死刑制度に反対する個人的な理由


光市の事件の判決があって、色んな人が死刑について書いている。私も死刑については幾らか書いてきたことがあるから、そういうものを読んでふーんと思ったり、その主張で大丈夫?と思ったりするんだけど、なーんか物足りない。ああ、そうか、お行儀が良すぎるんだなぁ。


これまでは社会的(に共有可能)なレベルで議論してきたので書いたことは無いが、私個人の立場で言えば、死刑制度に反対する理由はシンプルなもの一つで十分である。私が犯罪者になって捕まった時に、殺されたくないから、という理由だ。今は分からないが、私も将来には複数人を殺めるようなことが無いとも言えないし、まず逃げ切れるというような可能性は低いだろうから、捕まっても殺されないように、死刑制度というリスクは解除しておいた方が得策である*1。単純に、死刑制度をこの世から消し去っておくことが、私の利益にかなう、と。私の思想的立場(エゴイズム)から言えば、そうなる。


死刑論議の中では、あなたの家族が云々ということは、よく言われる。つまり、自身が被害者側に回る可能性についてはよく論じられるのだが、論者自身が受刑者になった場合のことについては、あまり言及されることが無い。これは奇妙なことだ。可能性はどちらに向かっても開かれているはずなのに。確定死刑囚の生活や死刑執行の場面についてレポートされることはあるが、それは自身が同じ境遇に至る可能性を想起させる目的や機能を持っているだろうか。どうも、そうは思えない。冤罪の可能性について言及される場合には、自身が無実の罪に問われる可能性を想起する人も多いのかもしれない。冤罪で殺されてはたまらないから死刑反対という主張はエゴイズム的見解の一部を構成する。しかし、仮に誤判の可能性をゼロにすることができるとしても(むしろその時こそ!)、確かに私が犯人である場合には、死刑になってしまうのだ。


それは困る。私は、他人を殺した後でも、自分は死にたくない。だから死刑制度を廃止して欲しい*2。個人的なレベルの話としては、これで十分だ*3




被害者及び死刑
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20071206/p1


死刑の非論理性、または「罪を憎んで人を憎まず」の(不)可能性について
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20080224/p1


死刑の現在性
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20080304/p1

*1:この点についても先のことは分からないのではあるが、自分としては、自殺したくなったり、殺してもらいたいと思ったりするようなことは無かろうと予測している。

*2:終身刑も嫌だ…、と思ったけど、でも牢獄で一生本を読み続けるという人生もそれはそれでアリかもなぁ…。いやいや、やっぱり無理か。

*3:ここで「個人的なレベル」と言うのは、必ずしも議論を社会に還元しようとしないレベルということであって、社会設計の話でないということではない。制度論をぶっているんだから、断然社会設計の話である――どうでもいいが、この注意書きの意図が解った人は凄い。