暴力への意志を顕わせよ、さもなければ去れ


ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力


宇野常寛ゼロ年代の想像力』(早川書房、2008年)。あまり期待していなかったのだが、思った以上に興味深く読むことができた。特に「安全に痛い」感覚についての指摘は重要で、私が「つまんない」のコメント欄で意図したかったこと(以下)が上手く言語化されているように思える。

そんなことはともかく、私は少し頭を抱えてしまいました。記憶するところでは、過去に杉田さんは東の文章を挙げつつ、「ここに○○という問題があるのは知っている。だが…」という形式的な留保によって重大/尖鋭な問題をスキップしてしまう言論態度を批判なさったことがあります。それはやや厳し過ぎる要求ではないかと思われるけれども、尤もな趣旨であることは否定できない。しかし、では、その厳しい審査基準を採用してみると、似たようなことが蔓延しているような気がして来る。ここで言う暴力の問題なら、全てが暴力的で在り得ること、何をしても暴力を行使する主体としての位置から脱出することはできないということ。それを一旦認めさえすれば、一度その事実に直面して苦しんでいる「ふう」に振る舞って見せれば、もう暴力の問題は事実上スキップできる。そんなような言論の現実が在るのではないか。例えばデリダ、あるいはデリダ的に読んだシュミットなどを介しつつ、脱暴力の不可能性についてなぞって見せるプロセスを経ることが、あたかもアリバイ作りのように働いてはいないか。「どうあっても私たちは加害者にならざるを得ないのだ…」という沈痛「そう」な呻きは、加害者たる事実を自白することを通じた逆説的な被害者ぶりっこに過ぎないのではないか。そんな仕方で暴力をめぐる問題系に触れていく彼らは、実のところ暴力そのものには興味が無い/薄いのかもしれない。暴力性について採り上げて見せるのは、彼らが本当に関心のある問題を扱う際に横槍を入れられないための下準備、左翼的であるための(?)/倫理的である(かのように見せる)ための(?)、儀式的な作法なのかもしれない。もしそうであるのなら、その振る舞いは結局、暴力の問題との決定的な直面を回避しているのだと言えます。たとえ「正当化はできない」と断っていたとしても、執拗に積み重ねられる自身の暴力性への自己言及は、「私はそれを分かっているんです」という訴えを通じた別種の正当化として遂行的な意味を帯びることでしょう。そこで目指されるのは多分、「だから(暴力的になったとしても)語っていいでしょう?」との暗黙的/遂行的な「説得」を通じた(より洗練された)特権的地位の獲得です。


私も過去には痛がって「見せた」ことがあるけれども*1、その段階はもう要らない*2。ただし、踏み出す行き先は著者とは異なる。いわば(左旋回以前の)文化左翼ネオコンニヒリズムの間を行こうとするのが著者ならば、私はネオコンニヒリズムを突き抜けた先に踏み出したい――との表現が適切なのかどうか。この点については、その内に書く「展望」で触れられればいいと思う。


ところで、批評としてはこの本に書かれているような見通しと処方箋でいいのかもしれないが、どうも物足りない。この物足りなさは、東や宮台その他の社会学者の議論にも共通する物足りなさだ。何が足りないのかは何となく分かっていて、それは多分、政治学的想像力である。もしかしたら、デモクラシー(民主主義/民主政)の問題、と言い換えてもいいのかもしれない。まぁ具体的にはともかく、今のところ、その辺りのことを意識しながら考えていければいいな、と思っている。

*1:例えば卒論末尾。

*2:修論ではその段階から一歩ないし半歩踏み出せていた、のかどうか。