語りへの暴力的な欲望


例えばデリダは、既存の法を個別の事件にそのまま適用することは、正義ではないと言った。判決の産出/算出を一般化可能なプログラムの作動に任せるとすれば、裁判官は機械でしかなくなり、法廷で行われるのは計算に過ぎないことになる。正義に適うのは、既存の法をベースにしつつも、個別の事件の特殊性、唯一的な文脈に応じて、その都度・新たに法を創出するかのような判決だけである。そのような判決だけが、当事者が置かれた個別的な条件への一般化不可能な配慮が含まれた決定だけが、(脱構築不可能な)正義で在り得る。そう、デリダは主張した。


この立場からすれば、何らかの「事件」に関する「語り」についても、同様のことが言えるように思う。批評家でも評論家でも哲学者でもTVコメンテーターでもいい。有り体のイシューなりアジェンダなりを予め用意しておき、それを認識/解釈の枠組みとして個別の事件に適用し、事件の原因や背景(または「本質」)を論ずる。このプロセスも、「計算」的な性格を色濃く持っている。多くの「語り」においては、既に在る機械の中に当該の事件を投げ込むことによって、決まった結論が「ポンッ」と出て来る。そこでは事件の前提となった複合的な要素や、当事者が身を置いた特殊な状況など、一般化不可能な個別的な文脈は切り捨てられ、むしろ認識/解釈枠組みに沿うような形に規格化される。いわば、先に自らの言論上の立場や主張があって、あるいは重要だと思う問題があって、それらを語るために当該の事件を「ダシにする」。そのような態度は、当該事件の当事者を唯一的な存在として扱わない意味で、極めて暴力的な振る舞いである。


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秋葉原の無差別殺傷事件について、複数の語りを目にした*1。その中で例えば森岡さんは「だとしてもなぜ男ばっかりの秋葉原をねらったのか」と述べ、font-daさんは「なぜ、南青山や表参道、それに渋谷でナイフを抜かなかったのか」と述べる。しかし、そのような問いは、この事件の直接的な要因に「モテ/非モテ」の問題があったという仮定ないし予断の下に初めて成立する問いである*2。そうした前提を排除して素朴に考えれば、東京を地元としない加害者の想像力の及ぶ範囲=行動範囲の中に秋葉原は入っており、南青山・表参道・渋谷は入っていなかっただけのことだろうと思える。被害者に男性が多かったのは、「確率の問題」だろう。通り魔事件そのものは何時・何処でも起こされ得ることであり、その被害に遭うのは紛れも無く「確率」の問題である。

無論、加害する方はそうではない。人をこのような極端な加害に駆り立てるものは確率ではないし、計算可能な確定記述だけでもない。被害する側は圧倒的に「確率」の水準に縛りつけられる――そこに固有の悲痛と苦悶が生まれる――のに対して、加害する側には絶対的に唯一的な文脈が在る。だから本来、一般化して語ることができない。それにもかかわらず、語ろうとする。語りたいと思う。その欲望が、暴力的である。ここで、たとえ暴力的であろうとも重大な事件については語ることが必要なのだから、その暴力性は引き受けられるしかない、という応答の仕方が有り得る。私にもそうした主張を否定し切ることはできないし*3、自身の欲望/振る舞いの暴力性を自覚した上で為される言論に対しては、このレベルの批判は不要であると思う。


しかしながら、このような事件について語ることは本当に必要なのだろうか*4。確かに必要な面もあるのかもしれない。では、誰にとって、どのように、どの程度、必要なのだろうか。私は、究極的に言えば当事者にしか必要でないと思う*5。語ることが必要だと主張する人々のほとんどは、単に語りたいだけだろう。その暴力的な欲望は、社会的な必要性の主張によって粉飾されるべきではない。自らの言論構成上の必要性として、あるいは実存上の必要性として、抜き身の個人的欲望の形で提示されるべきだ。自らの欲望のために当事者を傷付けてもいいと、25年間という歳月を彼なりに一生懸命歩んできたであろう加藤智大という一人の人間の存在を、その唯一性を踏み付けにすることを厭わないと、そのような意思表示としてこそ、語りが選び採られるべきなのである。


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*1:一つの例として、東浩紀の語りを挙げておく。

*2:私は杉田さんの本を一冊も読んでいないし、「モテ/非モテ」についての議論にも詳しくないが(そもそも何が問題なのか分からない)、「自分でも受け入れがたい醜い自己像」を承認されることを欲することは、「他者からの無条件の肯定を求めている」ということにはならない。「あるがままの自分」を愛してもらうということが「無条件の愛」などとは違うということは過去に書いたことがあるし(「生命学とエゴイズム」)、「無条件の愛」なるものがナンセンスであることも過去に述べた(「自己目的性の追求が非人間性を呼び込むことについて」)。「あるがままの自分」を肯定/承認して欲しいと思うこと、愛して欲しいと求めることは、他者に対して自らが自らであるゆえに特権的な扱いをして欲しいと、有象無象とは異なる差別的な優遇を与えて欲しいと望むことなので、それ自体が極めて暴力的である。無条件の愛/肯定などという欺瞞的な表現を導入すると、愛(の希求)が持つこのような暴力性が霞んでしまいかねない。それは多分杉田さんの思考が持っている可能性にとっての妨げになり得るので、厳密な議論のためにタームの整理が必要とされる。

*3:私自身がそうした立場に身を重ねる場合もある/あっただろう。

*4:言うまでも無いことかもしれないが、ここで言う語りに類するものとして、事件の要因ないし背景として経済状況を採り上げている議論を排除するつもりは無い。

*5:ただし、ここで言う「当事者」には、普通言われる範囲を超える可能性を留保しておきたい。この点について厳密に考えるためには利害関係概念を導入しなければならないが、煩瑣なのでここでは避ける。