現代日本社会研究のための覚え書き――2.スピリチュアル


前回の「覚え書き」は第一回目で手探りということと、駆け足で書いたために手元に在った情報を詰め込むだけで手一杯だったということもあり、「覚え書き」にしても、極めて不十分なものに留まっている。これではいかんということで参考文献を読み直すなどしているので、近日中に増補改訂版をアップする予定である。それは追記ではなく新たなエントリの形で上げるつもりだが、つまりこのシリーズはそういうふうに更新され得る暫定的なもの、字義通りの「覚え書き」だと理解して欲しい。前回も書いたが、今思いつく限りの予定テーマは、「教育」「市民社会」「経済」「セキュリティ」「司法」「人権」「政治」「テクノロジー」といったところ。書けるところから書いていくので、公表する順番に意味は無い。というわけで、「家族」に続く今回のテーマは「スピリチュアル」。

「心の豊かさ」への志向性


内閣府が毎年行っている「国民生活に関する世論調査」には、「今後の生活で心の豊かさと物の豊かさのどちらかに重点をおくか」との質問項目が設けられている。1978年、この問いに対して「心の豊かさ」と答えた人の割合が、「物の豊かさ」と答えた人の割合を初めて上回った(「近年「物の豊かさ」よりも「心の豊かさ」を求める傾向が強い」内閣府〔2007〕)。その後、83年頃まで両者とも40%前後の割合で拮抗し続けるが、84年以後は「心の豊かさ」を重視する人の割合が「物の豊かさ」を重視する人の割合を引き離し始め、2007年には「心の豊かさ」重視が62.6%であるのに対して、「物の豊かさ」重視は28.6%にまで低下している*1

「心の豊かさ」の内実が何を意味するのかは人それぞれに違うのかもしれないが、そこで何が求められるようになっているのか、その傾向性をある程度のまとまりにおいて観察・記述することは可能だろう。ここでは、いわゆる「スピリチュアル的なもの」が受容ないし消費されてきた歴史の中に「心の豊かさ」志向の現れを嗅ぎ取り、その流れを簡単に振り返ってみたい。


なお、私がここで「スピリチュアル的なもの」と呼ぶ範囲には、狭い意味での「スピリチュアリティ」関連の言説・運動・生活様式・商品・消費行動だけでなく、占い・超能力・オカルトなどの神秘的・脱科学的なものから、血液型に基づく性格分析や多くの代替医療などに代表される「疑似/似非科学」、さらには「エコ」「ナチュラル」「オーガニック」「ロハス」「スローライフ」「レトロ」「和」などへの志向性も含まれる。

このように広範な事象を「スピリチュアル的なもの」として一括りにするのは、一見いかにも乱暴な所作に思えるが、これらが互いに密接に結び付き合っていることは、いくつかのスピリチュアル関連サイトを眺めれば、直ぐに分かる。例えば、「スピリチュアルマガジンKAZUART」や「女性誌トリニティ:女性向けスピリチュアルマガジン 」(特に「スピリチュアル用語集」)のサイトからは、ヒーリング、アロマテラピー、ヨガ、気功、瞑想、オーラ、チャクラ、超能力、カルマ、ジャパニーズ・スピリット、精神世界、チャネリング宇宙からのメッセージ、UFO、地球、人類、エコ、スローライフフェアトレード、オーガニック、薬膳、マクロビオティックパワーストーン、前世療法、代替治療、波動、ゲルマニウム、などといった語を採り出せる。したがって、それぞれの事象固有の歴史や文脈はここでは措き、これらが結び付きつつ受容ないし消費されているという事態の方に焦点を合わせて、乱暴な括り方で記述することに理解を得たい。



ニューエイジ


本題に入ろう。スピリチュアル的なものの歴史を語る際にどこまで遡ればいいのかは難しいが、スピリチュアルへの影響をしばしば指摘される「ニューエイジ」運動が巻き起こった1970年代を一つの画期として、その少し前から始めるのが無難だろう。


第二次世界大戦後の西欧諸国や米国では、福祉国家と消費社会の成立に伴って世俗化が進行し、宗教の影響力は衰えを見せた。科学技術や産業が発展を続ければ、合理主義が浸透し、宗教的なものへの関心は薄らぐだろう。そういった観測は、ある程度まで、そしてある時期まで当たっていた。だが、1960年代後半から米国を中心に盛り上がりを見せたカウンターカルチャーは、ヒッピーに象徴されるように、近代的な文明に批判的な視線を送り、産業主義や物質主義から距離を取ろうとする姿勢を拡大させた。その際、既成の西洋文明への対抗を模索する中で、仏教、道教、ヨガ、気功、瞑想など、東洋文化が積極的に受容されることになった。

その土壌の中から現れたのが、ニューエイジである。ニューエイジは、西洋文明や近代合理主義、物質主義への反発をカウンターカルチャーから受け継ぎつつ、東洋文化神秘主義への接近を強め、意識面の改革や精神性の向上を目指す運動として、1970年代から80年代にかけて隆盛を見せた*2。そこには、エコロジーから超能力、UFOに至るまで、現代にも見られる多様なスピリチュアル的なもののほとんどが含まれていた。スピリチュアル的なものについての分析を進めるためには、ニューエイジ運動の突っ込んだ検討を避けることはできまい。


私には、突っ込んだ検討をする準備は無い。しかし、ニューエイジの発想を知るには、ニューエイジ運動に並行する形で形成された「ディープエコロジー」思想を見た方が解り易いかもしれないので、触れておこう*3ノルウェーの哲学者A.ネスの論文「シャロウエコロジーとディープエコロジー」(1973年)に始まり、B.デュヴァル&G.セッションズ『ディープエコロジー』(1985年)によって確立されたディープエコロジーは、人間中心主義から生命中心主義への転換を訴え、自然への支配ではなく、自然との調和ないし融合を目指す。重視されるのは、社会構造の転換と言うよりもむしろ、意識や価値観の変革である。まずは自己の内面を変えていくことから始め、それを通じて社会を、世界をよりよい姿に変えていくことができる。大雑把に要約すれば、このような考え方と言えるだろうか。さて、これは後述する「ロハス」などの考え方とどこまで異なっているのだろう*4


ところで、ニューエイジ運動が拡大する1970年代後半は、いわゆるファンダメンタリズムが台頭を始める時期でもある。確かに、米国における宗教右派ないしキリスト教右派の活性化は、明白にカウンターカルチャーへの反動としての側面を持っている。しかしながら、戦後の世俗化に伴う物質主義の否定という観点からすれば、それがカウンターカルチャーニューエイジと共通の役割を担った事実も見えてくるだろう。結局のところ、宗教的なもの・神秘的なもの・呪術的なものへの関心は、衰えることが無かった。その事情は、1990年代以降も基本的に変わっていないと思われる。



新宗教と精神世界


日本に目を転じよう。戦後に世俗化の時期を経た欧米諸国と異なり、日本では戦後になって新宗教が拡大を始め、高度経済成長期に信者を膨張させる。事情の違いの第一は、それら新宗教が戦前・戦中期の政府による弾圧から解放されたことによるのだろう。第二として、高度成長期には地方農家の次三男が都市に移り住んできた後、故郷や家族に代わる心の拠り所を求めて宗教に接近するケースが多かったとされる点が挙げられる。もっとも、1970年代に入ると、百万人以上の信者を持つような大型の新宗教は縮小傾向に転じたと言う(創価学会立正佼成会霊友会など)。


1974年には、ユリ・ゲラーが来日。テレビ番組で人気を博し、超能力ブームに火を点ける。さらに同年、映画『エクソシスト』が日本公開され、オカルトブームが巻き起こる。以降、学生を中心に「こっくりさん」遊びが大流行し、社会問題化する。1970年代末から1980年代前半にかけては、ニューエイジが「ニューサイエンス」などの呼び名で紹介され始め、文明批判や心の豊かさの強調などのメッセージが受容され、「精神世界」なる書棚ジャンルを確立するに至る。


並行して、新宗教にも変化が起こる。従来は、新宗教と言えども、仏教や神道などの伝統的な日本宗教の教義や儀礼を継承する部分が大きかった。ところが、1980年代から、外国の複数の宗教文化や心理学理論などを摂取した新しいタイプの団体が目立ち始めたと言う(GLA幸福の科学など*5)。なお、阿含宗を脱会した麻原彰晃がヨガ道場を開いたのは、1984年である。麻原は1986年にオウム神仙の会を設立。翌年、オウム真理教に改称し、1989年には宗教法人格を得ている。



信仰と無信仰の間で


興味深いデータがある。NHK放送文化研究所が5年毎に実施している世論調査の中に信仰についての質問が設けられているのだが、そこでは信仰の対象として神や仏の他に、「奇跡」「お守り・おふだの力」「あの世」「易・占い」などの選択肢が用意されている(図「信じているものの推移」NHK放送文化研究所編〔2004〕、138-139頁)。調査毎の推移を見ると、1973年から1978年の間に、「何も信じていない人」(図右の棒グラフで上から二番目*6)の割合が11%も少なくなっている。この変化に1974年以降の超能力/オカルトブームが一役買っていることは、おそらく間違いが無い。その後、「何も信じていない人」の割合は1983年にさらに4%減少したが、それ以降は、1993年まで1%ずつ増やしているだけである。それが、1998年には一挙に6%増加した。この間に起きたことで影響がありそうなものと言えば、地下鉄サリン事件などに伴うオウム真理教幹部の逮捕と教団の解体が挙げられる(1995年)。オウム事件後、日本社会内部において、宗教的・神秘的なものに対する懐疑・警戒の視線は厳しいものとなった、かのように思えた。



だが、2003年の調査では、「何も信じていない人」の割合は再び8%の減少を見せ、1983年の水準に戻っている。これを見る限り、宗教的・神秘的なものへの忌避は、一時的な現象に過ぎなかったことになる。加えて、注目すべきことに、98年から03年の間には「神仏のどちらかを信じている人」(棒グラフの一番下)の割合に、ほとんど変化が無い。つまり、この間の「何も信じていない人」割合の減少分は、主として「神仏以外のものだけを信じている人」(棒グラフ下から二番目)の割合に吸収されているのだ(6%増)。この点に注目して見直してみると、「神仏以外のものだけを信じている人」の割合は、少なくとも1988年以降(大まかに考えれば1973年以降)、一貫して増加していることに気付く。オウム事件を挟んだ93-98年間でも、減少したのは「神仏のどちらかを信じている人」の割合だけで、「神仏以外のものだけを信じている人」の割合は、その減少分の半ば(5%)を吸収する形で増加しているのである。つまり、オウム事件から社会が「学んだ」のは、一体何だったのだろうか? ここには巨大な問題が横たわっている。


98-03年の間に宗教を巡る事件が無かったわけではない。1999年にはライフスペースのミイラ事件が起こり、2000年には法の華三行の福永法源が逮捕され、2003年にはパナウェーブ研究所の白装束集団が騒がれた。その度にマスメディアは、また新宗教かと、憤慨と呆れと嘲笑が入り混じった視線と論評を投げ付けてきた。しかし、人々は宗教的なもの・神秘的なものと距離を広げようとするどころか、縮めているようにも見える。これは一体何によるものなのだろうか。

しばしば指摘されるように、新宗教絡みのトラブルを批判的に報道するテレビが、他方で超能力や霊能力、各種の占いなどを肯定的に取り扱った番組を毎日のように放送し続けている影響は無視できない。近年の目立った例を挙げれば、「六星占術」を掲げて人生相談を請け負う細木数子が2003年頃からテレビでの露出を増やし始め、複数のレギュラー番組を抱えるようになった*7。また、「スピリチュアル・カウンセラー」および「スピリチュアル・アーティスト」を自称する江原啓之は、2001年に刊行した著書がロングセラーとなったことを直接の契機として、マスメディアへの露出を増やし始めた。2003年からテレビでレギュラー番組を持つようになり、2005年には、現在もレギュラーとして出演中の『オーラの泉』の放送が始まっている*8

しかしながら、テレビ番組で何が採り上げられるかは視聴者の反応が少なからず斟酌されて決定されることであるから、テレビの影響力を指摘するだけでは分析として十分でない。そうした放送内容を(潜在的にでも)求め、現に消費している人々の存在そのものに目を向ける必要があるだろう。



「癒されたい」人々と、「地球に優しく」したい人々と、「忘れていた大切な何か」を取り戻したい人々


時系列的な記述に戻る。1999年頃には、いわゆる「癒し」ブームが起こった。当初は主に特定の女性芸能人や音楽の特徴を言い表す際に使われた「癒し」「癒される」「癒し系」などの表現は、急激に普及するとともに対象の限定を失って、現在でも一般に通用している*9

近年のスピリチュアルブームの立役者たる江原については、既に述べた。しかし、このブームを江原の存在だけに還元することはできない。2002年11月から、「癒しとスピリチュアルの大見本市」を標榜する「スピリチュアル・コンベンション」(通称「すぴこん」)が全国で開催されるようになっており、主催者によれば、年間11万人の動員数を持つとされる*10。スピリチュアル市場は、既に社会の内部に定着しているのかもしれない。


さて、2001年には、「スローライフ」を掲げる辻信一『スロー・イズ・ビューティフル』が公刊されている(辻〔2001〕)。スローライフとは、現代の産業社会・消費社会は生活に速度や効率を求めるあまり、資源の浪費や匿名性の上昇、精神的余裕の喪失などを引き起こしてきたとの問題意識の下に、生活を「スローダウン」させることから人間が本来あるべき姿を回復させていこうとする立場によって提唱されているライフスタイルである。

その起源は、1980年代の北イタリアにおいて、ファストフード・チェーンの進出に対抗して展開された「スローフード」運動に求めることができる*11スローフードとは、各地方の伝統や気候風土と密接に結び付いた食材や調理法を生かした食事を楽しむことだとされており、そのことによって同時に伝統文化や生物の多様性の維持、食の安全確保などが実現できると想定されている。したがって、スローライフを体現する人々は、省資源やリサイクルなどを通じてエコロジーに結び付くと同時に、地産地消や文化継承を通じて、地域共同体や伝統との関わりを強める蓋然性を持つようになる。


スローライフと非常に親和的ないし近似的であるとされるのが、「ロハスLOHAS:Lifestyles Of Health And Sustainability)」である。この言葉は、1998年に米国で作り出されたもので、地球環境や世界平和、社会正義に対して問題意識を持つとともに、自身の健康や精神性の向上、自己実現に高い関心を寄せる人々の生活様式や消費行動を意味する。日本では2002年に初めて紹介され、2004年以降には雑誌『ソトコト』を中心に採り上げられる機会を増し、多くの人に知られるようになった*12スローライフとの比較で言えば、自己啓発的な要素が相対的に多くを占めている分だけ、ニューエイジ=スピリチュアルとの結び付きは強固であると推測される。


最後に、レトロブームについて触れておきたい。2005年、1958(昭和33)年の東京下町を舞台にした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』が公開され、大ヒットを記録した*13。この作品は、「決して裕福ではなかったけれども、人間関係が濃密で温かみがあった」時代の日本を再現したとされており、現にそのように受容された。ここには、「心の豊かさ」への志向性が顕著に現われている。

過去の日本への懐古ないし憧憬を消費行動に結び付けようとする傾向は、『ALWAYS』以前から見られる。分かり易いところでテーマパークに限っても、 新横浜ラーメン博物館(1994年開業)、デックス東京ビーチ台場一丁目商店街(2002年開業)、大分県豊後高田市昭和の町(2001年開業)などが挙げられる*14



「心の豊かさ」を投射する消費


もし宗教的・神秘的・呪術的なものへの志向性が人々の間で一貫して保持されてきたのだとすれば、そこに社会の変化を読み取ることはできない。さて、変化があるとすればどこだろう。一つ考え得るのは、物質主義からの離脱を求めてスピリチュアル的なものに接近しながら、その受容の方法が市場的な消費行動以外の仕方を採ることがますます難しくなっている、ということだろうか。その消費を可能にする資源は、おそらく物質主義的ないし合理主義的な原理を徹底させた生産過程の中で得られたものであることが多いだろう。

すると、非スピリチュアル的な日常から脱するためにスピリチュアル的なものに接近するのだが、その接近を可能にする原資は非スピリチュアル的な日常から得なければならず、そうした日常の中で蓄積された不満や欠乏を埋めるために一層スピリチュアル的なものへの没入を強める、というサイクルを描いて見せることも可能だろうか。

こうしたサイクルがあるとして、その健全性を評価する基準は結局バランスであるとしか言えないような気がするのだが、ともかくも再帰的であるとはこういうことだろう。つまり、呪術的なものが日常の中に在るのではない。脱呪術化された日常から、敢えて呪術的なもの(スピリチュアル的なもの)へ近づこうとすること。それが再帰*15


なお、本来であれば血液型性格診断を代表とするいわゆる「疑似/似非科学」の歴史についても触れるべきところだが、そこまでの余裕が無かったため、今回は触れられなかった。増補の機会があれば、是非盛り込みたいと思う。




宗教 (図解雑学-絵と文章でわかりやすい!-)

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ポケット図解 宗教社会学がよ~くわかる本

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現代日本人の意識構造 (NHKブックス)

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スロー・イズ・ビューティフル (平凡社ライブラリー)

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生命観を問いなおす―エコロジーから脳死まで (ちくま新書)

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*1:内閣府大臣官房政府広報室〔2007〕2-2-(3)

*2:ニューエイジの背景と波及については、由谷〔1998〕を参照。

*3:ディープエコロジーについては、森岡〔1994〕、森岡〔1996〕を参照。

*4:たぶん違いはあるのだが、パッと聞く限りでは分からない。

*5:ただし、GLAの設立は1969年。幸福の科学は1986年。

*6:一番上の選択肢は「わからない・無回答」。見にくくて申し訳ない。

*7:細木数子」@Wikipedia

*8:江原啓之 プロフィール」@江原啓之 公式サイト。「江原啓之」@Wikipedia

*9:癒し」@Wikipedia

*10:すぴこん:癒しとスピリチュアルの大見本市 スピリチュアル・コンベンション

*11:スローフードジャパン公式ウェブサイトを参照。なお、スローフードジャパンの設立は2004年。

*12:岡田〔2007〕、参照。

*13:2007年には、続編『ALWAYS 続・三丁目の夕日』が公開された。

*14:ここで挙げたテーマパーク全てが、一様に昭和30年代を「過去」として選んでいることは興味深い。

*15:などと言うと、「しかし、本当に日常は脱呪術化されていると言えるのか? そんなことは無いはずだ」という類の反論が寄せられるのだろうか。再反論することは可能だろうけど、納得してもらうことは難しそうだ。