田村・東・稲葉、徒然に


熟議の理由―民主主義の政治理論

熟議の理由―民主主義の政治理論


久し振りに、本屋らしい本屋に行けた。そこで、田村さんの新刊を手に取る。収録論文は全て読んでいる(はず)ので、始めと終わりの数頁を見ただけだが、終わりの方で政治「理論」にコミットすることについて語られていたのに触れて、少しく感銘を受ける。いつか買おう。

田村さんの熟義民主主義理論に対しては、修論でかなり批判的に取り扱ったのだが*1、研究としては様々な部分で示唆を受け、勉強させてもらった(特に再帰的近代化論を下敷きにする仕方など)。だから、いつか買おう。


NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本

NHKブックス別巻 思想地図 vol.1 特集・日本


こちらは買った。シンポジウムの内容は知っているので、東の発言を拾い読みして確認。後は北田・萱野との鼎談だけ読む。今、東の構想の理解に輪郭を与えようと、並行して『ギートステイト』も(今更)読んでいる。3分の2ぐらい。また、以前に立ち読みで済ませておいたし、基本的に同じような塩梅(薄い)なのだが、「東的国家観」が語られているものとして、一応以下も買っておいた。


新現実vol.5

新現実vol.5


同じく立ち読み済みの宇野なにがしとの対談は、立ち読みでいかべし。基本的に興味の薄い領域の話。あぁ、そういえば、以下の雑誌だっけな、後藤さんの東批判も読んだな。


m9(エムキュー) (晋遊舎ムック)

m9(エムキュー) (晋遊舎ムック)


凄いね、『動物化するポストモダン』=「荒唐無稽」だって。宮台が済んだから、次は東だ、と。局所的「ビッグネーム」を叩くほどに、陶酔の度、ますます深まれり。他方で、これも立ち読みの限りでは、新書の新著は高く評価できそうなのですが。こうなったらもう後藤さんには、歴史を遡って、丸山だろうが吉本だろうが、ロクなデータも示さずに日本や社会を語ってきた輩を縦横無尽に斬って斬って斬りまくって欲しいものです*2。「思想」とか「批評」とか、ほんとまじうざいもんねー。爽快、爽快。


「公共性」論

「公共性」論


こちらは既に買ってあったのを今日ようやく読み終わったのだが、ある意味リアルにウザイ本かも。主題は前作に引き続き環境管理で、東の言説と完全に同じことについて、様々な角度から語っている。相変わらず多様な領域から専門的知見を引っ張ってきて繋ぎ合わせて色んな方角に見通しをつけようとする手並みは見事なのだが、結局は…どうなんだろう。はぁ、そうすか、という感じか。この本の内容は何だか、書くためにだけ行われた議論という気がした。書くことを生業としている限り、それは別に悪いことではないけれども、ただ、そういう感触を持ったということだけ。必然性が感じられないと言うのか、悪く言えば「おしゃべり」か。一種、間口を広げようという努力なのだろうけど、逆効果が働きそうだ。始終、印象と憶測ばかり書いて恐縮だが、稲葉さんの「よい読者」(「真の」読者?)って精々50人位しか居ないんじゃないかなぁ。

それはさておき、「忘却の穴」と言うのは、鈴木謙介言うところの「宿命論」に対応すると考えてよいのかな。違うのかもしれないけど、合っているとしたら、それの何が問題なのか私には今一つピンと来ないのだけれど。寓話的にと言うのか、言葉として聞くと怖いようだけど、具体的にどう困るの? 元々あらゆる可能的選択肢に向き合うことが不可能な私たちにとって、知らないものは無かったことにするというのは、「複雑性の縮減」ができて、むしろ助かるのではないの? どうも、何が一番恐れられているのかが、最後まで不明瞭だった。

もっとも、一番気になったのは、リベラリズムの――ひいてはデモクラシーの――理解。リベラリズム自由主義)は「出力」の思想で、デモクラシー(民主政/民主主義)は「入力」の思想だと言う。しかし、それは本当か? リベラリズムとデモクラシーを意識的に区別すべきだという点には賛成。それは歴史的にも正しい。しかし、区別すべきだとしても、それほど容易に区別できるか否かは別問題である。二つの思想は、一般に考えられているよりも複雑に絡み合っているのではないか。鍵になる概念は、「自己決定」である。これは「自律」とも言い換えられる。自由主義は自律の思想だとされ*3、民主主義は自己決定(自己統治)の思想だとされている。この面倒な結び目を解きほぐすためには丁寧な作業が必要とされるので、ここでは無理だが、私が今まで書いたことの中にも多少手がかりはあると思う。

自由主義と非人格的権力
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20051212/1134377877


フックとしての人格陶冶論
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070606/1181135536


デモクラシーの10冊と私が「ほんとうに望んでいたもの」
http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070828/1188374793


それから参考までに、「自己決定」概念について、私が修論で行った定義を引いておく。

そもそも自己決定とは何か。有り得る第一の答えは、①決定過程への関与ないし参加である。しかし、これでは、決定過程に参加さえできれば最終的な決定の内容に承服できなくとも自己決定したことになる。そうした考え方は直観に反するし、日常的な用法でもなかろう。①のように決定手続きを重視した自己決定概念を形式的自己決定と呼ぶならば、決定内容を重視した実質的自己決定と見做せるのが、②支持ないし満足できる内容の決定が得られた場合である。これは一見自己決定と呼ぶにふさわしいように思えるが、この定義に従うと、結果的に満足できる決定が行われるのであれば参加が為されなくても自己決定と見做され得ることになる。このような考え方は、独裁政治を正当化しかねない危険性を明白に帯びているだろう。 そこで考えられる第三の道が、③決定過程への参加の上で、支持できる内容の決定が得られた場合に自己決定が為されたと考える立場である。①と②がいわば「弱い自己決定」概念であるのに対して、これは「強い自己決定」概念である。確かに、こうした自己決定が行われるのであれば、同一性原理が達成されたと言えるだろう。とはいえ、この概念はやや強すぎるようにも思える。と言うのは、決定過程への実際の参加が要件として求められるのならば、決定過程に参加可能であるのにもかかわらず敢えて不参加を貫くような、いわば消極的な自己決定が自己決定と見做されなくなり、場合によっては自己決定の名の下に決定への参加が強制される事態すら引き起こされかねないからである。
 それゆえ、弱くないが強すぎない代替案として、④決定過程への実質的な参加可能性が存在する時に、敢えて参加しないか、参加した上で支持できる内容の決定を得られた場合に自己決定が為されたと見做す立場を採るべきである。この立場では消極的自己決定と積極的自己決定が区別されることになるが、一義的に自己決定と呼ばれるのは積極的自己決定のことであり、ここでもそちらを中心に扱う498。

*1:主な該当部分は以下。「熟議民主主義の立場からは、選好の変容は交渉や取引の結果としての単なる妥協とは異なるものであり、討議を通じて私的利益に基づく選好から公共的価値に沿うような選好への変容が可能になることこそが重要なのであると盛んに強調される514。本論第1章第2節の議論からすれば公共的志向を持つ選好でさえも私的な<利害>に基づくものであることは変わらないのであるが、その点を措くとしても、選好の変容可能性という言葉で私的選好から公的選好への変容のみを意味するのは不当な限定であると言うほかない。[改行]私たちは限定合理性と不完全情報を免れることができないし、主観的な効用予測は誤り得るから、自らの利益にかなう選択肢をいつも正確に知っているわけではない。そして、他者との討議やその場での熟慮は、不完全な情報を補完したり、利益認識を変化させたり、効用基準そのものを変容させたりする可能性を持っているから、私たちは熟議を通じて従来の選好を変更したり、より自らの利益を実現しやすいような新たな選択肢について他者と合意に至ったりすることができる515。つまり、熟議を通じた選好の変容可能性は私的利益の実現のためにも極めて重要な前提なのであって、利益中心の政治観を持っているからといって選好の変容可能性を認めないということにはならないのである。」pp.144-145

*2:「データ萌え」?「統計萌え」?

*3:稲葉さんが「他律的」リベラル≒「動物」と呼ぶ立場であっても、積極的な政治主体たろうとしないという水準の選択を行う限りにおいて、社会に対する「消極的なコミットメント」を為しているとされる。これは後述する「消極的な自己決定」に対応すると思われるので、用語法の注意点こそあれ、リベラリズムが「自律」の思想であるという理解は揺るがないはずである。