引越告知


このブログは引っ越しました。今後、更新は新ブログのみになります。

過去記事の一部を新ブログにコピーしましたが、このブログは今後も残します。

また、政治と理論研究会のブログを削除し、新ブログに統合しました。今後は研究会告知等も新ブログで行っていく予定です。

勝手ながら、引っ越し先で引き続きお読み頂ければ幸いです。

賢人政治批判のパラドクス――八代尚宏『新自由主義の復権』


八代尚宏新自由主義復権――日本経済はなぜ停滞しているのか』(中公新書、2011年)は、経済財政諮問会議などで活躍した著名な経済学者による政治的パンフレットである。その主たる眼目は、「官から民へ」「民間にできることは民間に」をスローガンとした小泉政権期の一連の改革を擁護し、同じ路線を継承した更なる改革を訴えることにある。

著者によれば、近年しばしば「市場原理主義」と同一視され、小泉改革を貫いたイデオロギーとされる「新自由主義(neo-liberalism)」は、必ずしも市場を万能視するものではない。著者によって現代経済学の標準的立場に等しいものとして位置づけ直されたこの考え方は、「政府の失敗」を強く問題視はするが、市場を健全に機能させるためのルールとしての規制の必要性は認めている。新自由主義は、一部集団の特殊権益など多くの非効率を生む過剰な政府介入を、人々のインセンティブを巧みに刺激するような賢い規制へと移し替えることを主張しているのである。

事実認識や議論の進め方について細部に首をひねる箇所は多いが、近年一部で「ネオリベ」と蔑称される立場を敢えて正面から引き受ける姿勢は、その支持・不支持を越えた称賛に足る。平清盛織田信長を持ち出して「市場主義は日本の伝統」(の少なくとも一つ)と訴える論法に説得されるかはともかく、一つの「原理・原則」を「政策の基礎となる思想」に据えて、多様な政策分野を通観的に論じてみせるその仕方において、著者と対立する論者がどれだけ対抗しえているかと言えば心許ない。

ただし、戦時の統制経済から戦後の自民党型利益分配政治までを日本型社会主義と規定し、それを改革しようとする(著者の言う)新自由主義に抵抗・反対するのは直ちに社会主義(特にソ連型のそれ)に連なる「反市場」的な立場となるかのように描くのは、戯画化のそしりを免れないだろう。巷間の「ネオリベ」批判はわら人形叩きと論評されがちだが、著者はここで逆向きに同じことをしているように見える。市場への政府介入の前提となっている「賢人政治」思想を著者は批判するが、自身が提示する改革は「経済学の基本的な考え方」に基づくものであり、それは経済財政諮問会議のような限られた「決断を示す場」を通じて実現されるべきであると語る著者の姿は、いかにも「賢人」のそれである。

いわゆる新自由主義が、その主張を実現するために強権的な政治を促しがちである(論理的にはズレがある新自由主義新保守主義の結合理由はしばしばこの点に求められる)ことは、かねてより指摘されている。しかし事の性質は、ひとり新自由主義者に限られるものではない。「イデオロギー対立の終焉」が叫ばれて久しい昨今、政策テクノクラートと化した社会科学者たちのあいだには、「〜学の基本的な考え方」に基づく「正しい政策」の合意・実施可能性への希望とそれがなかなか実現しないことへのフラストレーションが、一つの気分として共有されているように思える。「正しい思想に基づく正しい政策を行うことによって社会を良くしよう」という素朴さ(これは戯画化だろうか?)は端的に政治の無理解か軽視だが、「独裁の誘惑」(森政稔)はいつでも賢人たちを訪ねる。

しかし政治は、誰かがバカだから停滞しているわけではない。震災後に「ばらばらになってしまった」(東浩紀)私たちは、それを知っているはずである。


ステークホルダー民主主義の終焉?


池田信夫さんのブログで「ステークホルダー民主主義」が叩かれていて、それに濱口桂一郎さんが反応しています。終焉も何も、まだ始まってもいない気がするわけですが、備忘として書き留めておきます。

続きを読む

研究会「政治/理論――政治的なものについて語ること」


来たる4月21日(土)の17:00から、市ヶ谷の法政大学大学院棟で研究会を行います。報告者は私1人で、報告題目は本記事タイトル通りです。私が所属する政治学研究科政治学専攻が発行する専攻誌、『政治をめぐって』に掲載予定の内容となります。

  • 目次
    • はじめに
    • 1. 政治理論への疑い――棟梁失脚後の政治学の中で
    • 2. 政治的なものの所在――政治の社会化と社会の政治化
    • 3. 政治の理論化――ヴィジョンとしての政治理論
    • おわりに


基本的には大嶽秀夫・川崎修の両先生が提示してきた問題意識を踏襲しながら、固有のアプローチに欠けると言われる政治学アイデンティティ問題や、全体性の見通しが困難な状況下における政治理論の役割などについてお話します。浅学の身に大仰なテーマではありますが、生来が不遜な人間なので、思うところを率直に述べるつもりです。

内容的に政治とは何か、理論とは何かということはもちろん、政治学社会学の関係(いわゆる「政治的なもの」と「社会的なもの」含む)についてや、科学を「方法」によって定義することの妥当性や、学問を本質論的に問うこと(「〜とは何か?」)の意義なども扱っておりますので、政治、理論、政治学、政治理論それぞれに関心をお持ちの方の幅広い参加を歓迎しております。

参加希望の方にはファイルをお送りしますので、kihamu[at]gmail.comまでご連絡下さい。twitterでお知らせ頂いても構いません。宜しくお願い致します。

震災という不正義と、2つのメタ・ガバナンス


まもなく私たちは、3月11日という日付を再び迎える。去年のその日は、大きな地震津波があった。人が沢山死んだ。たくさん、たくさん、死んだ。同じ日に原子炉が壊れ、放射性物質が漏れた。私たちの生活は見えない怖れに汚染され、日常性はひしゃげた。


自らの命や愛する人、住まいを喪った人は不運だった。そう言えるだろうか。河野/金(2012)は、不運(misfortune)と不正義(injustice)を区別することの必要を説く。いわゆる天災と人災に対応させれば解りよいこの区別は、ジュディス・シュクラーに従うものである(Shklar 1992)。シュクラー自身が区別しながらも明確な線引きを避けたように、不運と不正義の違いは、それほど明瞭に得られるわけではない。道歩き、石につまづいて転べば、私たちはそれを不運と嘆けばよい。だが、もし私を忌む人がその石を仕込んだのだとすれば、いかにたわいがなくとも、それは不正義となろう。また、転倒を恥じた私が不運と認めることを拒み、誰かの陰謀を疑ったり、舗装や清掃の不十分に憤ったりするかもしれない。不運と思われた出来事には不正義が潜んでいるかもしれないし、不運は解釈次第で不正義と見做され得る。不運はたやすく不正義へと転化するのである。

特に現代のように政府へ期待される役割が極めて大きい社会では、過去には不運で済まされてきたことが、政府の不作為によって引き起こされた消極的不正義(passive injustice)と解釈される余地が大きく、不運と不正義の線引きはますます難しくなっている。それでも、いやそれゆえにこそ、河野/金は不運と不正義の線引きを放棄すべきではないと訴える。現代の不正義が政府の役割と深く結び付いているとすれば、それは常に政治的に定まるものであり、責任の所在は自ずから明らかとなる性質のものではない。原発事故は言うに及ばず、地震津波による被害がここまで大であったことの背後には、様々な不正義が潜んでいる可能性がある。だが、それらは私たち自身が意識的な解明と是正を行おうとする姿勢を保ち続けない限り、私たちの前から消えてしまう。何が不正義なのかは、私たちが決めるのである。

続きを読む

3・11文献リスト


震災と原発について私が読んだものの中から、菅原琢氏のブログおよび「シノドス・ジャーナルによる、3.11関連記事まとめ」に挙がっていないものを載せておきます。国・自治体のサイトも、必ずしも全部読んだわけではありませんが、挙げておきます。個人的に作っていたリストから流用したものなのでかなり穴ぼこで偏っていますが、ご参考まで。より網羅的なリストとしては、東京市政調査会の「東日本大震災に関する資料リスト」があります。

続きを読む