震災という不正義と、2つのメタ・ガバナンス


まもなく私たちは、3月11日という日付を再び迎える。去年のその日は、大きな地震津波があった。人が沢山死んだ。たくさん、たくさん、死んだ。同じ日に原子炉が壊れ、放射性物質が漏れた。私たちの生活は見えない怖れに汚染され、日常性はひしゃげた。


自らの命や愛する人、住まいを喪った人は不運だった。そう言えるだろうか。河野/金(2012)は、不運(misfortune)と不正義(injustice)を区別することの必要を説く。いわゆる天災と人災に対応させれば解りよいこの区別は、ジュディス・シュクラーに従うものである(Shklar 1992)。シュクラー自身が区別しながらも明確な線引きを避けたように、不運と不正義の違いは、それほど明瞭に得られるわけではない。道歩き、石につまづいて転べば、私たちはそれを不運と嘆けばよい。だが、もし私を忌む人がその石を仕込んだのだとすれば、いかにたわいがなくとも、それは不正義となろう。また、転倒を恥じた私が不運と認めることを拒み、誰かの陰謀を疑ったり、舗装や清掃の不十分に憤ったりするかもしれない。不運と思われた出来事には不正義が潜んでいるかもしれないし、不運は解釈次第で不正義と見做され得る。不運はたやすく不正義へと転化するのである。

特に現代のように政府へ期待される役割が極めて大きい社会では、過去には不運で済まされてきたことが、政府の不作為によって引き起こされた消極的不正義(passive injustice)と解釈される余地が大きく、不運と不正義の線引きはますます難しくなっている。それでも、いやそれゆえにこそ、河野/金は不運と不正義の線引きを放棄すべきではないと訴える。現代の不正義が政府の役割と深く結び付いているとすれば、それは常に政治的に定まるものであり、責任の所在は自ずから明らかとなる性質のものではない。原発事故は言うに及ばず、地震津波による被害がここまで大であったことの背後には、様々な不正義が潜んでいる可能性がある。だが、それらは私たち自身が意識的な解明と是正を行おうとする姿勢を保ち続けない限り、私たちの前から消えてしまう。何が不正義なのかは、私たちが決めるのである。


不正義はあるだろう。しかし、それを切り取っても残る不運はどうなるのか。不運は、「誰に対しても平等に(無作為に)訪れる可能性がある」(河野/金 2012: 57)。つまりある条件下では一定の確率で起こるが、それがいつ誰の身に降りかかるかは全くの偶然による。誰の恣意によるのでもない。それが不運の特徴である。他方、不正義は誰かの恣意や過誤・過失、あるいは本人による何らかの選択(不作為を含む)に結び付けられる。つまり不運が非人格的であるのに対して、不正義は人格的な性質を持つものである。河野/金がシュクラーから引き継いでいるリベラリズムは人格的権力に対する対抗が本旨であるため、非人格的な力に対する処し方を本来的に持たない*1。河野/金が最終的に不運(とそれに対する補償の正当化理由)を問題にし得ていないことは、それを証している。ここではリベラリズム固執せず、もっと別の可能性を考えてみよう。

まず不運と不正義の区別を疑うべきである。東浩紀の「ソルジェニーツィン試論」(東 2011)に描かれている状況を考えてみればよい。全体主義体制下において誰かが粛清されなければならないときに、誰が粛清されるのかが専ら確率的に定まるだけだとすれば、不正義と不運は両立している。すなわち、粛清の遂行は不正義であるとして、粛清される人はたまたま選ばれるだけであり、不運を経験している。事態としての不正義と、それを経験することの不運とは、分けて考えられる。あるいはまた、純然たる天災という不運でしかないものが帰結する惨状は、それ自体として不正義ではないのか。それをもたらしたものが人の作為/不作為であろうが、自然現象であろうが、おびただしい人が家を失い、凍え、食べるものもなくさまよう光景を見て、事態を不正義と名指すことにためらう必要があるとは思えない*2。震災は端的に不正義だった。不運は不正義を帰結する。不運と不正義は、あれかこれか式に対比されるような関係にはない。


注意を払って欲しい。私が今したことは、地震津波を自然の暴力と、文字通りに見做すことである。それらの災禍を経験することは不運でしかないが、それらがもたらす事態は不正義である。そう言っている。その意味で被災は、犯罪への遭遇による被害と変わるところはない。もちろん罪を犯した者は捕らえて罰したり、被害者へ賠償させたりすることができるし、被害者には給付金等の形で補償が行われることもある。原発事故のような人災の場合にも、例えば東京電力に賠償を求めることができる。しかし、政府の消極的不正義を問題にしない限り、天災の場合に賠償の請求相手はいない。大地や海は何も答えない。ゆえに補償がなされる。そう考えられる。

実際、そう考えてはどうだろうか。賠償を行うべき主体が存在しない自然災害において、政府が補償を行うことを正当化する理由は、その被害が暴力によってもたらされた不正義だからである。例えば貧困や飢餓をもたらすような、その時々における生の可能性の条件を阻害している不作為を、特定の主体によらない「構造的暴力」として名指したのは、ヨハン・ガルトゥングであった(ガルトゥング 1991)。これは消極的不正義よりも一層広い意味を持ち得る。ここでの可能性は、アマルティア・センが言う「ケイパビリティ」、つまりある人が現実に為し得ること(食べられる、住める、移動できるなどの「機能」)の幅と解釈できる*3。もし、このケイパビリティを保障することこそ政府が為すべき正義だと考えるなら、ケイパビリティを阻害する構造的暴力は不正義であり、その原因にかかわらず直ちに救済されるべき状態ということになる。


河野/金(2012)では、ジョン・ロールズやロナルド・ドゥオーキンの立場について、彼らは生まれの違いなど、不運が帰結する不利益は補償されるべきと考えていたとされるが、そうであるとして、ではなぜ補償されるべきなのかは問題である。よくある説明は保険原理的なもの、つまり様々な不運が「誰に対しても同等の確率で起こりえた(起こりうる)という認識」(河野/金 2012: 86)に訴えかける正当化であるが、これは想像力の限界を超えられない。不運はどこにでも降りかかり得たけれども、私は現に被災していないのであり、その事実が想像力を規定する。ハイチ地震アチェ津波に対して、私たちはどの程度の「絆」を想像し得ただろうか。

むしろケイパビリティの不充当は端的に不正義であると考えた方が、国境を越えた補償(援助)も正当化しやすいであろう。もちろん、このように考えたからといって世界大の正義が可能になるわけではない。福祉の実現は政治的に区切られる。それでも、政府の役割を不正義の除去、すなわちケイパビリティの実現に置くことは、国家と社会が対応すべき範囲をそれぞれ画定する上でも重大な指針となり、国内的にも重要な意味を持つはずである。


ケイパビリティの保障にあたって何が必要なのかを考えてみたい。被災者に対する仮設住宅の提供にあたっては、民間の賃貸住宅を公費で借り上げて供給する「借り上げ仮設」が行われているが、借り上げに留まらず、現金による家賃補助も現行法上可能であることが指摘されている(塩崎 2011a; 塩崎 2011b)。新たに造られた仮設住宅や既存の公営住宅を割り当てる場合には、隣近所に見知らぬ人同士が入居する結果として従来のコミュニティが分断されたり、立地を選べずに通勤等が不便になったりする場合が少なくないとされるのに対して、現金支給の場合にはより自由度が高くなる。例えば親族のところに身を寄せたり、友人・知人の近所に移ったりすることができるし、被災地から東京などの遠隔地に移る場合でも均等な処遇を受けられる。新しい仕事場に通う上で便利な場所に引っ越すこともできるだろう。

キャッシュ・フォー・ワークについての知見によれば、現金支給には(プログラムの目的に反した利用など)一定のリスクも存在するものの、適切な市場と政治システムが機能している場合、ニーズに対して現物ではなく現金を支給することには、十分なメリットが存在する(永松 2011: 12-15)。定まった住まいを持てること、職を得られること、コミュニティの中で好ましい人間関係を営めることなどは、それぞれ達成が望まれる機能であるけれども、相互に独立ではない。どこに住むことができるかは、どこでどのように働くことができるのか、誰とどういった人間関係を取り結ぶことができるかといったことと密接に関係している。したがって、個別の機能達成に照準した現物支給を考えるよりも現金という基本財を提供した方が、本人にとって望ましい機能の組み合わせを選択的に確保させることを通じて、各人のケイパビリティを高める場合があるだろう*4。加えて、自分自身で何を購入するか決められる「選択権」は、人々の尊厳を高める(永松 2011: 13)。ケイパビリティにおいて機能を選択できること(自由)は、それ自体1つの重要な機能であり、単なる手段に留まらない価値を持つのである(セン 1999: 61)。


政府の任務をケイパビリティの保障に求めるならば、その手段を特定の形態に限定するべき必然性はない。国や自治体が金だけを配って個々に必要な民間のサービスを利用させるモデルは、ケイパビリティを保障する上で分かりやすい例であるが、他にも様々な形態があり得るであろう*5。震災以前から言われていたような、非政府主体が公共サービスを分担する「新しい公共」論や、官による垂直的な「ガバメント」から市場活用や分権・市民参加を通じたネットワーク的な「ガバナンス」への移行を謳うガバナンス論との接続が、ここには見出せる。むろん震災と原発事故は、自衛隊10万人出動に象徴されるような組織的・集中的な資源投下を可能にする国家の有用性と*6、測り知れない影響を社会に及ぼしかねないシステムを民間企業が占有することの危険を、強く示した。しかし他方で、災害直後における「自助・共助・公助」の順が強調されるように、組織だったオペレーションが作動するまでには一定の時間がかかるため、個々様々な場面でのニーズの出現に伴って、個人やコミュニティ・NPO・企業のような非政府主体が果たすべき役割は、いつでも現れる。政府(ガバメント)の責任と役割は決して消えないが、公共サービス(ガバナンス)を担い得るのは政府だけではない(政府だけであってはならない)。これは、今次より議論の前提として共有されるべき認識である。

つまり問題はもはや、単純な政府規模の大小や「官から民へ」云々のお題目であるよりも、対応すべきニーズが何であり、そのニーズに効率的かつ効果的に対応できるサービス形態(手段、規模、主体)が何であるのかを判断・決定し、(中央・地方の)政府単位ごと/間でのサービス群をどのように組み合わせ、デザインするかという、ガバナンスのガバナンス、つまりメタ・ガバナンスなのである。ケイパビリティの保障に最終責任を持つのは政府であるとしても、その手段は多様であってよいとすれば、どのようなガバナンスが最もよくニーズを充たすのか、国・自治体と市場・市民社会の役割分担と協働のバランスをどう形作るのか(国・自治体は何にどこまで、どのようにかかわるべきか。企業やNPO、ボランティア、コミュニティに何を、どの程度任せ、どう協力すべきか)というメタ・ガバナンスが最大の焦点となる。未組織のボランティアが被災地に多数入っても、主に行政職員などが担っているボランティア・センターによる適切なコーディネーション(対応すべきニーズへのボランティアの割り当て・振り分け)がなければ、存分に機能することはできない(仁平 2011; 新 2011)。「公的セクターと市民セクターの関係は、前者が小さくなれば、その分後者が大きくなるという単純なものではない」(仁平 2011: 93)との指摘は、今後政府が担うべき役割が何であるのかを示唆している。むろん、メタ・ガバナンスの役割を政府ばかりが担う必要はないかもしれないが、相対的に大規模の資源を保有して金や情報を提供可能であり、ケイパビリティ保障を本来的任務とする政府が主としてこれを担当することに、不自然さはないだろう。


メタ・ガバナンスにはもう一つの顔がある。ガバナンスが対応すべきニーズが何であるのかを決めるのは政治であり、政治から独立して最適なガバナンスのデザインが定まることはない(「何が不正義なのかは、私たちが決めるのである」)。政党・利益団体・選挙・議会・官僚・審議会等を中心とした既存の政治システムにおける政治をガバナンスの一部と見るなら、その在り方を問い直し、政治過程を新たにデザインしていく作業も、もう1つのメタ・ガバナンス(構成する政治)として捉えなければならないだろう*7。それは、政治システムによる自己改革作業である。原発政策をどのように・どの程度転換することができるかは、現在最大の試金石となっているが、もし既存の政党政治の中でそれが不可能であるとすれば、例えばデモなどの直接行動をはじめとする社会運動や、直接投票を以て、その不全を補完しなければならない*8

政治過程のデザインについても、何か客観的・中立的に最適なデザインが存在するわけではない。「政治工学」には設計をめぐる政治があるだけであり、何を重視するかによって人々の立場は異なり得る。政治は尽きず、そして場所を選ばない。政治は政治システムだけでなく、職場や学校、家庭など、私たちの社会の隅々にまで横溢している。だからこそ、そこにメタを働かせることが重要なのである。意識しなければ、政治は、不正義は、「不運」の中に埋もれていってしまう。忘れられてしまう。社会は自然に存在しているのではない。私たちの生存と生活を日々決定している、私たちの傍にある政治をデザインし直そうとする作為の姿勢が必要なのは、私たちが面倒臭がりで、忘れっぽいからである。


日常性は、本当にあの日からひしゃげたのだろうか。実は以前からそうであったものを、私たちが忘れてしまっていただけではないのか。ならば日付などに意味はない。私たちは「震災以後」に居るのではなく、未だ「震災」の中にいるのであり、もっと言えば「震災以前」――の忘れられた「3・11」たち――の中に居続けているのである。私たちが向き合うべき政治的日常は、常に既に、今・此処にある。

文献

  • 河野勝/金慧 [2012]: 「復興を支援することは、なぜ正しいのか」鈴村興太郎ほか『復興政策をめぐる《正》と《善》――震災復興の政治経済学を求めて①』(早稲田大学出版部)、3章。

復興政策をめぐる《正》と《善》―震災復興の政治経済学を求めて? (早稲田大学ブックレット<「震災後」に考える>)

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The Faces of Injustice (The Storrs Lectures Series)

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郵便的不安たちβ 東浩紀アーカイブス1 (河出文庫)

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  • ガルトゥング, ヨハン [1969=1991]: 「暴力、平和、平和研究」『構造的暴力と平和』高柳先男ほか訳、中央大学出版部。

構造的暴力と平和 (中央大学現代政治学双書)

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不平等の再検討―潜在能力と自由

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  • 須賀晃一 [2012]: 「政策決定の前提を疑え――復興政策の評価における価値基準」鈴村ほか前掲書、2章。
  • 塩崎賢明 [2011a]: 「阪神・淡路大震災の失敗を繰り返す仮設住宅問題」『POSSE』12号 、2011年9月。

POSSE vol.12 復興と貧困

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  • 塩崎賢明 [2011b]: 「住まいの再生」佐藤滋編『東日本大震災からの復興まちづくり』大月書店、2011年12月。

東日本大震災からの復興まちづくり

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  • 作者: 鈴木浩,濱田甚三郎,富田宏,重村力,塩崎賢明,岡田昭人,海津ゆりえ,真板昭夫,鳴海邦碩,佐藤滋
  • 出版社/メーカー: 大月書店
  • 発売日: 2011/12/01
  • メディア: 単行本
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  • 永松伸吾 [2011]: 『キャッシュ・フォー・ワーク――震災復興の新しいしくみ』岩波ブックレット

キャッシュ・フォー・ワーク――震災復興の新しいしくみ (岩波ブックレット)

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  • 仁平典宏 [2011]: 「被災者支援から問い直す「新しい公共」」『POSSE』11号、2011年5月。

POSSE vol.11 〈3・11〉が揺るがした労働

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大震災後の社会学 (講談社現代新書)

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*1:拙論「権力と自由――「自然の暴力」についての政治学」を参照。

*2:これは現象と私たちとの政治だった――戦争と言ってもよい――のであり、今現在政治なのである。

*3:ケイパビリティ論についてはセン(1999)などがあるが、須賀(2012)でも扱われている。

*4:むろん、同じケイパビリティを保障するために配分すべき財は均等にならない可能性がある。

*5:金ではなく情報を提供せよとなれば、オープン・ガバメントの議論に接続されることになる。

*6:この点についてアナルコ・キャピタリズムの立場からする反論があれば、聞いてみたい。

*7:「構成する政治」としてのメタ・ガバナンスについて、拙記事「来るべきステークホルダーへの応答――政治の配分的側面と構成的側面」を参照。

*8:直接投票による補完について、拙記事「原発と直接投票――ステークホルダーの観点から」を参照。

*9:私はこの本を読んでいない。