非人格的権力再考


昨日のフォローとして、少し引用。

何はともあれ、間違いのないことは、初期自由主義は、みずからを、個人の神聖さと独立性との擁護を目的とする哲学であると宣言していたことである。ところで、一体誰に対して、個人は擁護されるべきであったのか。こう問いかえしてみれば、われわれは、自由主義がどうして、社会への信従がもっている破壊力を、これほどまで致命的に誤解してしまったのかを、よりよく説明できるであろう。通常考えられているところによれば、自由主義は、そもそもの出発点から、宗教的、政治的、社会的、知的な、あらゆる種類の権威からの、人間の解放を主張したとされている。「権威という穢らわしいものを踏み潰せ!」。しかし、これは部分的にしか正しくないし、社会のもつ権威に関してであれば、まさに誤解を起こさせる言葉である。リベラルが政治的権威に向かって言い立てる主張を調べてみてわかることは、それが告発しているのは政治的権威一般ではなくて、人格化された権威であり、個人の持ちものとなった権威であるということである。告発が君主政に向けられた場合、非難されるのは、君主がその権威を「恣意的」または「気まぐれ」に、つまり、法や合理的政策の「客観的」要請に従ってではなく、個人的な出来心に従って行使しているということである。このように定義された恣意性は、ローマ教皇が制度的権威を個人的権力に変えたとする、プロテスタントの非難の政治版とも言うべきものである。この両者の相似は、実質的にも大きな意味合いをもっている。というのは、プロテスタンティズム同様、自由主義は、せっかくあるかたちの主観主義を放逐したのに、結果からみれば、それとは別な主観主義をもってきたことにしかならなかったという、同じ不愉快なディレンマに衝きあたったからである。[中略]

主観主義は、権威から個人人格的な要素を取り除くことによって、克服されるはずであった。政治社会は、それぞれの人びとがその自然権を「共同社会の手に」、すなわち非人格的権威に委譲することに合意する行為によって形づくられる。代って共同社会は、個々人を差別なく取り扱うようにつくられている法体系を通して行為する。[中略]こうして、権威は共同社会と同一化され、他方、共同社会のために行為することを実際に信託されている人は、まさに、彼が行為の「権限を任されて」いるがゆえに、そうするのである。言葉を換えて言うなら、権威は、何世紀にもわたって自然的事実だったのであるが、今や微妙に姿を変えて、代理人の行為は社会によって授権されているがゆえに正統である――彼の行為はわれわれの行為である――という、脆弱な仮構になってしまった。

[中略]スペンサーが、後になって要約して主張したように、人間は「主人をもたねばならない。ところで、その主人は大文字の自然か、または同類の人間かである。大文字の自然による非人格的な強制の下にあるとき、われわれは、彼は自由であるという。そして、彼の上に、何びとかの個人的強制をいただくとき、われわれは、彼を……奴隷、農奴、または家臣とよぶ」。こうした感じ方が示すとおり、リベラルたちは、懸命になって、非人格的な権力、一見どんな特定の個人にも属していない権力に、服従しようとした。この渇望を充たしてくれる存在、それが社会である。その権力は、非人格的であって、しかもすべての成員に差別なく向けられている。社会は、いかなる単一の個人でもない。それは、われわれのうちの誰でもない。が、しかし、それはわれわれすべてなのである。
 
[中略]世論がわれわれを強制して服従させているとしても、それは、じつは、われわれがわれわれ自身を強制しているということなのだ、という次第である。これは、自由主義の用語による、ルソーの一般意思の実に巧妙な翻訳ではないか。


[シェルドン・S.ウォーリン『西欧政治思想史』新版(尾形典男ほか訳、福村出版、1994年)399-402頁、注を省略、強調は引用者]


「社会への信従」というウォーリンの問題意識に寄り添うかどうかは別にして、この部分は非常に興味深い。色々な方向に思考が伸びていく可能性を感じさせてくれる。例えば、近代西欧的な意味での「個人主義」がどう条件づけられているのか、とか。

それは、共同体は、人の支配という現在支配的な状態に代えて、個々人を非人格的な実体、あるいは「もの」に依存するように秩序づけられるべきであるという考え方である。ルソーの議論は、近代の基本的な信仰箇条のひとつを予知しているという点で、究明してみるだけの値打がある。それによれば、「歴史」、「必然性」、「世界精神」、「自然法則」、「社会」など、名称は異なるにせよ、何らかの非人格的力に従っていくことこそが、現実と交わり、「真の」自由を体験する方法であるということになる。

[中略]他人から独立しているということは、あらゆる人格的権威や権力から自由であることを意味する。自然状態において、権威と権力とが座を占めていたのは、ほかならぬ自然という非人格的な存在においてであったのだ。環境のもつ物理的な力は全ての人びとによって感じられたが、それは、平等、無差別な仕方で働いていた。日の光は、善き者の上にも、悪しき者の上にも、等しく輝いていた。こうして、自然状態とは、個々人が自然の一般的法則には従属しているが、彼ら同士は相互に独立な状態であった。

[中略]そして、人間は、非人格的な自然の力への従属を永遠に喪失してしまったとしても、それに代って、法の非人格的権威だけが力をふるう体制をつくり上げたということになる。法律に従うという場合においては、「何人も命令しておらず」、人間は「主人をもつことにはならないであろう」。法とは、文明社会において「人間同士の自然的平等」を確立するものである。

[同、431-432頁、斜字体は原文傍点、強調は引用者]


自然。環境。動物。と、さて、ケルゼンやヘルドからも引用したかったのだが、ウォーリンだけで長くなり過ぎた。後はトクヴィル(を受けた宇野重規)だけにしておく。

トクヴィルがいう「個人主義」の結果、諸個人は一方において、他者から切り離され、自らのうちに閉じこもろうとする傾向を持つ。他方、そのような個人は、特定の個人による個別的な支配を嫌う一方で、「唯一、単純、そしてすべての人に同一な社会的権力への好みとその観念」を持つようになる。すなわち、自分が、他のすべての個人と同等な存在であることにこだわる「デモクラシー」社会の個人は、自分と同じようなある特定の個人が自分に対して支配的権力を行使することにはきわめて敏感に反応し、これを拒絶しようとする。しかしながら、反面で、そのような特定の人間による個別的な支配と切り離された、非人格化した集団的権力による支配に対してはむしろ、容易にこれに隷従するというのが、トクヴィルの下した<民主的人間>への診断であった。さらにいえば、自分の身の周りの他者との結びつきを欠いた個人は、むしろそのように非人格化した権力の媒介に頼ってしか、他者へ働きかけることができなくなる。


[宇野重規トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社講談社選書メチエ、2007年)86−87頁]


ウォーリンの場合はあくまでも自由主義について述べていたのが、ここではデモクラシー「以後」に議論のフェーズが移っていること(にもかかわらず同じく非人格的権力への服従が論じられていること)に注意すべきだろう。自由主義とデモクラシーの絡み合いを解くには、もっと多くの補助線が必要だ*1


政治とヴィジョン

政治とヴィジョン

トクヴィル 平等と不平等の理論家 (講談社選書メチエ)

トクヴィル 平等と不平等の理論家 (講談社選書メチエ)

*1:さらに、ここにはネーション/ナショナリズムの問題も絡んでくることを忘れることはできない。