東的国家観について


大澤真幸『逆接の民主主義』(角川書店角川oneテーマ21、2008年)の酷書評を書こうかと思ったのだけれど、それより東浩紀のエントリに触れた方が面白そうだし、生産的な気もするので、そうする。過去のエントリも含めて挙げる。

シンポに向けてのメモ
http://www.hirokiazuma.com/archives/000361.html


シンポに向けてのメモ2
http://www.hirokiazuma.com/archives/000362.html


信頼社会は不安社会よりいいのか?
http://www.hirokiazuma.com/archives/000394.html


東・萱野・赤木・宮台・安藤馨あたりを絡めてまとまったエントリを書こうと試みたことは何度かあるが、その度に挫折している。おかげであちこちに断片的なメモ書きが溜まって困っている。あいにく負債をきちんと処理することは未だできそうにないので、とりあえず確言できる点だけ書いておく。


東は線引き問題(シティズンシップの問題)をスキップしたいようだが、それは無理だ。「政治」を「社会共通の資源のよりよい管理方法を目指す活動」と定義するのは自由だが、その場合にも、どこまでの範囲が「社会」に含まれるのか、という「線引き問題」は残る。重要なのは「資源配分」だけだよ、と言っても、では「資源」を「誰」に配分するのかということは、問われないわけにはいかない。それを「政治」とは呼ばないことにするとしても、シュミットの亡霊を振り払えたことにはならない。

「不安ベース」の社会でも、セキュリティのシステムがしっかり機能していれば、リスクは抑えられ、誰とでも「安心」して取引やコミュニケーションができると言う。だが、そのセキュリティが及ぶ範囲はどこまでなのか。そして、システムを支えているのは誰なのか。システムを設計・運営するのは誰で、(それほど高くないとはいえ)そのコストを負担するのは誰なのか。コストを負担していない者にもセキュリティ機能は提供されるのか?されるとしたら、負担者の同意はどのように取り付けられるのだろう?そこでは結局、システムを成り立たせるための前提として、既に線引きが為されているのではないか?

東は、一方で富の再配分の必要性を肯定しながら、自らの構想の中でそれがどのようにして実現されるのかについて、(今のところ)明確な答えを提出していない。別所でベーシックインカムへの期待感が表明されているが、「小さな公共圏」の林立が国家単位の「公共圏」に止揚される回路を塞いでいる東構想の中で、ベーシックインカムの導入を可能にする政治的・社会的条件がどのようにして用意されるのかは不明である。この点については、田村哲樹「国家への信頼、社会における連帯」『世界』2008年4月号(通号777号)に対する濱口さんの論評が参照に値する。

ナショナリティにも労働にも立脚しない普遍的な福祉なんてあるのか
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_0a8b.html


「連帯」を言う人が、ナショナリティを横に措くことはできない。濱口さんが的確に指摘しているように、そもそも労働やベーシックインカムは、独立した選択肢ではない。その背景ないし基盤にナショナリティという線引き問題が在って成立している*1。選別主義と普遍主義という区別は解るけれども、そこでの「普遍」が一定の範囲限定に基づくものであることについて注意を促す書き手が多くないことは、残念なことだ。ソーシャルであることには必然的に排除が付きまとうのであって、ソーシャルであることを選択する以上、予め排除する意思(暴力への意思)を明確に示すのが本来の姿であろう。

東がソーシャルな人だとは思わない。だが、たとえエクスキューズとしてでも「富の再分配」に言及するなら、それを可能にする暴力性へのコミットメントを明らかにするべきではある。東の立場は思想として考える分にはラディカルに見えて議論喚起的だが、別の読み方をすれば(現実の文脈に置き直してみると)、恣意的=政治的な事実性を免れ得ない特定の「立ち位置」を引き受けることから逃げ回っているだけなのかもしれない*2。特定の物語を信じず、「伝統」に拘泥しない(保守主義化しない)、と言うのはそういうことだろうか。だとすると、それは自らが行使する暴力に自覚的になることを拒んで、ひたすら暴力を告発する側に回ろうとするヘタレ左翼(のなれの果てのリバタリアンとか)と結構体質的に近いなぁ。


話を戻すと、だから結局、「信頼ベース/不安ベース」という区分を「ナショナル/グローバル(アナーキー)」という区分に対応させるのは、明らかに不適切だ。「不安ベース」なら誰もを「動物」扱いするから平等だと言うが、概念的に言えば、動物の中に階層を設けたり、動物以下の存在を設けたりすれば、「不安ベース」かつ不平等な社会を想定することは容易だ。そもそもそれこそ山岸俊男的に言えば、「信頼ベース」の社会では「信頼できない人間」に分類されるはずの外部者に対しても相対的に高信頼が示される傾向があるんじゃなかったっけ?*3他方、設計されたシステムによって予めリスク抑制=「安心」を確保する「不安ベース」社会では、システムが「どこで閉じているか」(どこまでをカバーしているか)によって、コミュニケーションに開かれる範囲が決定されてしまうのではないか?*4そうだとすると、やはり「信頼ベース/不安ベース」についての東の整理は不適切ということになる。

別に私も一群の社会学者たちのように保守主義コミュニタリアニズムに傾くつもりはないし、「伝統」とかも凄くどうでもいいのだが、それと恣意性=政治性=暴力を引き受けることは別だろう。それに、こういう議論をする時、何で必ず「信頼ベース」と「不安ベース」の二分法に付き合わなければならないのだろう。別に全面的に「信頼」できなくても、システムによって「安心」できなくても、それなりのリスクを取って手段‐目的的に利害で結び付いて行動すれば良いのではないですか?よく分からん。

*1:ただし、ナショナリティ、つまり国民=ネーションの一員であることは、当該国籍の保有とイコールではないことについて、注意が必要。

*2:立ち位置ゲームが不毛だからといって、立ち位置そのものが重要でなくなるわけではないのだけれど。

*3:ご教示願う――山岸の本は私も持っているが調べるの億劫。

*4:例えばgated communityを想起してみる――あれは「平等」な社会の姿なのだろうか?