新自由主義からgated communityまでの雑感


2007/04/21(土) 00:08:04 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-334.html

まだ途中までしか読んでいないが、デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』(作品社、2007年)では、「理論としての新自由主義」と「実践としての新自由主義」が区別されつつ、議論が進められている。その上で両者の矛盾が取り上げられたりするわけだが、ここで「理論としての新自由主義」として想定されているのは、要するにハイエクとかM.フリードマンなど、あるいはその系譜に連なる立場の人々なんだろう(「新古典派経済学だ」とも言っていたかも)。


新自由主義と呼ばれているものをどう理解するか、というのは保守主義の問題も絡んできて非常にややこしいわけだが、とりあえずわかりやすくするために「理論としての新自由主義」はリバタリアニズムを意味するとざっくりと整理してしまった方がいいかもしれない(ないしは古典的自由主義だろうか)。それは、ひとまず非人称的な一貫した思想的・理論的立場として。


これが実践面で矛盾を生じるようになるのは、個別的利害や地位・立場といった人称的な(お望みなら、階級的な)思惑が絡んでくるからだろう。あるいは、国家毎の個別事情(政治体制・政治状況・経済状況・文化・歴史その他)による経路依存性とかね。他者に対しては市場原理主義的に振舞う国家・企業・個人が自分のことになると一転して保護主義的になる、といった話。個人的には、「新自由主義」といったレッテルないし「ネオリベ」といった蔑称は、こうした俗っぽい水準で使う方が好ましいと思うが、ただ、これは趣味の問題かもしれない。


自分を省みるに、現実の問題を考えるにしても、思想史的・理論的側面から接近していった方が向いていると思うので、ポツポツとリバタリアニズム自由主義思想について改めて復習していけたらいいな、と思う今日この頃。


そうした思いもあってネットサーフィンしつつ、個人的に懐かしいサイトを見たり見なかったり。関連で、gated communityについてのリンクを貼っておく。


http://homepage1.nifty.com/ebizuka/hikaku/0406takei-re.pdf


http://www.kohsei-const.co.jp/chobitto/050406.html


上に挙げたレジュメは、ウェブ上では多分最も参考になる。私は関連文献未読。この人の本もすごく面白そうなのだが、残念ながらまだ読めていない。下のリンクも同じ人の話であり、私はどうしても「コミュニタリアニズムの夢」の話を思い出す*1


『東京から考える』的議論とも当然つながっていくだろうということもあるが、やはり批判するのは容易くとも、それで済む問題ではなかろう。自治、ガバナンスといった話になれば望ましい、否定できない面があるし、もっとこう開放的なgated community、と言うのは形容矛盾だが、排他的排他的していない形(?)になっていくとすれば、どういうふうに捉えていくべきなのか。それはある意味ですごく望ましい形にデザインできるかもしれないし、治安共同体的不安に支配される結果しか生まないかもしれない。だからこそ、全否定ではなくどういう形なら許容できるのか、具体論が要求されるわけだなんだが…。果たして左派はそれを提供できるのだろうか(ああ、なんか傍観者的だね)。


新自由主義―その歴史的展開と現在

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東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

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