現代日本社会研究のための覚え書き――2.スピリチュアル/アイデンティティ(第2版)


扱うトピックは概ね決まり。既に書いた「家族」「メディア」「スピリチュアル/アイデンティティ」(改題)の他、「教育」「経済」「市民社会」「人権/親密圏」「セキュリティ/リスク」「政治/イデオロギー」「ネーション/国家」の10編で、さらに序論と結論を書くつもり。前に、スピリチュアル増補の際には疑似科学を盛り込みたいと書いたが、それ関連の本に目を通しながら書きようがないと思い、過去のメモ書きをひっくり返しながらもっと重要なことがあったと思ったので、盛り込んでいない。ご了承あれ。

「スピリチュアル」的なものの台頭

21世紀の日本では、「スピリチュアル」的なものが市民権を得ている。「スピリチュアル spiritual」とは、「スピリチュアリティ spirituality」の形容詞形であり、本来は「精神的な」「霊的な」などと訳されるべき言葉である。一般には、「スピリチュアル・カウンセラー」および「スピリチュアル・アーティスト」を自称する江原啓之に象徴されるように、「前世」や「オーラ」などを云々することや人が「スピリチュアル」であると考えられている。


この意味での「スピリチュアル」は現在ブームの様相を呈しており、関連市場が拡大している。2002年11月からは、「癒しとスピリチュアルの大見本市」を標榜する「スピリチュアル・コンベンション」(通称「すぴこん」)が全国で開催されており*1、主催者によれば、年間11万人の動員数を持つとされる(「すぴこん:癒しとスピリチュアルの大見本市 スピリチュアル・コンベンション」)。また、2001年に刊行した著書がロングセラーとなって以来、江原がマスメディアに露出する機会は急増した。2003年からテレビでレギュラー番組を持つようになり、2005年には、現在もレギュラーとして出演中の『オーラの泉』の放送が始まっている*2


このような現象――エハラ的意味での「スピリチュアル」――を採り上げて検討するだけでも、それなりの意味はあろう。しかし、私がここで「「スピリチュアル」的なもの」と呼ぶ範囲には、そうした狭い意味での「スピリチュアリティ」関連の言説・運動・生活様式・商品・消費行動だけでなく、占い・超能力・オカルトなどの神秘的・脱科学的なものから、血液型に基づく性格分析や多くの代替医療などに代表される「疑似/似非科学」、さらには「エコ」「ナチュラル」「オーガニック」「ロハス」「スローライフ」「レトロ」「和」などへの志向性も含めている。私はここで検討の対象としたいのは、これらを包括するより広い意味での「スピリチュアル」、あるいは、それに近しく思えるもの(「〜的なもの」)である。

このように広範な事象を一括りにするのは、一見いかにも乱暴な所作に思えるが、これらが互いに密接に結び付き合っていることは、幾つかのスピリチュアル関連サイトを眺めれば、直ぐに分かる。例えば、「スピリチュアルマガジンKAZUART」や「女性誌トリニティ:女性向けスピリチュアルマガジン 」(特に「スピリチュアル用語集」)のサイトからは、ヒーリング、アロマテラピー、ヨガ、気功、瞑想、オーラ、チャクラ、超能力、カルマ、ジャパニーズ・スピリット、精神世界、チャネリング宇宙からのメッセージ、UFO、地球、人類、エコ、スローライフフェアトレード、オーガニック、薬膳、マクロビオティックパワーストーン、前世療法、代替治療、波動、ゲルマニウム、などといった語を採り出せる。したがって、それぞれの事象固有の歴史や文脈は措いた上で、これらが結び付きつつ受容ないし消費されているという事態の方に焦点を合わせることには、一定の意味がある。



欧米のニューエイジ運動


まずは、歴史を遡ることから始めたい。


第二次世界大戦後の西欧諸国や米国では、福祉国家と消費社会の成立に伴って世俗化が進行し、宗教の影響力は衰えを見せた。科学技術や産業が発展を続ければ、合理主義が浸透し、宗教的なものへの関心は薄らぐだろう。そういった観測は、ある程度まで、そしてある時期まで当たっていた。だが、1960年代後半から米国を中心に盛り上がりを見せたカウンターカルチャーは、ヒッピーに象徴されるように、近代的な文明に批判的な視線を送り、産業主義や物質主義から距離を取ろうとする姿勢を拡大させた。その際、既成の西洋文明への対抗を模索する中で、仏教、道教、ヨガ、気功、瞑想など、東洋文化が積極的に受容されることになった。

その土壌の中から現れたのが、「ニューエイジ」である。ニューエイジは、西洋文明や近代合理主義、物質主義への反発をカウンターカルチャーから受け継ぎつつ、東洋文化神秘主義への接近を強め、意識面の改革や精神性の向上を目指す運動として、1970年代から80年代にかけて隆盛を見せた(由谷〔1998〕)。そこには、エコロジーから超能力、UFOに至るまで、現代にも見られる多様なスピリチュアル的なもののほとんどが含まれていた。


島薗進によれば、米国におけるニューエイジ運動の「中心」ないし「周辺」に位置する集団および運動には、ヒューマン・ポテンシャル運動(自己啓発セミナーの源流)、トランスパーソナル心理学、ニューサイエンス、ネオ・ペイガニズムフェミニスト霊性運動、ディープ・エコロジーホリスティック医療運動、マクロビオティック超越瞑想、神智学協会、人智学協会、クリシュナムルティファウンデーションラジニーシ運動、グルジェフファウンデーション、仏教的瞑想・共同体、レイキ、気功・合気道、UFOカルト、などが含まれる(島薗〔1996=2007〕、36-41頁)。

この中では、ディープエコロジーの思想を一瞥しておくことが、ニューエイジ的な発想を知るために最も解り易く、有用である。ノルウェーの哲学者A.ネスの論文「シャロウエコロジーとディープエコロジー」(1973年)に始まり、B.デュヴァル&G.セッションズ『ディープエコロジー』(1985年)によって確立されたディープエコロジーは、人間中心主義から生命中心主義への転換を訴え、自然への支配ではなく、自然との調和ないし融合を目指す。重視されるのは、社会構造の転換と言うよりもむしろ、意識や価値観の変革である。まずは自己の内面を変えていくことから始め、それを通じて社会を、世界をよりよい姿に変えていくことができる*3、と、そう信じられる(森岡〔1994〕、森岡〔1996〕)。


このように、社会の変革の前にまず自己の変容を置くのが、ニューエイジ的発想の特徴である。島薗が提示するニューエイジ的な信念・観念のリストから、ここで重要と思われる4点だけを引いておこう(島薗〔1996=2007〕、31-33頁)。

  • 「自己の心身において生じるある種の変容体験、とりわけ異なる次元のリアリティの体験を通して、より高い、またより本来的な自己とリアリティに近づいていくことができるし、そうすることが充実した人生の鍵である」。
  • 「高次の、あるいは本来的なリアリティは、宇宙や自然のうちに内在」しており、「それはまた霊性的な自己ともつながっている」。
  • 自己変容は「癒し」をもたらすが、「多くの人々の自己変容によって、個人的な癒しにとどまらず、社会的地球的環境にも良い効果がもたらされる」。
  • 「自己変容や霊性の覚醒はそれだけで、現実に超常的、神秘的な変化を与える」ものであり、「明るい想念を持てば、明るい現実(成功)がもたらされ、恐れや暗い想念が失敗や不幸をもたらす」。*4


ところで、ニューエイジ運動が拡大する1970年代後半は、いわゆるファンダメンタリズムが台頭を始める時期でもある。確かに、米国における宗教右派ないしキリスト教右派の活性化は、明白にカウンターカルチャーへの反動としての側面を持っている。しかしながら、戦後の世俗化に伴う物質主義の否定という観点からすれば、それがカウンターカルチャーニューエイジと共通の役割を担った事実も見えてくるだろう。結局のところ、宗教的なもの・神秘的なもの・呪術的なものへの関心は、衰えることが無かった。その事情は、1990年代以降も基本的に変わっていないと思われる。



精神世界と新霊性運動/文化


日本に目を転じよう。戦後に世俗化の時期を経た欧米諸国と異なり、日本では戦後になって新宗教が拡大を始め、高度経済成長期に信者を膨張させる。事情の違いの第一は、それら新宗教が戦前・戦中期の政府による弾圧から解放されたことによるのだろう。第二として、高度成長期には地方農家の次三男が都市に移り住んできた後、故郷や家族に代わる心の拠り所を求めて宗教に接近するケースが多かったとされる点が挙げられる。もっとも、1970年代に入ると、百万人以上の信者を持つような大型の新宗教は縮小傾向に転じたと言う(創価学会立正佼成会霊友会など)。


1974年には、ユリ・ゲラーが来日。テレビ番組で人気を博し、超能力ブームに火を点ける。さらに同年、映画『エクソシスト』が日本公開され、オカルトブームが巻き起こる。以降、学生を中心に「こっくりさん」遊びが大流行し、社会問題化する。1970年代末から1980年代前半にかけては、ニューエイジが「ニューサイエンス」などの呼び名で紹介され始め、文明批判や心の豊かさの強調などのメッセージが受容され、「精神世界」なる書棚ジャンルを確立するに至る。


並行して、新宗教にも変化が起こる。従来は、新宗教と言えども、仏教や神道などの伝統的な日本宗教の教義や儀礼を継承する部分が大きかった。ところが、1980年代から、外国の複数の宗教文化や心理学理論などを摂取した新しいタイプの団体が目立ち始めたと言う(GLA幸福の科学など*5)。なお、阿含宗を脱会した麻原彰晃がヨガ道場を開いたのは、1984年である。麻原は1986年にオウム神仙の会を設立。翌年、オウム真理教に改称し、1989年には宗教法人格を得ている。広く指摘されているように、オウム信者の中には、「精神世界」やニューサイエンスに触れた経験を持つ人が多かった。


島薗によれば、米国発のニューエイジ運動に限定するなら、それはヨーロッパやオーストラリアなどに加えて日本でも一定の展開を見せたと言えるに留まるものの、ニューエイジの「周辺」に位置するような運動ないし現象を含めるならば、韓国、ブラジル、タイ、ナイジェリアなど、世界各国で目にすることができると言う*6。それらは、「ゆるやかではあるが相互に影響しあいながら」、「それぞれ自生的に多様な形で展開している」グローバルな運動群であって、特定地域に限定されるものでも、特定地域から一方向的に伝播したものでもないとされる(島薗〔1996=2007〕、48-49頁)。

島薗は、こうしたグローバルな運動群を「霊性運動new spirituality movements」ないし「霊性文化new spirituality culture」と呼び、その大衆運動としての起点を1970年頃に求めている。定義によれば、新霊性運動は、「個々人の「自己変容」や「霊性の覚醒」を目指すとともに、それが伝統的な文明やそれを支える宗教、あるいは近代科学と西洋文明を超える、新しい人類の意識段階を形成し、霊性を尊ぶ新しい人類の文明に貢献すると考える運動群である」。その特徴は、「固定的な教義や教団組織や権威的な指導体系、あるいは「救い」の観念といったものをもたず、個々人の自発的な探究や実践に任せる傾向が強い」ことと、「信仰と科学を対立的にとらえることなく、科学的な認識と霊性の深化とが一致できると考え、比較的、学歴にめぐまれた層に支持者が多い」ことである(島薗〔1996=2007〕、50-51頁)*7


別の宗教社会学的な整理も見ておこう(深澤〔2004〕)。近現代の宗教を教義によって三分類した場合、新霊性運動/文化にイコールされる宗教性(「スピリチュアリティ・オブ・ライフ」)は、「神的なるもの、人間、自然の三者を一体的に、ホーリスティック(全体論的)に考え」、「主観的宗教体験を重視」する点で、「差違性の宗教」(「神的なるもの、人間、自然的なるものを峻別し、階層的に考え」、「聖典や伝統の権威を重視」)や「人間性の宗教」(「神的なるもの、人間、自然をバランスよく分離して考え」、「人間を神にも自然にも隷属させまいとする」)と区別される。他の二つの宗教性は、神的なものは何らか上位の次元に存在すると考えるのに対して、「スピリチュアリティ・オブ・ライフ」においては、神的なものの人格性は後退し、神性・人間・自然の三者は、その奥底では同一の生命性として繋がっていると考えられる。また、何かよき事をもたらすのは、過去への学びや様々な修養であるよりも、自分自身の意識改革、すなわち「気づき」であるとされる。自己や世界を改善するための源泉は、全て自己の内部に求められる。

この、何らか超越的・神秘的なものとの「繋がり」を意識することを通じて、「自己変容」に至ろうとする点こそ、新霊性運動/文化≒「スピリチュアル」(的なもの)の核心である。この点については、既にほぼ合意ができていると言ってよいだろう(磯村〔2007〕、24頁)。しかしながら、なぜ70年代以降に、そのような「繋がり」が希求されるようになったのか、「自己変容」が欲せられるようになったのか、これらの点については十分に明らかになっているとは言えない。それは社会の変化に対応しているはずであるが、具体的にはどのような変化なのか。そのことを論じるためには、もう少し補助線が必要である。



信仰/無信仰と「心の豊かさ」


興味深いデータがある。NHK放送文化研究所が5年毎に実施している世論調査の中に信仰についての質問が設けられているのだが、そこでは信仰の対象として神や仏の他に、「奇跡」「お守り・おふだの力」「あの世」「易・占い」などの選択肢が用意されている(図「信じているものの推移」NHK放送文化研究所編〔2004〕、138-139頁)。調査毎の推移を見ると、1973年から1978年の間に、「何も信じていない人」(図右の棒グラフで上から二番目*8)の割合が11%も少なくなっている。この変化に1974年以降の超能力/オカルトブームが一役買っていることは、おそらく間違いが無い。その後、「何も信じていない人」の割合は1983年にさらに4%減少したが、それ以降は、1993年まで1%ずつ増やしているだけである。それが、1998年には一挙に6%増加した。この間に起きたことで影響がありそうなものと言えば、地下鉄サリン事件などに伴うオウム真理教幹部の逮捕と教団の解体が挙げられる(1995年)。オウム事件後、日本社会内部において、宗教的・神秘的なものに対する懐疑・警戒の視線は厳しいものとなった、かのように思えた。



だが、2003年の調査では、「何も信じていない人」の割合は再び8%の減少を見せ、1983年の水準に戻っている。これを見る限り、宗教的・神秘的なものへの忌避は、一時的な現象に過ぎなかったことになる。加えて、注目すべきことに、98年から03年の間には「神仏のどちらかを信じている人」(棒グラフの一番下)の割合に、ほとんど変化が無い。つまり、この間の「何も信じていない人」割合の減少分は、主として「神仏以外のものだけを信じている人」(棒グラフ下から二番目)の割合に吸収されているのだ(6%増)。この点に注目して見直してみると、「神仏以外のものだけを信じている人」の割合は、少なくとも1988年以降(大まかに考えれば1973年以降)、一貫して増加していることに気付く。オウム事件を挟んだ93-98年間でも、減少したのは「神仏のどちらかを信じている人」の割合だけで、「神仏以外のものだけを信じている人」の割合は、その減少分の半ば(5%)を吸収する形で増加しているのである。つまり、オウム事件から社会が「学んだ」のは、一体何だったのだろうか? ここには巨大な問題が横たわっている。


98-03年の間に宗教を巡る事件が無かったわけではない。1999年にはライフスペースのミイラ事件が起こり、2000年には法の華三行の福永法源が逮捕され、2003年にはパナウェーブ研究所の白装束集団が騒がれた。その度にマスメディアは、また新宗教かと、憤慨と呆れと嘲笑が入り混じった視線と論評を投げ付けてきた。しかし、人々は宗教的なもの・神秘的なものと距離を広げようとするどころか、縮めているようにも見える。これは一体何によるものなのだろうか。

しばしば指摘されるように、新宗教絡みのトラブルを批判的に報道するテレビが、他方で超能力や霊能力、各種の占いなどを肯定的に取り扱った番組を毎日のように放送し続けている影響は無視できない。近年の目立った例としては、「六星占術」を掲げて人生相談を請け負う細木数子が2003年頃からテレビでの露出を増やし始め、複数のレギュラー番組を抱えるようになったことが挙げられる*9
しかしながら、テレビ番組で何が採り上げられるかは視聴者の反応が少なからず斟酌されて決定されることであるから、テレビの影響力を指摘するだけでは分析として十分でない。そうした放送内容を(潜在的にでも)求め、現に消費している人々の存在そのものに目を向ける必要があるだろう。


例えば、一つのヒントはここにあるかもしれない。内閣府が毎年行っている「国民生活に関する世論調査」には、「今後の生活で心の豊かさと物の豊かさのどちらかに重点をおくか」との質問項目が設けられている。1978年、この問いに対して「心の豊かさ」と答えた人の割合が、「物の豊かさ」と答えた人の割合を初めて上回った(内閣府〔2007a〕、第2図)。その後、83年頃まで両者とも40%前後の割合で拮抗し続けるが、84年以後は「心の豊かさ」を重視する人の割合が「物の豊かさ」を重視する人の割合を引き離し始め、2007年には「心の豊かさ」重視が62.6%であるのに対して、「物の豊かさ」重視は28.6%にまで低下している(内閣府〔2007b〕、2-2-(3))。

「心の豊かさ」の内実が何を意味しているのかは不明であるが、そのような実体不明の何かが求められるようになっているということは知れる。むしろ実体不明であるからこそ、神秘的・超越的なものとの「繋がり」によって隙間が埋められる蓋然性があるのかもしれない。ここに「スピリチュアル」的なもの(新霊性運動/文化)の受容/消費を支える土壌を見出すことは、誤りではないだろう。しかし、ではなぜ「心の豊かさ」が希求されるようになったのか? 問いは遡及され続けるが、それに取り組むより先に、近年に勃興した「スピリチュアル」的なものの幾つかを改めて記述しておこう。


2001年には、「スローライフ」を掲げる辻信一『スロー・イズ・ビューティフル』が公刊されている(辻〔2001〕)。スローライフとは、現代の産業社会・消費社会は生活に速度や効率を求めるあまり、資源の浪費や匿名性の上昇、精神的余裕の喪失などを引き起こしてきたとの問題意識の下に、生活を「スローダウン」させることから人間が本来あるべき姿を回復させていこうとする立場によって提唱されているライフスタイルである。

その起源は、1980年代の北イタリアにおいて、ファストフード・チェーンの進出に対抗して展開された「スローフード」運動に求めることができる*10スローフードとは、各地方の伝統や気候風土と密接に結び付いた食材や調理法を生かした食事を楽しむことだとされており、そのことによって同時に伝統文化や生物の多様性の維持、食の安全確保などが実現できると想定されている。したがって、スローライフを体現する人々は、省資源やリサイクルなどを通じてエコロジーに結び付くと同時に、地産地消や文化継承を通じて、地域共同体や伝統との関わりを強める蓋然性を持つようになる。


スローライフと非常に親和的ないし近似的であるとされるのが、「ロハスLOHAS:Lifestyles Of Health And Sustainability)」である。この言葉は、1998年に米国で作り出されたもので、地球環境や世界平和、社会正義に対して問題意識を持つとともに、自身の健康や精神性の向上、自己実現に高い関心を寄せる人々の生活様式や消費行動を意味する。日本では2002年に初めて紹介され、2004年以降には雑誌『ソトコト』を中心に採り上げられる機会を増し、多くの人に知られるようになった(岡田〔2007〕)。スローライフとの比較で言えば、自己啓発的な要素が相対的に多くを占めている分だけ、新霊性運動/文化との結び付きは強固であると推測される。


レトロブームについても触れておきたい。2005年、1958(昭和33)年の東京下町を舞台にした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』が公開され、大ヒットを記録した(2007年には、続編『ALWAYS 続・三丁目の夕日』が公開)。この作品は、「決して裕福ではなかったけれども、人間関係が濃密で温かみがあった」時代の日本を再現したとされており、現にそのように受容された。ここには、「心の豊かさ」への志向性が顕著に現われている。

過去の日本への懐古ないし憧憬を消費行動に結び付けようとする傾向は、『ALWAYS』以前から見られる。分かり易いところでテーマパークに限っても、 新横浜ラーメン博物館(1994年開業)、デックス東京ビーチ台場一丁目商店街(2002年開業)、大分県豊後高田市昭和の町(2001年開業)などが挙げられる*11



「スピリチュアル」的な消費


さて、「スピリチュアル」(的なもの)≒新霊性運動/文化が70年代以降に台頭してきたとは言っても、宗教的・神秘的・呪術的なものへの志向性が人々の間で一貫して保持されてきたのだとすれば、そこにどのような社会の変化があるのかは読み取りにくい。一体、何が変わったというのだろうか。


一つには、物質主義からの離脱を求めて「スピリチュアル」的なものに接近しながら、その受容の方法が市場的な消費行動以外の仕方を採ることがますます難しくなっている、ということが挙げられる。

島薗によれば、既に新宗教においても「消費主義化」が先進国共通の現象となっており、「自己の体験や能力向上に役立てようという態度で接近してくる」入門者/信徒に対して、教団側が「教えや儀礼や修行の習得の場を、情報や特定技術やサービスやエンタテイメントの提供の場として装う」傾向が顕著であった。その傾向は、新霊性運動/文化において一層あからさまなものになり、「企業的な組織が、不特定多数の消費者に、情報や技術やサービスを販売するという形での普及が支配的」になっている。「個々人の自己充足への志向がたいへん強い」新霊性運動/文化では*12、ボランタリーな共同行為の実践よりも商業的・消費主義的な枠組みの方が優勢にならざるを得ないのだと言う(島薗〔1996=2007〕、348-349頁)。


しかし、「スピリチュアル」な消費を可能にする資源は、ほとんどの場合、物質主義的ないし合理主義的な原理を徹底させた生産過程の中で獲得されなければならない。すると、非「スピリチュアル」的な日常から脱するために「スピリチュアル」的なものに接近するのだが、その接近を可能にする原資は非「スピリチュアル」的な日常から得なければならず、そうした日常の中で蓄積された不満や欠乏を埋めるため(「心の豊かさ」を得るため?)に一層「スピリチュアル」的なものへの没入を強める、というサイクルを描いて見せることができる。

このようなマッチポンプ的なサイクルは、再帰性を体現するものである*13。現代において、呪術的なものは、日常の中に在るのではない。脱呪術化された日常から*14、敢えて呪術的なもの(「スピリチュアル」的なもの)へ近づこうとする。「スピリチュアル」的なものの興隆は、そのような再帰的選択によって成立している。


「スピリチュアル」的なものへの接近によってもたらされる「何か」と繋がる感覚は、それを体験する個人にとって、自分が世界の中に位置づけられ、その生が意味付けられるという機能を果たす(磯村〔2007〕、46頁)。それは確かに宗教的な機能であるが、「スピリチュアル」的なものが(新宗教を含めた)既存の宗教と異なるのは、機能遂行における個人側の選択可能性が高く、自由な消費生活との親和性が大きいことである。一般に、「スピリチュアル」的なものへの接触は、「集団生活や人と人との対面的接触を通してではなく、各自の独立した生活空間から書物、映像、メディアを介した音(録音、放送、電話)などを通して」行われることが多く、「集会、講座、ワークショップなどへの参加が求められる場合も、集団での実践よりは個々人の実践の方に力点がある」とされる(島薗〔2007〕、57頁)。「スピリチュアル」的な商品は、様々な形態のものを個人単位で消費することが可能であるという意味で、個人化した社会に適合的な宗教メディア/ツールである。


個人を特定の場や関係に結び付けて固定する伝統や共同体の機能は、都市化の進行に従って衰弱していく。今や個人は、どこにでも行けるし、何にでもなれる。だが、それゆえにこそ不安に襲われ、寄る辺なさにさいなまれる。自らの生を意味付けてくれる大きな枠組みが無い。都市化が進行すればするほどに生を意味付けてくれる宗教的機能への需要は高まるが、多くの人にとって既に獲得されている消費生活の利便性と個人的自由を手放すことは困難であるため、宗教的機能が提供される仕方は、個人主義や消費社会と両立可能な形態に変化せざるを得ない。それが「スピリチュアル」的なものなのだろう。

皮肉なことにと言うべきか、逆説的なことにと言うべきか、そこでは脱物質主義的な価値が物質的・市場的に提供されている。超越的なもの(「スピリチュアル」的なもの)が、内在的・即自的なもの(「モノ・サピエンス」的なもの)によって囲い込まれている(パッケージ化・テーマパーク化)。この事態は、おそらくは宗教的・精神的トピックに限らず現代社会を特徴付けるものであるので、ひとまず強調だけはしておく。その上で、話を先に進めよう。



オリジナリティの規範化


ここからは、「スピリチュアル」的なものに固有の文脈を離れて、より広く現代人のアイデンティティについて検討する議論に接続してみよう。ここで注目したいのは、若年層における職業に対する意識である。新入社員に就職先の企業を選ぶ際に重視した点は何かを尋ねた結果を見ると、「会社の将来性を考えて」と回答した人の割合が低下し、「自分の能力、個性が生かせるから」、「仕事がおもしろいから」、「技術が覚えられるから」と回答した人の割合が高まっている(内閣府〔2007a〕、第3-1-24図)。1971年と2008年を比較すると、「会社の将来を考えて」は27%から8.7%へと大幅に低下しているのに対して、「自分の能力、個性が生かせるから」は19%から28.3%に、「仕事がおもしろいから」は16%から23.8%に、「技術が覚えられるから」は7%から13.6%に上昇している(社会経済生産性本部・日本経済青年協議会〔2007〕、5-6頁社会経済生産性本部・日本経済青年協議会〔2008〕、5-6頁)。


このデータには、会社に身を任せるという忠誠心・依頼心の後退と、自助・自立ないし「やりたいこと」への志向性の強まりを見出すことができる。「会社の将来性を考えて」割合の一貫した低下は低成長時代への突入によって説明できるし、その低下分を吸収したことが「自分の能力、個性が生かせるから」割合増加の主因だろう。「仕事がおもしろいから」と「技術が覚えられるから」の割合が明確な上昇を始めているのは90年代半ば以降であり、これについては、長期停滞を契機とした大規模なリストラや日本的雇用慣行の衰退(即戦力志向、成果主義の導入、企業福祉の切り下げ)を背景として指摘できる。会社共同体の崩壊を見せつけられ、会社は以前のようには社員を守らないというメッセージにさらされ続けた若年層は、従来とは異なるマインドを持つことを迫られたのである。


そもそも、現代のように機械化され、断片化され、マニュアル化された仕事においては、労働者に求められる熟練の程度は低下する。熟練の必要性が小さくなれば、職業生活においてやりがいを得られる可能性も小さくなる(速水〔2008〕、137頁)。やりがいが得難くなればなるほど、やりがいのある仕事を求める志向性が強くなるのは自然である。

雇用の流動化は、そこに拍車をかける。なぜなら、雇用が流動化すれば、働くことが直ちに生活の安定には結びつかないことになり、「何のために働くのか」という労働の意味が反省的に欲求されざるを得ない。働くことの自明性が失われるのである。それは一方では「面白い仕事」「個性を活かせる仕事」「自分らしい仕事」の希求に結び付き、長時間労働離職率上昇・非正規雇用拡大などをもたらす要因になり得るだろうし、他方では、労働の意味喪失によるアノミーをもたらすかもしれない。


実際、現今の就職活動市場でのメインメッセージは、「なりたい自分」をイメージし、「やりたいこと」を見つけ、オリジナルな自己を構築すべき、というものである(速水〔2008〕、119-121頁)。現在の社会では、オリジナリティを確立すること、あるいはオリジナルなアイデンティティを持つことが、規範化されている

消費社会の高度化は*15、人々が採り得る選択肢を多様化させ、目標や生活様式の共有を困難にする。各人は多様な選択肢から自分に合ったものを自由に・自発的に選択するので、自分がなぜ「それ」を選ぶのかを問わざるを得ない。そのような社会では、「自分はどんな人間なのか」について、絶えざる反省が迫られる。それゆえに、「自分語り」や「自分探し」は不可避のものとなる。いわゆる「自分探し」的な振る舞いは、既に60年代末には現われているが(速水〔2008〕、83-85頁)、おそらく70年代までの「自分探し」は、社会が共有するモデル的な人間像への反発としての意味合いが強かったと思われる(80年代は共有されたモデルの虚構性が明らかながらもフェイクとして維持されていた時代――なのだろうか? 実際のところは分からない)。90年代以降に「自分探し」が全面化するのは、社会内部で普遍的に共有される物語が失われ、規範化=モデル化された人間像が見当たらなくなったためだろう*16。そこでは、むしろ「自分探し」の方が日常的な風景となるのが自然である。


メディアの発達がもたらした膨大な情報にさらされていれば、あらゆる「個性」がパターン化された陳腐な「キャラ」でしかないことは、否が応でも認識させられる。のんびりしていたら、自分はただの入れ替え可能な存在でしかないことになってしまう。だから、自分だけに固有の個性、「自分らしさ」を獲得しなければならない*17。「自分らしさ」は得難いものであるがゆえに求められるし、それを得ることによって自己肯定感をもたらしてくれる源泉である*18

だが、「自分らしさ」を構築するためのツールのほとんどは、パッケージ化されたものが市場で提供されている。それゆえ、大方の「自分らしさ」なるものは、幾つかのパターンに分類可能(相対化可能)なものである。在り得る個性などは、様々な要素(確定記述)の組み合わせでしかなく、入れ替え可能なものである。自らが誇る「自分らしさ」もパターン化されたものでしかないことに気づけば、人はまた新たな自分探しへと駆り立てられるかもしれないが、その旅に本質的な終わりは無い(もちろん事実的な終わりはある)。


島薗は、救済を訴える既存の宗教が先進国において一様に不人気である理由の一つに、「悪の私事化」または「不幸の個別化」を挙げている(島薗〔1996=2007〕、314-316頁)。経済的な達成を経て、厚い中間層が形成された後では、「共同的な悪」「集合的な不幸」という観念は成立しがたくなり、人類/世界/社会を普遍的に「救済する」と言うようなロジックは、受け入れられにくくなっていく。新霊性運動/文化において「自己の変容」が第一の課題とされるのは、そうした共通基盤の衰弱に対応しているということであろう。

これは、中間層の拡大だけを根拠とするのでは不十分であるものの*19、社会の共同性が信じられにくくなっていく状況下で起こる宗教性/精神性の変容を把握する上では、示唆的な指摘である。消し去られるべき悪が私事化され、乗り越えられるべき不幸が個別化されるということは、問題の解決にあたって期待できる社会的な支援がすり減っていくことを意味する。私的/個別的であるとされた問題は、個人的に取り組まれ、個人的に責任を取られるしかない(自己責任)。それが、自ら選択した結果であるのなら、尚更である(再帰性)。社会的な支援を期待できず、行動の結果について自らの責任で処理をしなければならないという状況は、大変な心理的抑圧と不安を喚起する。それゆえに、何らかの「寄る辺」を得るべく、「何か」と繋がる感覚を得たいという欲求は強まるであろうし、自己/生の意味および位置を求めて、各種の物語に接近しやすくなるであろう。




宗教 (図解雑学-絵と文章でわかりやすい!-)

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ポケット図解 宗教社会学がよ~くわかる本

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現代日本人の意識構造 (NHKブックス)

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スロー・イズ・ビューティフル (平凡社ライブラリー)

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生命観を問いなおす―エコロジーから脳死まで (ちくま新書)

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精神世界のゆくえ―宗教・近代・霊性

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スピリチュアリティの興隆―新霊性文化とその周辺

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<スピリチュアル>はなぜ流行るのか (PHP新書)

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自分探しが止まらない (SB新書)

自分探しが止まらない (SB新書)

*1:「癒し」なる言葉は、1999年頃にブームとなった。当初は主に特定の女性芸能人や音楽の特徴を言い表す際に使われた「癒し」「癒される」「癒し系」などの表現は、急激に普及するとともに対象の限定を失い、現在でも一般に通用している「癒し」@Wikipedia

*2:江原啓之 プロフィール」@江原啓之 公式サイト。「江原啓之」@Wikipedia

*3:このような考え方は、後述する「ロハス」などにも受け継がれているものだと思える。

*4:この信念には、いわゆる「疑似科学」の一種とされる「水からの伝言」を想起させるところがある。

*5:ただし、GLAの設立は1969年。幸福の科学は1986年。

*6:日本における展開については、「精神世界のゆくえ」@G★RDIAS、も参照。

*7:疑似科学を含む「スピリチュアル的なもの」の受容者がどのような社会的属性を持つ人々であるのか、その実態についての実証的研究を私は渇望している。疑似科学などがなぜ信じられるのかについては例えば認知心理学による説明が既にあるが(例えば菊池聡超常現象をなぜ信じるのか―思い込みを生む「体験」のあやうさ (ブルーバックス)』)、どのような人々によって信じられるのかについての社会学的説明は不足しているように思う。その不足が埋められなければ、疑似科学談義にこれ以上の益は無い。

*8:一番上の選択肢は「わからない・無回答」。見にくくて申し訳ない。

*9:細木数子」@Wikipedia

*10:スローフードジャパン公式ウェブサイトを参照。なお、スローフードジャパンの設立は2004年。

*11:ここで挙げたテーマパーク全てが、一様に昭和30年代を「過去」として選んでいることは興味深い。

*12:「個々人の意識の変容の集積が、人類全体の意識の変革に自動的につながっていくという考え」は、「「自分が変わる」ことで満足して、「他者と行動を分け持ち、仲間と他者に対して責任をとるという立場を引き受けようとしない」態度と結び付いている。島薗〔2007〕、49頁。

*13:その健全性を評価する基準は、結局バランスであるとしか言えないだろう。

*14:現代の日常が「脱呪術化」されているかどうかは、過去との比較でしか言えない程度問題である。科学と技術の発展に基づく合理主義の浸透は、人々の生活に占める呪術的要素の割合を確実に減少させてきたはずで、その相対的な事実認識に疑いを差し挟む余地は無い。

*15:「消費社会」が何を意味するのかは別途検証が必要である。

*16:このパラグラフの論述は裏付けが乏しいので、他のトピックについての議論を通じて検証・補強されなければならない。

*17:一般に言う「自分らしさ」とは、属性・確定記述に還元されず、相対化不可能な固有性として観念されている。

*18:そのような困難な作業が必然化されるがゆえに、「なりたい自分」に到達できない現状の自分をそのまま承認/肯定してくれることへの欲望は強まっているのだと考えられる(「そのままの君でいい」「そのままのあなたが好き」「無条件の愛」「無条件の肯定」)。その場合、自己の固有性(「自分らしさ」「本当の自分」)が何であるのかは分からないままであるとしても、それを「知っている」と告げる相手の存在によって、自己の位置付け・意味付けは(一時的に)達成され、自分は入れ替え不能な存在であるとの充足感覚が(一応)もたらされるのである。

*19:この根拠を多面的にあぶり出していくことが本シリーズの目的の一つである。