と言うのだが、この権利はしかし、身分制社会の成立とともに、騎士と都市共同体のみに限定され、一般の農民からは剥奪されていったという(108頁)。同じ頃から、フェーデは従来の意味を越えて、騎士に認められた広範な私戦権を指すようになり、無軌道なフェーデの横行によって、治安秩序が乱されるようになった(108-109頁)。そこで、12世紀以降のドイツ皇帝は、恣意的なフェーデを抑止しようと幾度か「ラント平和令」を定め、規定への違反を処罰の対象とした(111-112頁)。これがヨーロッパにおける公権力による刑罰の明示的な起源であるとされる。15世紀末には、領邦君主らと諸都市との闘争が生み出す無秩序を改善するため、フェーデの全面禁止を定めた「永久ラント平和令」が発布され、国家による私戦権の回収が進んだ(171、73頁)。


少なくとも以上の流れを追う限りでは、国家による刑罰はその最初期においても被害者による復讐を代替するものではなかったようだ。むしろ始めから、刑罰は社会全体の治安維持という一般的法益を確保する目的のためにあった。そう言わざるを得ない。そもそも、中世においては復讐が自由だったという事実そのものが、きわめて限定された階層についてのみ言えることでしかない。日本について詳しいことは分からないが、似たようなことを言える部分はあるのではないか。


国家による刑罰の独占は、元々被害者に認められていた復讐権を剥奪した結果であるから、刑罰は復讐の代替として在るものだし、そう在るべきだ。このような言説が、まことしやかに語られてそれなりの時が経過している。私は以前にその思想史的な根拠について疑問を投げかけたが、今回は法制史的な根拠も薄弱ではないかとの疑いを提起した。無論、私は素人であるから確言することは避けたいのだが、思想史的にも法制史的にも明確な根拠が見当たらないように思える以上、「刑罰=国家による復讐の肩代わり」という言説は、要するに神話の類なのではないかという印象を強くしている。