セックスは自己責任でよいのか――性のケイパビリティとセックスワークの原則自由化を考える


このブログでセクシュアリティの問題を扱ったことは、あまりない。採り上げるほどの興味を持っていないということもあるが、セクシュアリティについて語ると、多かれ少なかれ個人的経験と結び付けて考えざるを得ない部分が必然的に出てくるので、ややためらわれるということが大きい*1。ただ、以前から考えていることはあるので、一度まとめて書いておくのもいいだろう。多分に問題提起的な性格の記事で、ほとんど何も調べずに書くことになるので、ツッコミどころは多いかもしれない。批判は歓迎するが*2、十分にお返事できるかどうかはわからないので、悪しからずご了承あれ。


人間の三大欲求は食欲・性欲・睡眠欲だとよく言われるが、食欲や睡眠欲の充足は社会的な手当てが必要だと考えられているのに対して、性欲の充足は倫理学や社会政策が問題にする人間の基本的「必要need」からも除外されていると言っていい。これは実に深刻な問題である。とにかく何かを食べたい、どこでもいいから雨風のしのげる暖かい場所で寝たい、といった欲求は配慮されるのに、とにかく誰か(あの人)とセックスしたい、裸になって抱き合いたい、という真剣なニーズは徹底的に無視される。

無視されるだけならまだしも、あろうことか繁殖欲求と意図的に取り違えられ、結婚・子育ての問題へとすり替えられたりする。こんなバカげたことは無いであろう。人は結婚や繁殖と無関係にセックスをしたい動物なのだ。ほとんど誰もがそうである/あったはずなのに、誰もここに満たすべき欠乏があるとは言わない。これはおそらく、人々が半ば意識的に問題を通り過ぎているのであって、その意味で欺瞞と言わざるを得ない。


アマルティア・センが提示した「機能functioning」あるいは「潜在能力capability」という概念から考えてみよう。機能とは、ある主体が「行いうること、なりうること」を意味し、潜在能力とは、ある主体が「達成できる機能(状態と行為)の様々な組み合わせ」を意味する*3

近年、障害者へのセックス・ボランティアが公に語られるようになったが*4、あれが発している効果は両義的であり、「障害者だから自分ではできないもんね、仕方ないね」という形で、セックスパートナーを獲得できない健常者はマスターベーションで我慢して当然という規範意識を補強する結果をも生んでいる。しかし、障害者が自分の性欲を処理するという「機能」を達成できない、その「潜在能力」を持たないから手当ての必要があると認めるならば、健常者の多くだって思う様にセックスを経験できないというケイパビリティの不足には直面しているのである。違いは相対的でしかない。

健常者はマスターベーションができるからいいと考えることはできない。マスターベーションで得る充足とセックスで得る充足は同じではないからだ。セックスをしたいのなら、その相手となる恋人を獲得すればよいとの考え方も間違っている。愛情への欲求とセックスへの欲求は切り離して考えるべき問題である。愛情への欲求も満たされるべき必要と考え得るが、人の心を操作することはできない。したがって、これを社会的に手当てすることは不可能である。対して、体は売り買いすることができる。売り買いすることができるものは社会的に手当てすることができるので、セックスへの欲求は社会政策によって充足し得る対象である。

金銭が介在したセックスで動物的な欲求だけを満たしたところで人間としては虚しい、と言う人は寂しい人だ。金銭が介在した交際はみな虚しいと言うのであれば、その人はレストランで食事をしたりコンビニで商品を袋に入れてもらったりした時にも、従業員に対して人間としての尊敬や感謝を覚えない人なのであろう。この記事は、セックスだけを特別扱いはできないとの前提に成り立って書かれている。金銭が介在したセックスにおいても、相手への最低限の人間的敬意ないし謝意は普通存在するのであり、そのような人間的交流としての性格を伴って行われる「取引行為」は、決して虚しいものでも卑しいものでもない。付け加えて言うなら、セックスへの欲求は愛情への欲求とは切り離されるべきだが、全く動物的な欲求と言うわけではない。むしろ、繁殖への欲求から切り離されているように、極めて人間的な欲求であるし、場合によっては(愛情が介在しなくとも)人間的な温もりや豊かさが伴い得るのである。


では、セックスへの欲求を、実際にどのように充足したらいいか。後述するようにセックスワークを原則自由化した上で、セックスバウチャーを配ればよいのではないか。セックス産業を利用する場合にのみ使える、教育バウチャーのセックス版である。これを配布すれば、セックスへの欲求を満たすための財は、確実に保障できる。ただし、セックスは通常、家族を含む他人には知られたくない行為なので、セックスバウチャーの配布と利用は現実には難しいかもしれない。また、性欲の程度や方向性は他の欲求に比しても多様であり、セックスの機能を実現するために必要な条件は主体による差異が大きい(適切なバウチャーの額を決定するのが難しい)。したがって、セックスへのケイパビリティを確保するためには、使途を特定しないベーシックインカムを実現する方が現実的な早道だと思われる。


同時に、供給面にも手を入れる必要がある。現行、セックスワーカーの社会的地位は低すぎる。フェミニズム文化左翼の多くは、セックスワーカーについてその「性的搾取」の被害者としての側面をしきりに強調してきた*5。だが、そのようにセックスワーカーを止むを得ざる弱い立場の人々とばかり捉える見方は、セックスワーカー側の自発的動因を見ないことで結果的にステレオタイプを補強し、かえって差別を助長している面もある*6。むしろ、「セックスワーカーになるような人々」へのステレオタイプ(差別)こそが、セックスワーカーの中に自立的要素を見ることを妨げ、単純な「性的搾取」論を支えているとも言えるかもしれない。

セックスワークを「性的搾取」の一現象と捉えて「買う側」を問題視することは、セックスワーカーが職業意識や自尊感情を持つことを許さないばかりか、セックスワーカーの安全・福利のためにも役立たない。差別的なステレオタイプに基づく「弱者保護」の観点ではなく、自発的に選択され得る職業の一つとして認知することで従事者のエンパワーメントを図るとの観点から、児童を除く売買春を一定の法規制の下に合法化するべきである。

私は、臓器売買も児童など非自発的なケースを防ぐことで人身売買と区別できれば基本的に合法化し得ると考えているが、方向性は売買春も同じである*7。適切な法規制を設けてオープンな商売にすれば、組合活動などもしやすくなってセックスワーカーの権利は今以上に向上するし、行政の監督が厳しくなるのでその安全は高まる。地下経済に流れているお金が表に出てくることによって、犯罪組織等の資金源を縮小させることも期待できるだろう。


このように、財の配分と供給面の改革を同時に行うことによって、セックスへのケイパビリティはかなりの部分を社会的に手当てすることが可能になると思う。売買春が原則合法化されるとともに性教育も充実化されるとの条件付きなら、私は性犯罪への罰則をさらに強化してもいいのではないかと思う。金でセックスの問題が解決できるようになれば、性犯罪に走る人間はかなり減ると思われるからである(これは戦後日本など、歴史的・統計的に裏付けがあるはずの話)。

もちろん現実には、繁殖と切り離された性欲を社会が手当てすべき必要と見做すことに合意を取り付けることは難しいだろう。しかし既に明らかなことは、「誰かとセックスしたい(が、できない)」という欠乏が、そのような必要として見做され得る条件を十分に備えているという事実である。それは、ケイパビリティ・アプローチに基づけば自然に導かれるはずの結論でもある。ならば、少なくとも倫理学や社会政策学においては、セックスへの欲求を社会的にどう扱うかという問題について、もう少し真剣な議論の機会が持たれてもよいのではないか。

セクシュアリティの研究は、政治的・運動的なものになるか内省的なものになるかのどちらかに振れてしまう印象がしているので*8、やや違った角度から、すなわち社会的・政策的な問題提起の在り方、議論の仕方がもっとあっていいと思う。セックスバウチャーや売買春自由化を押し出すことは、そうした手段の一つになり得るのではないか。

*1:単に恥ずかしい、怖い、面倒だ、ということに加えて、そういう語り方そのものもどうなのかな、という気持ちもある。

*2:特に、フェミニズム政治理論や倫理学・社会政策方面からの反論は欲しい。

*3:Amartya Sen,Commodities and Capabilities,Elsevier Science Publishers B.V.,1985,p.10 鈴村興太郎訳『福祉の経済学』(岩波書店、1988年)33頁。

福祉の経済学―財と潜在能力

福祉の経済学―財と潜在能力

*4:

セックスボランティア (新潮文庫)

セックスボランティア (新潮文庫)

*5:むろん、フェミニズムや左翼の中にも多様な議論はあるだろうから、私の認識に当てはまらないものは在るだろう。それは教えて欲しい。

*6:一見は自発的にセックスワークに従事している人々も、構造的には家父長的/セクシズム的な権力の影響下で行動を促されているのだ、との言い方は(歴史的な重要性を別にして評価するなら)幼稚である。権力論的に言えば、性別を問わず、あらゆる主体は様々な構造的・制度的権力にさらされ、常にその影響下で行動を「選択」しているのであるから、議論は無限に遡る。したがって、この種の問題に関しては、訳知り顔でむやみに「深い」権力を語るよりも、表面的な「浅い」権力に限って対応を検討する方が賢明な態度なのである。

*7:ちなみに、ドラッグも基本的には合法化して構わないんじゃないかと思っている。この辺りについては、私はだいぶリバタリアンに近い。

*8:前者の代表がフェミニズム、後者の代表が例えば森岡正博さんだろう。