「動物化」論は若者論ではない


後藤和智宮台真司東浩紀――若者の「理解者」こそ若者の「敵」 インチキ「若者」論の元凶はコイツらだ!!」『m9』第1号(晋遊舎、2008年4月)では、東浩紀の「動物化」論が、おおまか以下のような特徴付けをされ、「若者論」として捉えられている。


(1)特定の作品を「若者の心性を代弁している」ものとして採り上げ、その読解を通して若者の「深層心理」を分析する。
(2)現代の若者はこれまでの大人たちとは全く異なる状況に生きている、と主張する。
(+(3)このようなやり方で若者について語ることが、思想の最先端であるかのような身振りをする。)


しかし、このような特徴付けは、あまりにも的外れである。それは東の議論に直に触れてみれば解るはずなので、なぜこのような誤解が生まれたのか、私には分からない。煩瑣になるが、ここでは東の文章からの引用によって、誤解が誤解であることを示しておこう。

動物化」論は若者論か?――東の認識

ポストモダン化の進展とオタクの出現は、時期的にも特徴的にも関係している。したがって、オタクについてポストモダンの概念を使って、また逆にポストモダンについてオタクの経験を参照して考えることには意味がある。そして、その視点からは、いままでの日本社会論ではなかなか語られなかった、戦後日本のある側面が見えてくる。筆者は前著で、このような立場のもとでオタクの歩みに注目し、一九九五年以降、若いオタクが急速に物語に関心を失っているように見えること(「萌え」「データベース消費」の台頭)、そしてその変化が、短期的な流行ではなく、むしろポストモダンの徹底化、すなわち「大きな物語の衰退」の反映として分析できることを指摘した。本書の議論は、まずはそのような状況認識を前提としている。
 私たちはポストモダンと呼ばれる時代に生きている。ポストモダンでは物語の力が社会的にも文化的にも衰える。そして、現在の日本では、オタクたちの作品や市場が、そのようなポストモダンの性格をもっとも克明に反映し、表現や消費のかたちを最も根底的に変えている。


[東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』講談社講談社現代新書)、2007年、16‐17頁。強調引用者(以下、全て同じ)]

 別の言葉で言いかえるならば、筆者の関心は、オタクという共同体や世代集団の考察にではなく、彼らの生を通して見えてくる、ポストモダンの生一般の考察にある。それはもはや流行の問題ではないし、若者文化の問題でもない。その問題意識は、むしろ、『動物化するポストモダン』が「動物的」と描写したポストモダンの消費者が、それでも人間的に生きるためにはどのように世界に接すればよいのかという、前著から引き継がれた、複雑でそして実存的な問題と深く関係している。


[同、23頁。斜字体部分は原文傍点]


本当は、これで十分なくらいである。しかし、当の「前著」からの引用でなくては納得しない向きがあるかもしれないので、重複を承知で更に引こう。

目的――若者を論じたいのか?

つまり、簡単に言えば、一方にはオタクなどにそもそも価値を認めない人々が、他方にはオタクについては特定の集団だけが語る権利をもっていると考える人々がいて、その両者のどちらにも加担しない立場をとるのは極めて難しかったのだ。
 本書の企図は、そのような機能不全を修復し、オタク系文化についてそしてひいては日本の現在の文化状況一般について、当たり前のことを当たり前に分析し批評できる風通しのよい状況を作り出すことにある。そしてそれはまた、私たちの社会をよりよく理解することにも繋がるはずだ。文学に歴史があり、美術に歴史があるように、オタク系文化にも、四〇年という短い期間ながら歴史があり、その歩みは確かに私たちの社会の変遷を移している。その歴史を「サブカルチャー史」として縦に辿ることも可能だろうが、ここで筆者が行いたいのは、むしろその歴史を横に見て、オタク系文化の変遷とその外側の社会的変化との関連を取り出してみること、そしてその過程を通じて、オタク系文化のような奇妙なサブカルチャーを抱えてしまった私たちの社会とはどのような社会なのか、少し真剣に考えてみることである。だから以下の議論は、筆者と知識や世代を共有するオタクたちにも向けられているが、同時に、オタクのことなど考えたこともないし、考えたくもないと思っている多くの読者にも向けられている。


[東浩紀動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社講談社現代新書)、2001年、11-12頁。斜字体部分は原文傍点]


論の目的からすれば、オタクが語られるのは、あくまでポストモダン社会の特徴としての「動物化」を読者の前に描き出すための媒体として選ばれているに過ぎない*1。その選択に蓋然性はあると言われているが、必然性までは主張されていない。そして、その蓋然性、つまり「オタク系」文化が「ポストモダンの社会構造をきれいに反映している」という判断に関しては、中島梓大澤真幸などの議論を踏まえているとされ、東に特徴的なものとは言えない(同、42-46頁)。

対象の限定――若者一般を語っているのか?

 たとえば、コミックやアニメ、コンピュータは世代を越えて強い関心を集めているが、第一世代でSFやB級映画に向けられていた関心は、第三世代ではおおむねミステリやPCゲームへの関心に置き換えられている。また、第三世代は一〇代半ばにインターネットの普及を迎えており、その結果、彼らの同人活動の中心はウェブサイトに、イラストの中心はCGに変わり、先行世代とは流通経路も表現形式も大きく変わっている(注5)。本書の議論は、そのなかで、どちらかといえば第三世代の新しい動きに焦点をあてて組み立てられている(注6)。


注6
 さらに正確に言えば、本書でおもに扱うのは、第三世代の男性のオタクたちの動きであるコミケ(コミック・マーケット)の日程が長いこと二日に分けられ、暗黙のうちに男性向けと女性向けに区別されていたことに象徴されるように、オタク系文化における性差は無視できないものがある。しかし本書ではそこまで触れられなかった。


[同、14、177頁]

これは強いて言えば「1980年前後生まれを中心とするオタク男性」論とは言えるかもしれないが、明らかに若者一般についての議論ではない*2。なお、限られた対象を使って社会の姿を切り取るという自らの方法(の限定性)について、東はこうも語っている。

 同じように、アニメやゲームにしても、個々の作品、個々の製作者の優劣は判断できるけれど、時代全体やジャンル全体について優劣をつけても仕方ないと考えます。だから個別のバラバラな事実しか知りません。僕にオタク的な教養が欠けている(と言ってよく非難されるのですが)のは、おそらくこのような発想のせいでしょう。歴史家でも編集者でもない僕は、突出した作者と作品にしか興味がありません。それら個人をひとまとめに括り、「前衛」や「最先端」を見出し、思想的な裏付けらしきものを与えてグループを作り出すのは、僕の趣味には合わないのです。『動物化するポストモダン』で書き記したことは、今ギャルゲー・オタクこそが「最先端」なのだ、というような能天気な主張ではありません。僕は、ただ単に、オタクたちの中に優れた表現者がいる、そしてその表現についてある方法で考えると現代社会のひとつの側面が浮かび上がってくる、というだけのことを、手元の分析装置を使って一冊の本に仕上げたにすぎません。

[東浩紀笠井潔動物化する世界の中で』集英社集英社新書)、2003年、200頁]


ちなみに、この前の部分では、「思想に「最先端」など無いと思う」との旨が語られている(同、199‐200頁)。

内容――「心」を論じているのか?


(1)の後段に関しては、全体を読んで判断すべきだろう。論の中心になっているのはオタクたちの消費行動と幾つかの作品の構造であり、心そのものに焦点が合わされることはほとんど無い。セクシュアリティについて言及した箇所など、確かに「心性」「心理」を問題にしたと見做せる部分が無いわけではない。だが、それは論の主眼とは言えないし、その部分だけを採り上げて「心理分析」の書だと断じるとしたら、無理が過ぎる。


そもそも「動物化」とは、別に「深層心理」で起こる変化ではない。むしろ現実の行動のレベルが中心であり、そういう意味では、却って表層の話だとさえ言えそうだ。

僕の言っている「動物的」というのは、見方を変えれば身体性の重視なんですよ。たとえばいまは、映画でも小説でも「泣けたからいい作品だ」という感想が非常に多い。自分が泣けたという事実のプライオリティがとても高くて、作品の意味や構造なんてどうでもいい。逆に言うと、他人がある作品でいくら泣いていても、自分が泣けなかったらそれはダメだし、あとでどうその良さを説明されても、「でもわたしは泣けなかったから」で終わり(笑)。だからいまのエンターテインメント業界では、とにかく泣ける方程式だけが重要になっている。ハリウッド映画がまさにそうです。定型的なストーリー、キャラが立っている俳優、そしてやたらと金のかかった視聴覚刺激。物語がいくら単純だろうと荒唐無稽だろうと、いまの観客はとにかく自分の身体的反応を確認するために劇場に来てるのだから、それでいいわけですよ。


[宮台真司東浩紀「データベース的動物の時代」『批評の精神分析 東浩紀コレクションD』講談社講談社BOX)、2007年、19‐20頁]


「いまは」「いまの」と言われてはいるが、ハリウッド映画を好んで観る消費者が若者に限られない以上、ここで言われている「動物」が若者とイコールでないことは明らかだろう。

全体について――「動物化」論の視野

 したがってここで「動物になる」とは、そのような間主体的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏―満足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味する。コジェーヴが「動物的」だと称したのは戦後のアメリカ型消費社会だったが、このような文脈を踏まえると、その言葉にもまた、単なる印象以上の鋭い洞察が込められていたことがよく分かるだろう。
 アメリカ型消費社会の論理は、五〇年代以降も着実に拡大し、今では世界中を覆い尽くしている。マニュアル化され、メディア化され、流通管理が行き届いた現在の消費社会においては、消費者のニーズは、できるだけ他者の介在なしに、瞬時に機械的に満たすように日々改良が積み重ねられている。従来ならば社会的なコミュニケーションなしには得られなかった対象、たとえば毎日の食事や性的なパートナーも、今ではファーストフードや性産業で、きわめて簡便に、いっさいの面倒なコミュニケーションなしで手に入れることができる。そしてこのかぎりで、私たちの社会は、この数十年間、確実に動物化の道を歩み続けてきたと言える。[中略]


 そしてこのような視点で見ると、『デ・ジ・キャラット』に萌え、『コズミック』を読み、『Air』に泣いているオタクたちの消費行動もまた、「動物的」という形容にまさに相応しいように思われる。[中略]
 そしてそのようなオタクたちの行動原理は、あえて連想を働かせれば、冷静な判断力に基づく知的な鑑賞者(意識的な人間)とも、フェティッシュに耽溺する性的な主体(無意識的な人間)とも異なり、もっと単純かつ即物的に、薬物依存者の行動原理に近いようにも思われる。あるキャラクター・デザインやある声優の声に出会って以来、脳の結線が変わってしまったかのように同じ絵や声が頭のなかで回り続け、あたかも取り憑かれたかのようだ、というのは、少なからぬオタクたちが実感を込めて語る話である。それは趣味よりも薬物依存に似ている。


[前掲『動物化するポストモダン』、128-129頁。強調引用者]

 大きな物語の捏造から単なる廃棄へ、『ガンダム』から『デ・ジ・キャラット』へ、物語消費からデータベース消費へ、つまりは部分的なポストモダンから全面的なポストモダンへの大きな流れは、このように、そこに生きる人々の動物化を意味する。


[同、131頁。この後に、「コギャル」への言及が続く]


繰り返しになるが、「若者が動物化しているから、これから社会は動物化していく」という順序ではなく、社会の「動物化」を反映した一つの現れとして若い世代のオタクを採り上げているという論理関係に注意されたい。「動物化」そのものは、現代の若者に限られる現象ではない。東は、ポストモダン化の進行は1914年から始まっているとの見解を示しており、ポストモダン化の反映として捉えられる「動物化」も、同時期から徐々に進行してきたと考えられている。


 [同、105頁]


つまり、ここ百年程度の歴史の中で進んできた現象が、現在はこういう状態にあるということが提示されているのであって、現代の若者が急に「動物化」したなどという理解を、ここから引き出すことはできない*3。もう十分だろう。「動物化」論は、若者論ではない。


以上から、後藤さんによる「動物化」論の特徴付け(1)(2)がともに失当であることは、了解してもらえたはずだ(無論、(3)も)。素直に読めば解るはずのことを、なぜクドクドと引用する必要があったのか。この事態に、私は驚きを覚えている。


動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

批評の精神分析 東浩紀コレクションD (講談社BOX)

批評の精神分析 東浩紀コレクションD (講談社BOX)

*1:現に、この本のサブタイトルは、「オタクから見た日本社会」である。

*2:これを若者論とイコールだと認識するためには自意識の介在が必要とされるのではないか。

*3:加えて、元々人間は常に動物としての側面を併せ持っているということは、今更確認する必要もない当然の前提である。