暴力とは何か


ところで、暴力的であるとか、暴力性などについて論じるのはいいのだが、こういう議論をしていると一般的な感覚で言う「暴力」の意味との乖離が生じてきて、人文社会科学的な議論への日常的な接触を持たない人にはとっつきづらくなり、コミュニケーションの齟齬が起き易くなることが予測される。杉田さんのブログに見る赤木さんとの対立などは、その典型例のように思える。そこで、せめて私が提案/主張する暴力概念の定義を示しておこう。修士論文の一節から引く。


以上から、権力概念と暴力概念の間に有意味な区別を設けることも、やはり困難であることが解る。権力が暴力と強く結び付き、権力そのものが暴力としても現れ得る以上、権力と暴力を完全に切り離そうとするべきではない。今のところ、暴力概念について、ガルトゥングが為した以上の定義は考えにくいから、暴力とは、権力の中でも特に、影響を及ぼされた主体が潜在的に実現し得たものを実現することを妨げるような形で機能したものを意味するべきだろう。暴力を権力の否定的現象形態と見做すことが、敢えて両者を区別して把握する場合のおそらく唯一の方法である 。何が暴力であるかは主観的な基準に依拠せざるを得ないために、暴力が存在する範囲は、およそ何らかの影響が存在するところ全てに拡大し得る。暴力と権力を完全に同一視するべきではないが、全ての権力が場合によっては暴力としての一面を持ち得ることは否定できない。暴力概念は、その最大の意味範囲において権力概念の外延に重なるような、権力概念の一変形である。


[『利害関係理論の基礎―利害関係概念の再構成と利害関係の機能に関する理論的考察―』、65頁。]


なお、ガルトゥングの定義というのは、暴力とは、「可能性と現実の間、すなわち、可能であったことと今ある状態との間の差異を生じさせた原因」であり、「暴力が存在するのは、人々が実際に肉体的・精神的に実現したものが、彼らが潜在的に実現し得たものより低水準になるような形で、彼らに影響が及ぼされている場合である」というもの*1


それから、私の権力概念の定義は、こう。

「ある主体ないし特定の構造Aが、別の主体ないし特定の事象Bに対して、何らかの影響を及ぼし得る時、AはBに対して<権力>を有する。また、実際に影響が及ぼされた場合、AからBに対して<権力>が行使された、ないしは<権力>が作用した、と言う」


[同、67頁。]


多分これだけ見ると凄く凡庸に思えるだろうが、ここに到達するまでの過程が肝なのであって…、という話はどうでもいいか。


暴力概念のインフレのようなことは避けて、まず物理的な暴力を中心的に問題にすべきだという問題意識は理解できるのだが、そういった割り切りはひとまず上のような議論をくぐった後で為されるべきである。物理的な暴力と心理的な暴力が容易には区別できないことも、論文の中で指摘している。

*1:Johan Galtung,“Violence,Peace and Peace Research”Journal of Peace Research,vol.6,no.3,1969. p.168. 高柳先男ほか訳「暴力、平和、平和研究」ヨハン・ガルトゥング『構造的暴力と平和』中央大学出版部、1991年、5-6頁。