消費者主権政治が政府に要請する二重の課題


共通する疑問は、最初にすなふきんさんが述べている「「小さな政府」を求めつつ「社会保障充実」も訴える日本型支離滅裂の背景にはいったい何があるのか」ということだと思うが、そういう問題についてなら多少考えたことがあるので、昨年書いた文章から少し引いておきたい。これは政治学と言うよりも社会学的な考察で、細かい数値を扱ったわけでもない大味な議論ではあるけれども、人によっては更に突っ込んで考えるヒントぐらいにはなるかもしれない。


最後の節では、脱イデオロギー的な現代の政治を決定的に特徴付けているイデオロギーについて、歴史を辿りながら論じてみたい。そのイデオロギーとは広く言えば自由主義であり、やや狭く言えば「消費者主義」である。そのイデオロギーの浸透に従って台頭する政治イシューは「生活政治」であり、生活政治をめぐる争いが展開される政治空間の性格を一言で言うならば「消費者主権政治」である。


1962年に米国のJ.F.ケネディ大統領が宣言した消費者の4つの権利、すなわち(1)安全を求める権利、(2)知らされる権利、(3)選ぶ権利、(4)意見が聞き届けられる権利は、そのまま現代の有権者が政府や政治家に対して主張することができる権利と見做しているものに一致する*12。人々は、タックスペイヤーとして官僚の無駄遣いに激しく憤る一方で、公共サービスの受益者として厳しい要求を突き付ける*13。政府は小さく、効率的でなければならないが、同時に充実した社会保障を国民に提供しなければならない。国家は国民の安全と健康にきめ細かく配慮するべきであり、リスクに対しては迅速かつ的確な処置を施し、必要な情報を直ちに公開しなければならない。政治家には広報とプレゼンが求められ、庶民の目線で「わかりやすく」語り、世論に耳を傾けなければならない。官僚や政治家は常に潔癖かつオープンでなくてはならず、国民が統治に参加可能な範囲は大きければ大きいほどよい。こうした国民=消費者の要求――誰も反対できないように思えるそれ――が基礎付けられているのは、ネオリベラリズムと言うよりも、非イデオロギー的な何かである*14


*12:なお、日本では1968年に消費者保護基本法が制定され、70年からは国民生活センターが設置された。2008年には、消費者行政を一元化する消費者庁構想が具体的な議論に上っている。

*13:「顧客」は、コストに応じたベネフィットを求め、ベネフィットに見合うだけのコストしか負担しようとはしない。消費者のスローガンはいつでも、「より安く、より良いものを」である。

*14:誰も反対できない揚句に、誰も望んでいない裁判員制度が国民参加の掛け声の下に導入されたりする。


(「現代日本社会研究のための覚え書き――政治/イデオロギー(第2版)」、2008年10月15日、太字は原文)


ポピュリズムの進展は、「国民主権」=「ナシオン主権」から「人民主権」=「プープル主権」への移行を伴わせる。それは、曖昧な「国民」の連帯を前提とした国民代表による裁量的統治をできる限り排し、具体的な「人民」の同意=「民意」に基づく機械的行政を実現していこうとする意味で、民主化の徹底である。そこで個々人の自発的同意を統治の基礎に据える(ロック的意味での)社会契約論的立場は、行政サービスを市場的契約関係に基づく私的サービス供給と同一地平で捉える態度と密接に結び付いている*34。


行政サービスが契約関係に還元され、市場的サービスと完全に並行的に捉えられるようになると、社会的連帯そのものが失われていくだろう*35。税負担に対価性が求められる傾向が強まり、行政サービスは、税負担者が同意した内容について、負担に見合うだけの程度と範囲で提供されるようになっていく*36。抽象的な「国民」の連帯を前提としていた「ナシオン主権」期には国民代表による強行的資源再分配が正当化されていたが、「プープル主権」が徹底されれば、資源を拠出する層の同意なくして同じことはできない。民主化の歴史は「国民」の形成によって社会的連帯を生み出したが、「国民」を「人民」へと変容させることによって、「社会的なもの」の磨滅をもたらしつつある*37。


他方、サービス主体としての国家に期待される役割は、肥大化する傾向にある。それは生命と福祉を扱う領域において顕著であり、国民の多面的なセキュリティに配慮する「安全国家」ないし「予防国家」としての性格は強化される一方である*38。ネーションの分断が進み、統合性が消失すると、それでもなお共通した関心事となりうるセキュリティが焦点化され、モラルイシューよりもセキュリティイシューが求心力を持つようになる。断片化する個人がフレームとしての国家への関心を強める事態――「国民なきナショナリズム」――は(東ほか〔2008〕)、人々がもはやセキュリティでしか繋がることができない国家の治安共同体化を示している。


セキュリティが強化される中でも、「小さな政府」への志向性は維持される。公権力が管轄する範囲は拡大されながら、直接に関与する部分は縮小されていくのである。それは、国家権力の限定という自由主義的命題を裏切らずに――建前上維持しつつ――個人化する社会の要請に対応した権力布置の再編成を進める入り組んだ過程である*39。この過程を通じて、市場や市民社会における多様な活動を一段上で支援ないし評価する役割への特化という国家役割の変容が実現される。


例えば軍事および治安領域における市場と共同体への外注は、国家の負担と責任を軽減しながら、何を・誰に・どこまで許すかの権限が持つ意味を大きくし、結果として「小さくて強い政府」を作り上げる(萱野〔2007〕、69-72頁)。このように、直接介入からの選択的撤退を遂行し、福祉、教育、治安、行刑、軍事といった諸領域を民間部門に開放しつつ、競争に参加するアクターの資格や能力を評価するという形での影響力行使に傾いていく現代国家の特徴は、「評価国家」と呼ばれる。(町村〔2006-07〕)。評価国家の像を鮮明にするためには、国家権力の現代的再編成についての齋藤純一の要約が役立つ(齋藤〔2005〕、87-88頁)。


*34:「gated communityとリバタリアニズム」を参照。

*35:もとより、具体的な政治的意思決定能力の具備を前提とする「人民」集団には政治的無能力者(子ども・精神障害者・過去ないし未来世代)は含まれておらず、「プープル主権」において彼らの利害が「代理」されることはないが、事態はそれを超えた範囲に拡大する可能性を持つ。

*36:コストを負担していないサービスは提供されないし、自らが享受することのないサービスのコストを負担する必要は無いと考えられるようになる。

*37:もっとも、ネーションの解体がそれ程進んでいなければ、国家を負担に応じたサービスを提供する機関と捉えながらも、社会的連帯を維持することは可能なのかもしれない。国民の重負担に見合う公共サービスを提供している北欧諸国では、国民が政府に対して強い信頼を寄せ、それゆえに重い負担を厭わないという好循環が維持されている。こうしたリベラルな原理とソーシャルな実践の幸福な結合は、歴史的文脈はもとより、「国民」の一体性が信じられていなければ不可能ではなかろうか。

*38:「セキュリティ/リスク」の項を参照。

*39:「現状認識と評価の差異」を参照。


(「現代日本社会研究のための覚え書き――ネーション/国家」、2008年10月27日)


現今の状況がどこまで「日本型」なのかについては、よく解らない。加えて、今後の動向を見据える上では、以下のような議論も重要。


なお、きちんとオーソライズされた見解が知りたいと思う人は、引用文中で参照している文献の他、「政治を巡って今読むべき10冊」を見られたい。他にこういう議論の背景になるところを政治学者が語っているものとしては、まずハンディなところで以下だろうか(ただし記述が簡素なので想像力を必要とする)。あとはまぁ、この本でも触れられているが、ポピュリズムの議論が参考になるのかなぁ。


市民の政治学―討議デモクラシーとは何か (岩波新書)

市民の政治学―討議デモクラシーとは何か (岩波新書)