クジ引きは民主的か?


クジ引きは民主的だと言われる。デモクラシーにとっての理想は、人民の中からクジで選ばれた人々が公職を担当することだと考えている人は多い。古代ギリシアの実例に範を採りながら、クジ引きこそ政治的平等と人民主権を究極的に実現する方法だと見なすのである。しかし実際には、クジ引きに民主的な要素など何もない*1


デモクラシーと多数決の関係を考えてみれば解る*2。多数決は何らかの決定を行うための一方式であり、それ自体は民主的でも何でもない。有力貴族の間で次の国王を選ぶ際にも多数決は使えるのであって、多数決を行えば民主的と言えるわけではない。同様に、独裁者が次に誰を銃殺しようか決める際にもクジ引きは採られ得るから、クジ引きそのものが民主的な性格を有しているわけではない。

それにもかかわらず、クジ引きが民主的な方法だと見なされがちなのは何故か。錯覚がもたらされる経路を、デモクラシーの2つの構成要件である政治的平等と人民主権の両面から正してみたい。後者から書く。


人民主権が単に「人民のための統治」に留まらず、「人民による統治」を意味するとしても、それは統治に伴う公共サービスを全て人民の手で担うこと(自主管理)を要請するだろうか。統治を人民が担うべき理由は(政治主体の涵養など)幾つか考えられるが、それを完全に自己目的化して、結果的に人民の利益が著しく損なわれてもよいとする解釈は見ない。「人民による統治」が人民のために求められるのだとすれば、クジで選出された公務員のパフォーマンスが(少なくとも)一定水準を下回らないとの保証が得られない限り、人民主権からクジ引きの採用を導き出すことはできない。

統治パフォーマンスの保証を得るためには、人民の政治・行政能力が一定水準以上に平準化されていなければならない。だが、デモクラシーが求める政治的平等は政治的諸権利/諸状態の平等であり、能力の平等までを含意しない。古代ギリシアのように奴隷制が主体の均質性と時間的余裕を保障し、また公職者に求められる能力的水準もそれほど高くなかったであろう社会ならば、一定水準以上に平準化された政治・行政主体を確保し続けることも可能だったかもしれない。しかし、それはデモクラシーがクジ引きの採用を許容する場合の条件がたまたま整った稀有な例なのであって、デモクラシーの理想や本質がクジ引きであることを示すわけではない。

近代以降のデモクラシーでは階級的敵対性が持ち込まれたために主体の均質性を前提することができなくなり、現代では階級的対立軸を超えた多様性が露わになることで、むしろ不等なるものの間に統一的な決定を為すためにこそ、デモクラシーが考えられている。この時代差は、デモクラシーの理想が環境条件の変化によって不可能になったことを示すものではない。そうではなく、デモクラシーの要請を実現するための手段を選択する際に前提となる環境条件が変わった、ということである。デモクラシーの内在的論理は基本的に同一であり、現代でも条件が整えばクジ引きを使うことがあり得るだろうし、デモクラシーを適用すべき社会集団がより拡大して考えられていたら、アテネでもクジ引きは採らなかっただろう。


注意しておくべきは、前‐デモクラシー的な政治的条件である。主権を握るべき人民とは誰か。政治的平等が実現されるべき集団はどこまでか。そして、それらはいかにして決まるのか。仮にデモクラシーにとってクジ引きが望ましいとしても、誰がクジを引けるのか/引くべきかをクジで決めることはできないし、しばしばデモクラシーによっても、そうである。デモクラシーは常に、その内在的論理のみならず、外的条件との関係でも考えられねばならない。それは、デモクラシーが決定と不可分に結び付くために、それを可能にする力(主権)の性質や、決定を規定する前‐決定と無関係にはあり得ないからである。

なお、上で述べたことについて、統治の全てを人民が担えるのならその方が望ましく、クジ引きを可能にするような政治主体を持続的に生み出すこともまた、デモクラシーが要請するところである、と反論する立場があるかもしれない。あるいは、人民による統治は人民に統治主体としての能力を備えることを要請するから、クジ引きに耐え得るような一定水準以上の能力を身に付けることは、本来的には責務として為されねばならない、との立論も可能かもしれない。

こうした考え方は、むしろクジ引きを理想とした上でそれを可能にする条件をデモクラシーのあるべき姿として語っているように見え、論理が転倒している。人民に一定程度の能力が必要であることは確かであるし、そうした能力の獲得を責務と捉えることはあり得るだろうが、公職担当者をクジ引きできる程の状態までをデモクラシーが要請するわけではない*3。デモクラシーの理想を間違った方向に引き上げるべきではないし、理想とすべき状態の全てをデモクラシーの名の下に語ってはいけない。デモクラシーの守備範囲を適切に限定した上で、その外に出されたものとデモクラシーとの関係を明らかにする形での議論が必要とされる。


クジの原理は、デモクラシーとは独立に考察されるべきである。クジにとって本質的なことは何か。集合から無作為に抽出する公平性であろうか。確かに、クジはその対象範囲を同一確率の下に置くことで、その公平性を内的に完結させているように思える。だが、同じことは1人1票の多数決の場合にも言える。そして、多数決が票数の割り当てを変えることができるように、クジにおいても設定次第で確率を操作することができる。

むしろ、公平性が確率的に担保されるそのメカニズム、すなわち、機械的に選択されるしかない受動性こそがクジの本質ではなかろうか。能動的行為を必要とする投票とは違い、クジは予め定められた確率に従って答えを算出/産出するだけであり、それが一度駆動し始めれば、結果を拒否することはできない。公平なる確率の神意に逆らうことは、人の恣意でしかないからである。この算術的正義こそがクジ引きを直接に正当化する根拠であり、公平性はおそらくその表層でしかないだろう。

このように捉えるならば、クジ引きはむしろ、能動的な決定へのモメントを核とするデモクラシーとは対照的な原理とさえ思えてくる。むろん、デモクラシーはクジ引きを用い得る。だが、この神的な原理を神ならぬ私たちがどのように用いるべきなのか、用いることができるのかは、例えば「生存のクジ」のような具体的局面と結び付けながら考えられなければならない。

*1:本エントリは、http://d.hatena.ne.jp/ima-inat/20100710/1278784857を読んで、7月11日の夜明け前ぐらいにした一連のtweetが元になっています。http://twilog.org/ryusukematsuo/date-100711の下の方です。

*2:この点については、「民主主義とは何か」、「10代のための「民主主義とは何か」」を参照。

*3:さらに言えば、仮にそうした状態があったとしても、それがクジ引きをしなければならない積極的理由になるわけではなく、やりたい人がやればいい、とする結論は依然としてあり得る。