機能美について


批評という営みについて私はよく知らないが、ある作品を批評してその価値を測るときの基準としては、まず(1)現実との結び付き(アクチュアリティ)と、それから、(2)何らかの可能性についての展望、ヴィジョンを与えてくれるようなインスピレーション、こうした尺度があるのかな、と思う。これらはそれぞれ、現状についての認識と、未来へ向けた処方箋に対応する。批評する者は多分、作品にこれらがどのような形で内在しているかを問うのであろう。

しかし、私たちがある作品を享受するにあたって心を動かされる創造性や、浴びせられるエナジーというものは、そのような現実や未来についての含意を汲み取れるような部類のものには限られないのではないか。例えばある娯楽作品がエンターテインメントに徹している、そのことが素晴らしい、と評価するなら。何も新しくないし、とりたててメッセージと言えるようなものもない。だが、とにかく面白くて、楽しめる。批評家は、こういった作品について何と言うのだろう。私は知らないし、あまり興味もない。

まぁ、もっぱら批評をする人のことは置いておこう。それについては前からこれこれの議論がありますよ、と教えてくれる人がいれば有り難いが、まぁいなくても構わない。私が考えたのは、三つ目の尺度として、作品の(3)目的合理性、とでも言えるものがあるのかなぁ、ということである。つまり、娯楽作品ならば、とにかく鑑賞者を楽しませるということに徹し、その為には採り得るあらゆる手段を用い、そしてそれ以上の過剰な意味を求めない、といったような。必要十分な程度に徹しようとする営みが見事に達せられているのを見るとき、私たちはそこに感動を覚えないか*1

機能美、ということがある。例えばそのペンが、あるいはこのイスが、それらが奉仕すべき目的のために必要十分なだけの造りになっており、デザイン性には無頓着、色も地味、余分な装飾などありゃしない。そういう無骨な物品であったとして、それがゆえに魅力が生じる、愛着を覚える、ということはあり得るだろう(むろん、万事がそうとは行かないまでも)。別の言い方をすれば、余分なぜい肉が削ぎ落とされた、引き締まったこのボディ!ということになるのだろうが、まぁそれはいい。

考えたいのは、機能美の逆説性である。必要十分な機能に徹する、その目的を達するために余計な飾りなどは排する、その合理性。そこでは目的を達する過程に位置するものごとは全て手段であり、それ自体が価値を持つものではない。だが、その目的合理的な態度に徹することが、結果として、手段・過程そのものに不思議な魅力を帯びさせてしまう。機能美とはそういうことではないか?*2

そういうことであっても、逆説的とまでは言えないかもしれない。美はただ副次的に生まれてしまうだけで、前提となる目的合理性そのものが破壊されるわけではない。だから、言い直しておこうか。機能美は、皮肉な価値である。それは目的合理性に徹した営みにおいて、つまり目的‐手段カテゴリの行為連鎖の遂行が生み出す、それ自体で完結した自己目的的な価値である。

だから何? さぁ、どうだろうか。ただ、この機能美というものは、目的を共有しない相手からも認められ得る価値なわけだ。敵ながらアッパレ!な腕前・とか、気持ち良いぐらい見事にしてやられた・だのは、こういうのに入るだろうか。目的=中身が何であるかとは関係なく、そうした別のレベルで魅力が発せられる場合がある。もちろん、これは絶対的なものではないだろう(たぶん)。ただ、あくまでも「人それぞれ」な目的と比べると、目的‐手段カテゴリに徹しようとする意志とその達成の水準とが*3、何らか、より重要な意味を持つことがあるかもしれない、という気がする*4。もちろん、これも定かならぬインスピレーションの類に過ぎないと言われれば、そうなのであるが。

*1:もちろん、圧倒的な過剰さが面白い、という場合もあるのであるが、それはまた違った目的に奉仕する合理性と言えるような気がしないでもない。ムダの美学とでも言うのか、いずれにせよ、ここでの論とはズレる対象になる。

*2:違うのなら、そう言ってくれていい。

*3:しかしこの意志と、達成の水準とは、それぞれ分けて考えるべきかもしれない。そしてあるいは、それが決定的な区別なのかもしれない。だがその場合、意志は機能美を生むものだろうか。論は破綻してしまいそうだ。

*4:しかしこれは、もしかすると「おたく/オタク」的なフェティシズムと同じか紙一重なのだろうか。よく分からない。