個と個人主義


松尾匡さんのページで言及を頂いたのに応えて、シュティルナーと個人主義についてのコメントを返させて頂いた。多くの人をおいてけぼりにしそうなテーマと内容なので、補足として拙文を載せておく。上は修論、下は前掲の未発表論文から。本当は早くこっち方面をガシガシやりたいのだが、そのための露払いが長いことかかるなぁ。

ノージックは、功利主義の背景には社会全体で最大化された効用を享受する実体的存在の想定があると考えた。個人としての私たちが「より大きな利益のためまたはより大きな害を避けるため、痛みや犠牲をあえて受けることがある」ように、「社会全体の善のために、ある人々が他の人々により多くの利益を与えるような何らかのコストを負担すべきだ」という考えは、何らかの「社会的実体」を前提にしていると言うのだ396。ノージックはそのような社会的実体は存在しないとして個々人の人格の別個性を強調するのだが397、他方で森村はこのようなノージック功利主義批判を失当であると退ける。森村によれば、「功利主義は幸福や快を経験できるのが個人であることを否定せず」、「単に別々の人の効用を比較したり足したりすることを許しているにすぎない」のだから、「個々の人を超えた「人類」とか「社会」が幸福や快の総体を経験するかのように想定している」わけではない398。
 だが、問題は、なぜそのように「別々の人の効用を比較したり足したりすること」が許されるのかというところにある。それぞれ独立した別個の人格が経験する効用を、なぜ足し合わせることができるのか。森村自身は人格の同一性は相対的であるというD.パーフィットの主張に基づいて人格の別個性も相対的であるという考えを支持するため399、この問題を容易に乗り越えることができるが、そのような考えが一般的に支持されているわけではない。したがって、一般的に「別々の人の効用を比較したり足したりすること」が許されているのはなぜか、という問いの重みは無視できない。同様の問いは、権利功利主義の承認について、別々の人の権利侵害や権利実現の程度を足したり、別々の人の権利の重大性を比較したりすることが許されるのはなぜか、という問いとなって発することができる。個人の権利が個人の資格によって承認される固有・不可侵の権利であるのならば、そもそもそれを足し合わせたり相互に比較したりすることは不可能であるはずではないのか。


4.権利の属性準拠性
 この問いについて考えてみると、明らかに以下のように言えることに気づく。すなわち、人格の別個性を認めつつ、各人の効用や権利侵害および実現の程度を足し合わせることが許されるということは、総計された効用や権利侵害および実現を直接経験するような実体的存在としてではないにせよ、総計の対象となる主体の範囲を画定する何らかの全体社会の存在が前提されていなければならない。つまり、誰の効用や権利侵害・権利実現を足し合わせるか、誰と誰の権利を比較するかを決定するためには、人類や国家、あるいはより狭い道徳的共同体や政治的共同体、その他の特定集団を全体社会として想定する必要がある400。
 個人の権利は、そのような当該社会、当該集団への帰属性を資格として付与・承認される。したがって、個人は個人の資格により権利を有するのであるが、その権利は一人の人間(個‐人)であるという属性を理由とするものであって、その個人が他の誰でもないその個人であるという単独性を理由とするものではない401。この点でノージックは誤っていた。つまり、個人の権利は、常にその権利を帰結する帰属集団に準拠することで存立しているのであり、それゆえ、同じ社会体や集団に帰属する者の権利間での調整としての制約が正当化されるのは、権利の属性準拠性からして自然な帰結である。当該の権利を付与し承認している当の社会全体の利益や権利実現の程度にかかわらず、個人の権利は絶対的に保護されなくてはならないと考えることは、権利の根拠と性質についての根本的な誤謬に基づく甘い見通しでしかない。

 では、「唯一者」が唯一無二である根拠たる「唯一性」とは何か。それは、「特性記述をどれほど積み重ねても指し示されない・微分不可能な「単独性」」を意味している 。柄谷行人によれば、「単独性は、特殊性が一般性からみられた個体性であるのに対して、もはや一般性に所属しようのない個体性である」 。
 「私がある」と言われた場合の「私」とは「一般的な私のひとつ(特殊)」であり、「特殊性」に対応する 。この意味での「私」とは「どの私にも妥当する」取り替え可能な「私」であるのに対して、「この私がある」と言われた場合の「私」は「単独性」に対応し、「他の私と取り替えできない」 。ここでの「この」とは「何かを指示する」場合に「一般者を特殊化(限定)する」ものとしての「この」ではなく、「たんに私と他者の差異(非対称性)を指示する」「この」である 。「単独性」としての「この私」は、同じ性質と同じ属性を持つ「類」の内の一つとして指示される「個」ではない。「人間」や「国民」など、「類」の内の一個として名指された「私」は、ただその「類」との対応関係だけで測られてしまう。「単独性」とは、このような「類」-「個」の軸、「一般性」-「特殊性」の軸を逸脱するものである。

[中略] 

 「この猫」が「他ならぬこの猫」であり、「どんな猫とも替えられない」のは、「この猫」が「他の猫と特に違った何かをもっているからではな」く、「この私」が「単独的である」のは、「私が余人に替えがたい何かをもっていることを少しも意味していない」 。「この猫」や「この私」は、「ありふれた何の特性もないものであっても、なお単独的(singular)なのである」 。「単独性」の根拠は、個体にとっての何か「本質的な部分」としての「この私性」に求められるわけではない。「単独性」とは内容的なものであるよりもむしろ、極めて形式的なものであると言い得る。極論を言えば、ある個体に「一般化=言述不能な部分」が残されていなくても、「単独性」は認められる。特性記述の積み重ねで十分言い尽くされたような個体であっても、なおその個体は「唯一者」である。
 「単独性」は個体の「部分」に宿るものではなく、「身体的・物理的な合成」であり、「諸行為や諸関係の総体」であるところの個体 、もしそれが存在するとすれば「本質的な部分」としての「この私性」も含んだ、一体としての個体にはじめて「単独性」が認められるのである 。個体とは「それ以上分割すれば消滅してしまうような一つのまとまり」であるのだから 、その個体の「本質的な部分ではない」属性一つ欠けてもその個体は同じ個体ではなくなるはずである。「一般化=言述不能」であるのは「部分」としての「この私性」ではなく「この私」そのものであり、それ以上分割不可能な、ありのままで完全である「唯一者」なのである 。
 さて、以上から、シュティルナーが極端な個人主義を提唱したとの通説も修正されるべきことが明らかである。エゴイズムは、決して「個人」を重んじない 。ただ「唯一者」を重んじる。個「人」であることを理由にこれを重んじるとすれば、未だ「人間なるもの」の呪縛から免れていないことになってしまう。「唯一者」は「個」ではあるが、「個」に還元されるものではない。「個」は「特殊性」に対応するものであり、絶えず「類」との関係に縛られている。たとえ「人間」を「動物」なり「生命」なりに言い換えたとしても、「個」の価値の源泉を「類」に求める構造は変わらず、「唯一者」は従前通り「一般性」-「特殊性」の関係軸に還元されてしまう。したがって、エゴイズムを論じる者は、それを短絡に個人主義その他の「個」の思想に結びつけてしまうべきではない。