祭りのあと―世界に外部は存在しない


この記事は「araikenさんの内田氏批判再考」「「外部」を志向することの困難」「祭りの後、逸脱の果て」「新自由主義的言説の二重構造」を素材として加筆・修正を施したものです。

近代の外部と居直り


宮台真司は、自己決定、人権、国家、共同体といった近代的諸概念の虚構性を十分自覚しながらも、その必要性ゆえに、敢えて近代を選び直すという立場を採る*1。宮台によれば、いわゆる「カルスタ・ポスコロ」と呼ばれる「文化左翼」は、近代世界が虚構の概念によって成り立っていることを暴露しただけで悦に入ってしまい、虚構の必要性を十分に認識せずに「近代の外部」を夢想しがちである。宮台は、こうした反近代的・外部礼賛主義的態度は、「すべてが虚構であるのならばなんでもありだ」という「ネオコンニヒリズム」に容易に接続しやすく、自らが掲げる恣意的な正義を正当化する態度を招きかねないとして警戒している。


そうした「居直り」は例えば、「国家の境界線はどうせ恣意的に決められたものでしかないのだから、改めてどこに引き直しても構わない」とか、「人間であるだけで不可侵の自然権を持つなんてことは単なる決まりであって嘘なんだから、黒人に人権を認めないように決まりをつくりかえてもいいだろう」などといった立場になって現れる。


近代の虚構性に対するこうした「居直り」を防ぐためには、近代を支えている諸概念が虚構であることを認めつつ、虚構であるからといって全てを同列において「なんでもあり」だと考えてはいけない、と「ネオコンニヒリズム」から一線を引く必要がある。つまり、宮台が主張するように、「五十歩百歩」の中でも「五十歩」と「百歩」の違いに注目し、近代的虚構の中でも、必要な虚構と必要でない虚構を丁寧に選り分けていかなければならない。虚構としての近代的諸概念の必要性を絶えず問い直しながら、必要である限りにおいて、それを用いざるを得ず、安易に放棄してしまうわけにはいかない。このことは、国境や人権という虚構を今すぐに放棄してしまうことが引き起こすであろう、グロテスクな暴力の連鎖を想起するだけで、直ちに明らかとなる。

多様な価値と居直り


同様のことは、より卑近な問題についても言うことができる。


例えば佐藤俊樹は、現在の日本社会では「不平等があたりまえ」という認識が広く共有されてきていると指摘する*2。佐藤によれば、そうした認識に基づいて「不平等はしかたがない」とか「今の格差は当然」といった、不平等への「居直り」が横行しているという。


ここでの「居直り」の一形態を試みに記述してみれば、「社会の構造そのものが不平等にできているのならば、努力したって仕方が無いよ。無駄な努力なんて止めて、おれはもっと違った生き方をしよう。世の中には色んな価値があるんだから、ナンバーワンよりオンリーワンを目指そうじゃないか!」といったところだろう。内田樹のように、こうした態度を「学びから降りた者の自己肯定」と呼ぶ者もいる。


近代の虚構性に対するネオコン的な居直りが、文化左翼による近代の虚構性の暴露を介してもたらされたように、「学びから降りた者の自己肯定」としての居直りをもたらしたものがある。それは、「多様な価値」の称揚であり、ナイーブな形での価値相対主義である。ネオコン的居直りが「すべてが虚構であるのならばなんでもありだ」というものだったとすれば、多様な価値の称揚に基づく居直りとは、「どうせオンリーワンならばなんでもありだ」というものである。そこでは、基本的にあらゆる価値が等価とされ、いずれを選択するのも個人の自由と考えられる。


例えば、内田樹による「学びから降りた者の自己肯定」についての一連の議論に噛み付いたaraikenは、社会が「業績主義的・生産主義的な資本主義的価値観」という一元的な価値に支配されているとした上で、そうした価値観を「支配的価値の座から降ろし、異質なものを排除しない祝祭や無目的な浪費こそを価値化すべき」であると主張する。araikenによれば、資本主義社会を前提とした「社会システムの改良や修正」においては、「基本的に現行システム以外の選択肢や可能性は考慮されていない」のであって、そこには「「外部」への視線がない」。


一元的な価値への抵抗と支配的なコードからの逸脱を推奨し、多様な価値と欲望を解放しようとする彼の言説は、「外部」への志向性からも明らかなように、文化左翼的言説と共通するところが多い。彼のような立場からは、「学びから降りた者の自己肯定」は否定的に捉えられるべきものではなく、むしろ資本主義的価値観からの逸脱として奨励されるべきものとなる。だが、近代の虚構性を暴いたからといって近代に代わり得る「外部」が姿を現すわけではないのと同様に、非資本主義的な多様な価値を無邪気に称揚したところで、資本主義社会の「外部」が姿を現すわけではない。その点を確認しておこう。

多様な価値と現状肯定


支配的な価値からの逸脱を推奨する言説が、逸脱後の具体的なビジョンを準備できていることは少ない。だが、逸脱の果てに足場が用意されていなければ、ただ谷底へ落ちるだけである。この世界、この社会から逸脱していっても生きていけるだけの環境をどこに用意することができるというのか。この世界に外部は無い。多様な価値の追求の果てに資本主義的価値観の外部に到達したつもりでいる人々は、実はどこかで内部化されているのである。オンリーワンの価値を求める若者は、非資本主義的価値を称揚する資本主義的産業の顧客や労働力として利用されている。彼らは外部に旅立ったつもりで、内部で踊らされている。


多様な価値を追求することは、それ自体として否定すべきことではない。だが、多様な価値を追求している人々とて、この世界で生きる限り、資本主義的価値観から完全に逃れるわけにはいかない。業績主義的価値観や生産主義的価値観における「負け」も別の価値観から見れば「勝ち」だと語ることは、意識の持ちようによって現実にある貧困や窮状を不可視化しようとする、一種の精神論/根性論である。多様な価値を推奨しながら、その追求を支える経済的・社会的基盤を重視しないのであれば、多様な価値を追求した結果として搾取されようが、困窮しようが、それは自分で選んだ道であるから問題にすべきではない、という自己責任論に帰着してしまう。資本主義的価値からの逸脱は推奨されるが、逸脱した者の生存や生活を保障する必要性は否定されてしまうのである。結果として、多様な価値の称揚(オンリーワン主義)が、「自らが信じる価値に基づいて夢を追い求めている彼らは幸せなはずだ」という名目で経済的・社会的格差を温存するだろう。


これは、資本主義的価値観をまるごと否定してその外部を求める言説が行き着く必然的な帰結である。資本主義的価値観による支配を問題視するからといって、「社会システムの改良や修正」を軽視してシステムそのものの転換ばかりを求めることは、現実には現状肯定しかもたらさない。つまり、全否定による現状肯定である。「根本が問題なのだから部分を変えても意味がない」という理由で、真に喫緊の課題であるはずの改良や修正は先送りにされてしまうのである。こうした危険を避けるために、われわれの世界に外部などは存在しないということを認識しておかなければならない。この世界から脱することはできない。ならば、この世界の中でわれわれは何をすることができるのか。われわれの出発点はここでしかない。

参考リンク


希望格差社会内田樹の研究室
階層化=大衆化社会の到来内田樹の研究室
サンヘドリンの法理内田樹の研究室
ニーチェとオルテガ 「貴族」と「市民」内田樹の研究室
何かが違う!@祭りの戦士
自己肯定の自画像@祭りの戦士
希望格差社会@祭りの戦士
誤読ではないともう一度考える@祭りの戦士
センセーそれはあんまりじゃございませんか………その1@祭りの戦士
現代日本―ポスト福祉国家@on the ground
センセーそれはあんまりじゃございませんか………その2@祭りの戦士
センセーそれはあんまりじゃございませんか………その3@祭りの戦士
センセーそれはあんまりじゃございませんか………その4@祭りの戦士
センセー、やっぱり違うと思います! その1@祭りの戦士
センセー、やっぱり違うと思います! その2@祭りの戦士
センセー、やっぱり違うと思います! その3@祭りの戦士
araikenさんの内田氏批判再考@on the ground
「外部」を志向することの困難@on the ground
なぜ私は内田批判をするのか その1@祭りの戦士
なぜ私は内田批判をするのか その2@祭りの戦士
「居直り」という問題 その1@祭りの戦士
「居直り」という問題 その2@祭りの戦士
内田批判のまとめ@祭りの戦士
「内田氏批判」観覧のあとがき@on the ground
祭りの後、逸脱の果て@on the ground
終わりなき祭り、果てなき逸脱@祭りの戦士
補足@祭りの戦士
祭りにまつわるエトセトラ@on the ground
免罪符は要らない@on the ground
スキゾ・キッズ@祭りの戦士
思考停止ではなくて@祭りの戦士
敵に似るというブービートラップ@on the ground
恋と革命@祭りの戦士
誘惑@祭りの戦士
隠れ布教者の誘惑に抗して@on the ground
信者なき布教者@祭りの戦士
イデオロギッシュにニートを撃て@on the ground
飯を食わねばならぬみじめさ@on the ground


日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界

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知に働けば蔵が建つ

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ポスト・モダンの左旋回

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*1:宮台真司仲正昌樹[2004]『日常・共同体・アイロニー双風舎

*2:佐藤俊樹「「勝ち負け」の欲望に取り憑かれた日本」『論座』2005年6月号