人生に必要な最低限の思想


この記事は「中庸」「エゴ」「「存在」」「時間」を素材として加筆・修正を施したものです。

誰もがエゴイストである


私たちの肉体は、常に外界と接触して作用・反作用を繰り返しながら、様々な情報を得ている。精神は、肉体から得られた情報に基づいて、自らの内部に主観的な想像世界を構築する。あらゆる生命体は、自らの肉体が感知する情報に基づいた精神の働き、すなわち主観によってしか世界を認識できないため、真に客観的な現実世界を認識することは不可能である。現実世界と接触することによって肉体が得た情報から精神が再構築した想像世界が、個体にとって唯一の世界として現れる。この事実は、世界そのものが誰かの夢であっても変わらない。この世界が夢か現かを知ることはできないが、たとえ夢であったとしても、私にとってこの世界が紛れも無い事実であることは否定できない。この世界が夢であるかどうかと、この世界が事実であるかどうかとは、無関係である。


自分が居ない所では世界は止まっているのではないか、という夢想が抱かれるのは、私たちが主観しか持つことができないからである。限られた視野しか持たない私たちは、自らの認識の外にある社会や他者を、想像でしか知ることができない。それぞれの想像世界は常に接触と反発を繰り返すけれど、決して交わることは無い。他者の視点から世界を認識することは、決してできないからである。したがって、私たちは、お互いに決定的に異なる世界を生きている。私たちが得られるのは、一人一人が人生の中で経験を重ねて編んでいく独自の想像世界だけである。世界は私の認識の対象であって、私がその内部に含まれることは有り得ない。客観的な視点から自らを認識することは、決してできないからである。一個体という存在が世界そのものを把握することは永遠に不可能なのであって、その意味で私は世界から決定的に疎外されている。


どんなに普遍的かつ絶対的に思われる正義や真理でも、しょせんは主観のフィルターにかけられている。「人を殺してはいけない」という規範は単なる取り決めであって、そこに誰であっても絶対に否定できないような正当な根拠があるわけではない。倫理や道徳は、歴史的・社会的に構築されたものであり、最初から存在したものではない。この世界に唯一の正しい答えがあるわけではない。自らの主観のフィルターを外すことができる者は存在しないのであるから、真理とは最終的には推測でしかない。こうしたことをきちんと知っておくことは、自分自身と自分が生きる世界を相対化して冷静に認識するために、極めて重要である。


正義が便宜的な取り決めにすぎず、真理が確からしい推論にすぎないとしても、もちろんそれが重要でなくなるわけではない。だが、この世界には普遍的な正義や絶対的な真理が存在することができる、と根本的な部分で勘違いしていると、「正しい思想」が命じることならどんなことをしてもよいとか、「正しくない」相手にはどんなことをしてもよいなどと考えて、正義や真理の名の下に、とてつもなくグロテスクな暴力を正当化してしまいかねない。それゆえ、誰が考えたことであっても、完全に客観的な考えなどというものは決して存在しないんだということを、きちんと理解しておく必要がある。


例えば、人間は生きていくために数多くの生命を犠牲にしている。食べるだけでなく、踏み潰したり、知らずに呑み込んだり、実験の道具にしたり、様々な製品の原材料にしたりしている。私たちは、他の生物を犠牲にせずには生きていけない。けれども、そうやって他の生物を殺すことは、決して正当化できることではない。それをしないと私たちが生きていけないとしても、殺される側にしてみればそんなことは知ったことではない。言うまでもなく、残さず美味しく食べるとか、丁寧に扱うとか、そんな事後的な行為で生物の殺害が正当化されることはない。私たちが生きるために他の生物を殺すことは、私たちが生きたいがために他の生物に犠牲を強いる、私たちのエゴでしかない。このエゴを正当化しようとする倫理や道徳は、どんなものであれ、愚劣である。


生きるために他の生物を殺すことがエゴであるように、他のあらゆる行為もエゴである。私たちが行う全ての行為は、私たちがそうしたいから、するのである。利他的な行為とされていることも、エゴである。なぜなら、私たちは他者に尽くし他者を助けることによって、自らの満足を得るのであるから。強制された行為とされていることも、エゴである。なぜなら、本当にそれをしたくなければ強制に逆らえばよいのであって、強制されて何かを行うということは、逆らうよりも従った方が自分のためになると判断した結果であるから。私たちは、こうやって自らの全ての行為がエゴに基づいているということを知ることによって、正当化できない行為を正当化したり、他人に恩を着せたり、他人に責任を転嫁したり、といった欺瞞や傲慢を避けることができる。私たちは誰であってもエゴイストなのであって、まずそのことを受け止めた上で生きなければならない。

確かなものなど何もない


さて、絶対的なもの、普遍的なものはどこにも存在しないという事実は、色々な概念を相対化してくれる。例えば、様々な人種、民族、言語は、それぞれ多様な種類が複雑に混血・混合しているので、本来、互いを明確に区別することはできるものではない。現実の人種、民族、言語は、明確に分けられずにグラデーションを形成しているところに、「ここ」と決めて強引に境界線を引いた結果として生まれたものである。したがって、こうした概念に立脚して建設される国家というものの根拠は、実は著しく不安定である。国家の境界線自体、本来は分けられないところに、「ここ」と決めて強引に引かれたものである。一つの国家の中に括られる人々は、それぞれ様々な人種、民族、言語、宗教、文化、歴史などに基づく重層的な帰属意識を持っているから、こうした人々をひとまとめにすることは、本来無理なことなのだ。


家族関係も、絶対的なものではない。誰を家族であると考えるかは、各人の主観に依存するもので、遺伝上の繋がりから自動的に決定されるわけではない。また、男と女の区別は、生物学的にも精神的にもグラデーションでしかなく、男女の中間に位置する人々も現に存在する。


生と死も、不確実で流動的な概念である。生命とは何であり、どの時点をもってその始まりとするのかは、自明ではない。新生児、胎児、受精卵、精子と卵、と遡っていくと、前の世代の生命から個体をどこで分化させるかについて、確実に正しい基準があるわけではないことがわかる。また、脳の死、心臓の死、細胞の死を生物学的に判断することは可能だが、いつの時点をもって人の死であると考えるかは、社会的な合意によって決められることでしかない。生命活動が止まったとしても、その肉体が焼かれたり埋められたりして分解された物質は、この世界から消えてなくなりはしない。その物質は、また新たな生命や自然の一部となって世界に残り続けるのである。


私たちはしばしば、世界に始原と終末を設定し、その間の縦の流れによって世界を説明する。だが、こうした説明では、始原の前と終末の後を説明できない。宇宙が生まれる前には何も無かった、という説明は説明になっていない。真に「無い」という状態は有り得ない。無から有は生まれない。ならば、そもそも無は無い。歴史に始原を設定するとき、始原を生む前段階があったはずである。神による世界創造を語る宗教は、暗黙の内に神を始原の前段階に据えており、神がいかにして誕生したかを説明することはない。終末に関しても同様のことが言える。人類その他あらゆる生命が滅んだとしても、世界は存続するだろう。誰も、何もいなくなった世界でも、「何もいなくなった世界」そのものが無くなることは想定することができない。世界が有る限りは、そこから何かが生まれる可能性はある。このように始原の前と終末の後が存在するということは、有と無もまた、互いを明確に区別することができないグラデーションを形成していると言うことができる。


人種も民族も言語も国家も家族も性別も生死も有無も、その境界はいずれもグラデーションである。これらの概念の明確な境界線についてはいくら考えつくしても、唯一絶対に正しい答えなど決して出て来ない。これらの概念だけではない。全ての概念と存在は流動的かつ重層的であり、互いの境界線は曖昧である。確かなものなど何もないのである。私たち一個一個の存在は、確かに自立して固有の輪郭を持っている。だが、それと同時に、その輪郭は曖昧であり、ある意味では、それぞれの存在は緩やかに繋がって、一体となっていると考えることができる。こうした着想は、生と死という概念の流動性についての考察をさらに進めることで、より明瞭になる。

全ての存在は繋がっている


人間は死んだらどうなるのであろうか。私たちはその答えを死ぬまで知ることができない。生きている者には、人間が死んだ後どうなるかは絶対にわからない。死後の世界はあるとする議論から、死後はタンパク質になるにすぎないとする唯物論に至るまで、裏付けとなる証拠は永遠に提示できない。


だが、既に述べたように、私たちが死んでも、私たちを構成していた物質、私たちの一部は、この世界に残り続ける。それは、他の生物や自然界の新たな一部として、未来永劫に循環し続けるのである。また、私たち自身の出自について省みれば、私たち自身、前の世代の生命の一部から分化して成り立ってきた存在である。つまり、私たちはこの世界を構成する一部から成り立ち、生命活動を終了した後に、再び解体されてこの世界を構成する一部へと還っていくのである。つまり、生きていても死んでいても、私たちが世界の一部として存在し続けること自体は、何も変わらない。私たちは無から生まれるわけでも、無に帰するわけでもないのだ。


私たちの存在のあり方についてのこうした事実は、水の流転にたとえることができる。すなわち、ここに河がある。河は水の集合であるが、河全体として一つの単位とみなされる。河は海に流れ込み、海は蒸発して雨雲をつくる。そして、雨をろ過した湧き水が、河の水源となる。このように、水の流れは循環している。河は果てしない距離を流れていく。私たちは河から手で水をすくい取ることができる。すくい取った少量の水を一つの小さな単位であると考えたとき、その一単位の水はある時には河の表面に現れ、ある時には水中深くに沈む。その一単位の水は、水面に出なければ外の世界に触れることはできないが、一単位の水としての存在そのものが変化するわけではない。そして、大きな単位としての河そのものはずっと一つであり続け、変わるところがない。


私たちはこの世界の一部であり、循環する輪の一過程として過去と未来を繋いでいる。編まれ、ほどかれる、さまざまな存在の奔流の中で、私たちは流転している。私たちは死から逃れることはできないが、一体である世界の一部としての自らの位置について思いを馳せるなら、過度の恐怖を振り切り、前向きに生きていくことは可能だろう。


とはいえ、最後に一つだけ付け加えておかなければならない。私たちは同じ世界の一部として繋がっているが、個体として世界から分化している間は、私たち各々がどうしようもなく孤立していることを否定することはできない。私たちは世界の一部であるが、世界の一部としてだけ肯定されるような不完全な存在なのではなく、それ自体として完結している、欠けるところのない唯一無二の個体である。そうした単独者であるからこそ、私たちには主観しか与えられていないのであった。どうしようもない単独者としての個体という認識と、緩やかに繋がっている世界という認識は、どちらが欠けても不十分な、人生を生きるために必要最低限の思想である。