日本近現代史の語り方


2007/01/12(金) 21:51:49 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-311.html

井上勝生『幕末・維新―シリーズ日本近現代史?』(岩波書店:岩波新書、2006年)
牧原憲夫『民権と憲法―シリーズ日本近現代史?』(岩波書店:岩波新書、2006年)


岩波新書全10巻の近現代史シリーズ、既刊の二冊。


第1巻にシリーズを貫く目的意識なり何なりが一言あるかと思いきや、まるで無い。なぜ今、新書で、近現代史シリーズを企画するのか、という基本姿勢を最初に明確にしておくことは著者達にとっても読者にとっても重要だと思うので、これは残念に思う。


さて、第1巻『幕末・維新』は、江戸末期の政治システムは成熟したものであり、民衆生活は安定したものであったということを近年の研究成果から明らかにしつつ、徳川幕藩体制の再評価を図る。著者によれば、従来「弱腰」というイメージが定着していた幕府の対欧米列強政策は、実際は、東アジアの小国という現実的な自国認識に基づき、巧みな外交交渉術を用いて各国と等距離を保とうとする、合理的な外交方針によるものであった。著者が再三強調するところでは、欧米列強による日本の植民地化の危機などは、現実に存在したとは言えないものであって、そうした可能性の低い「危機」の存在を前提とする急進的改革路線の正当化に妥当性を認めることはできない、とされる。


ここで著者が抗っているのは、欧米列強による植民地化の危機を前提として、「半未開」たる江戸期日本の解体と「文明」国家日本の建設の必要性を確信し、ひいては「文明」国の一員として侵略的なアジア進出へと向かった近代日本の正当化に結び付く大国/帝国主義歴史観である。こうした歴史観の基礎は、幕府による小国主義的外交政策の可能性を閉ざした明治新政府が、その歩みに伴って後から作り上げていったものだった。だが、幕府外交の合理性と江戸末期社会の成熟性・安定性を再評価するならば、大国/帝国主義的なものとは別様の近代日本の有り得た姿を構想することができるのではないか。著者はそう問いかけているように見える。


私には著者の歴史解釈が正しいかを綿密に検討することはできないが、そのように近代日本に有り得た小国主義的選択の可能性を提示されること自体は魅力的である。もし、江戸期日本を独自に成熟・安定した社会として認識することから、「半未開」を克服した「文明」国家という近代欧米的価値観に沿った自己像ではない、新たな自己像をつむぐことができるのならば、「日本近現代史」についての新たな物語=統一的歴史観を提示することが可能になるのかもしれない。


自国の歴史を語ることは国民の共同性を形成するが、そこでどのような共同性が形成されるかは、歴史物語において、何が、どのように語られるかにかかっている。丸ごとの自己肯定も自己否定も、単なる自己陶酔でしかない。自分達が帰属する国家の歩みを批判的に捉えつつ、ポジティブに歴史を語る方法を手にすることができるのなら、何よりである。だからこそ、このシリーズの冒頭には何らかの言葉が必要だった。現在の日本で「岩波新書」という媒体を使って「日本近現代史」を語ることの意味と著者達の姿勢を、まずは示して欲しかった。


それはそれとして、第2巻『民権と憲法』は、著者の意気込みが伝わってくる第1巻よりも冷静な筆致で、1870年代後半から1880年代を描く。自由民権運動を政府・民権派・民衆の三極構造で捉える見方は説得的であり、経済政策と民衆生活、学制や天皇制などの成立、北方諸島・北海道・琉球など内国植民地政策および対外政策など、多岐にわたる明治日本の描写は手際よい。こちらは、従来の見方を覆すというよりは、よく整理された参考書として勉強になる、といった印象である。


ところで、第1巻に戻るが、私にはどうも幕末の政治勢力争いの構図と推移が呑み込みづらい。本書でもサッと読んでスッと理解できるように解り易く整理されているとは言い難く、結局明治維新がなぜ可能になったのかを明瞭に理解できたようには思えない。著者の記述によると、新政府を樹立した木戸・大久保・西郷ら少数の急進的攘夷派は、政治的に孤立しかかったかなりの少数派だったことになるようなのだが、そうだったのか。


それから、いずれも巻末に索引・略年表・参考文献が付いていることも付け加えておく。


幕末・維新―シリーズ日本近現代史〈1〉 (岩波新書)

幕末・維新―シリーズ日本近現代史〈1〉 (岩波新書)

民権と憲法―シリーズ日本近現代史〈2〉 (岩波新書)

民権と憲法―シリーズ日本近現代史〈2〉 (岩波新書)