幾つかの局地戦と「大局」



論座』2007年11月号。小熊英二の談話と鈴木謙介の対談だけ立ち読み。

小熊の記事は戦後左翼運動史を概説して「プレカリアート」運動(?)の位置づけを語るもの。まぁそうだねーって感じだが、その話はどっか別の場でした方がいいんでないの。『論座』の読者に向かって話してもな。

鈴木さんと誰かの対談を読んでいたら、何となく鈴木さんの立場がようやく分かるような気がしてきたのだけれど、もう忘れた。ここしばらく私の中で、赤木智弘後藤和智宮台真司鈴木謙介などの言説と立場を(私なりに理解したものを)勝手に擦り合わせたり戦わせたりしているのだが、特段何かを言えるまで思考がまとまることはない。(価値的含みは無く)前二者(+お望みなら「ニセ科学」批判者)が局地戦であるのに対して後二者はもっと広く戦場全体を見ているということは明確だが、後二者間には明らかにスタンスの違いがあるし、前二者の間にも潜在的な対立点があるはずだと思う。

赤木さん(+後藤さん)と鈴木さんの議論の交錯は以下。他にも鈴木批判をしている人がいることは知っているが、個人的にそれらの記事の一部を読み進めようとするとなぜか体調を崩しそうになるので、はしょる。あと、後藤さんの宮台批判も加えておく。


■ 鶏口となるも牛後となるなかれ

http://www.journalism.jp/t-akagi/2007/06/post_222.html

■[ラジオ]文化系トークラジオLife 鈴木謙介、赤木・後藤発言

http://d.hatena.ne.jp/syakekan/20070626#1182926995

■ この人は本当に頭が悪いと思う

http://www.journalism.jp/t-akagi/2007/07/post_224.html

俗流若者論ケースファイル85・石原慎太郎宮台真司

http://kgotoworks.cocolog-nifty.com/youthjournalism/2007/08/85_1c26.html


鈴木さんが「アナーキズム」の語を緩い意味で使おうとすることについて、私は賛成しない。ネオリベに掉さしかねないという意味で使うのなら、「リバタリアニズム」の方がしっくりくるだろう。

他方で「ネオリベ」=右の思想とか、「ネオリベ」=階級擁護の思想などといった感じのイメージが固着してしまっているのかな、と思う。D.ハーヴェイ言うところの「理論的」なネオリベラリズムリバタリアニズムであれば、別に必ずしも右寄りとは言えないし、流動化の帰結としての階層化は推し進めるにしても、階層間の流動性上昇も全然抑えようとしないはずである。ま、巷間に流布しているところの「ネオリベ」は「実践的」で特定階層の利害に根差した立場として理解されているのだろうが、その辺の用語に関しては無用な対立を解きほぐす余地はありそう(余計なお世話)。

後藤さんについては「信者」とか「絶望」とか、何で極から極にしか行けないのかな、という思いはあるけれど、いずれにしても局地で戦っている人間が大局見ている「ふう」な人間に咬み付きたくなるのは自然の摂理なのだろう。またこんなぼやけたことを言っていると自分だけ「俯瞰的な立場」に立ったつもりになるなと批判されそうだし、その批判の趣旨は凄くよく解る(と言うか言われるまでもない)。ただ、私は鈴木さんに相対的な共感を寄せずにはいられないなぁ。

そういえば私もイラク戦争への反対デモ、凄く迷った末に行かなかったな。まぁそれは、あんまり関係無いかも知れませんが。