現代日本社会研究のための覚え書き――7.教育


今回は短め、です。その分、増補の余地が大きいと思われ、ます。特に90年代以降については、もう少し勉強&検討が必要かと。

国民教育の成立


国家の近代化を担う国民の教化・啓蒙を進めるため、明治政府は1871年に文部省を設置する。翌72年には学制を公布して、あまねく国民に自律した近代的主体としての能力を身に付けさせることを目指す、「国民教育」の建設に着手した。全国に小学校が設立され始めると、江戸期から寺子屋で庶民教育が行われていたこともあり、75年には男子の小学校就学率が50%を超えた(五味ほか編〔1998〕、328頁)。79年の教育令、80年の改正教育令を経て、86年に公布された学校令によって、保護者には児童に教育を受けさせる義務が課せられた(義務教育の開始)。その後、1900年に義務教育期間が4年に確定されるとともに授業料が廃止されたことにより、就学率は大幅な伸びを見せる。男子に後れを取っていた女子就学率も急激に上昇し、義務教育期間が6年に延長される1907年には、男女ともにほぼ100%に届いていた(五味ほか編〔1998〕、384-385頁)。


(浜島書店編集部〔1998〕、173頁)


国家による国民教育は、近代化を担う人材育成のみならず、国家機関によって整備された空間における集団生活の中で、身体の同時的な規律、画一的な言語や知識の受容、様々な象徴の共有などを通じて、国民(nation)の統合を実現することも主要な目的としている。1890年には天皇を頂点とする日本国家のイエ的一体性を説く教育勅語が発布され、1903年から小学校で使用が開始された国定教科書などを通じて、国家体制を道徳規範秩序と結び付ける機能を果たす「国体」観念が国民に植え付けられていくことになる(五味ほか編〔1998〕、385頁)。20世紀初頭における初等教育の一般化は、国家を外面的/内面的に支える近代的主体としての国民を規律訓練する仕組みが確立したことを告げるものであった。


もっとも、国民教育なる国家プロジェクトが最初からすんなりと進行したわけではない。貴重な労働力である児童の就学に反対する声は農村で根強く、授業料や学校設立費などの負担もあいまって、学制公布後には小学校の廃止を求める一揆も発生した(五味ほか編〔1998〕、329頁)。

初等教育への就学が一般化した後にも、社会に占める学校の存在感は極めて限定的なものであった。第一次産業が産業の中心である時期には、学校で習得する知識や行動規律などは、多くの人々にとって、さして重要なものではなかった。実質的な職業選択の余地が乏しく、階層上昇の機会も閉ざされている環境において、農村の人々が学校に期待していた役割は、覚えておけば多少便利な読み書きそろばん能力を子どもに身に付けさせることがせいぜいであった(広田〔1999〕、40-41頁)。

また、家族が未だ地域社会や親族に対して開かれていた状況下では、子どもへの社会規範の伝達や人間形成は、家庭や学校に限られないより大きなネットワークの中で行われていた(同、47頁)。親が子どもに払う関心は今ほどに集中したものではなく、家庭教育なるものが行われることはほとんどなかった。総じて言えば、20世紀初頭の段階では、「教育」なる行為の必要性そのものが未だ認識されていなかったということである。


そうした状況が本格的な変革を迎えるのは戦後になってからだが、変化の兆しは、既に1910年代以降の都市部から現れ始めていた。この時期から、家庭での育児やしつけ、教育に関するノウハウ本が多数出版されるようになる(同、50頁)。それは、医者や学者、教師、軍人、公務員、銀行員など、都市の新中間層が家庭教育への関心を持ち始めたことに由来する(同、53頁)。この階層に芽生えた教育意識は、家内領域を公共領域から分離された閉鎖的空間と捉え、その内部における情緒的な結び付きを強調しながら、性別役割分業を強化する、「近代家族」観念の成立に伴うものである*1。家庭の外で勤務する夫/父に対して、家に係留された妻/母には家事と育児が割り当てられる。家族への内閉が始まるとともに、子どものしつけは家庭外のネットワークから切り離され、家庭内で、それも主として女性が行う役割として認識されるようになっていく(同、54-55頁)。こうして、教育する主体の形成とともに、教育される対象としての「子ども」が発見される(同、69-70頁)。

親が子どもの教育に関心を払うようになれば、学校への期待が高まるのは当然のことである。農村と異なり、都市部の新中間層の子弟の将来は、学校で習得した知識や技能によって左右されるところが大きい。また、家庭外のネットワークを通じた人間形成機能を期待しにくくなれば、子どもが日常的に通う学校に同じ機能を期待するようになるのも、自然な帰結と言える。子どもを介した家庭と学校の結び付きは強固なものとなり、国家の教育方針は学校を通じて家庭にも流入してくる。学校的価値観が家庭にも浸透し、学校における価値基準と家庭における価値基準の摩擦が、より小さくなっていく(同、56-57頁)。国民教育システムが大きな効果を生み出すことができるのは、このようにして国家に対置する社会独自の価値観が弱体となった状況下においてである。当該の状況は、戦後に全面化する。



大衆教育社会の成立と国民教育の成熟


久冨善之によれば、戦後日本の教育に関しては、4つの時期区分が可能である(久冨〔2002〕、久冨〔2003〕、久冨〔2003-04〕)。各時期の期間と特徴は表にまとめた(進学率の推移は、文部科学省〔2007〕の参考資料「就園率・進学率の推移」を参照)。この節では第3期、すなわち90年代以前までを扱い、次節で90年代以降の第4期について述べることにする*2

区分 第1期(1945〜59年) 第2期(1960〜74年) 第3期(1975〜90年) 第4期(1990年〜)
進学率 高校:40〜50%台/大学:10% 高校:58%→90%/大学:10%→38% 高校:90%台前半/大学:30%台後半 高校:90%台後半/大学:30%台後半→50%台前半
制度・政策の基調 新学制の定着期 教育機会の拡大 「教育問題」の噴出への対応 学校不信の定着と「教育改革」
競争の性格 抑制された競争(階層的限定性) 開かれた競争(大衆教育社会) 閉じられた競争(進学率頭打ち) 不安定型競争(競争の局所化)
社会状況 戦後復興期;階層分離 高度成長期;階層上昇と格差縮小 低成長期;平準化後の競争秩序 長期停滞期;階層再分離?

(久冨の整理を大幅に改変)


第1期は戦後復興期であり、未だ貧困が一般的に存在した時代である。第一次産業が中心であることから学校での勉強が大して役立つとは考えられていなかったことや、子どもも貴重な労働力であったために親が学校に行かせないケースが少なくなかったことなどが、戦前から持続する状況として存在した。長期欠席者数の長期推移を見ると、調査が開始された1959年から70年代半ばまで、小中学校ともに一貫して減少が続いている(久冨〔1994〕、36頁、久冨〔2003-04〕)。その要因の一端は、経済状況の改善である。53年に文部省が行った調査では、中学校での50日以上の長期欠席者の内、「家庭の無理解」を理由とする者は28.5%、「教育費が出せない」(6.7%)、「家計の全部又は一部を負担させなければならない」(15.5%)、「学用品がない」(0.3%)、「衣服やはき物がない」(0.3%)など直接に経済的理由による者は合計で22.8%であった(久冨〔1994〕、40頁)。「家庭の無理解」も前述のような産業構造や経済状況に由来するものがほとんどであると推測されるため、当時の不登校過半数は何らか経済的な事情によるものだったと考えてよい。

もっとも、1930〜40年代には既に、農村においても義務教育以上の教育を子どもに受けさせたいと考える親が多くなっていたが、経済的事情により実現が困難な場合がほとんどであったと言う(広田〔1999〕、89頁)。結果として、義務教育を超える中・高等教育には階層的な限定性が伴うこととなり、大多数の人々にとっては、高等教育はひどく縁遠いものであった。当時の学校における教師の権威が極めて大きなものであり、親が教育内容に注文を付けるようなことがまず起こらなかったのは、このような背景によるところが大きい(同、90-91頁)。


状況が変わるのは高度成長期への突入によってであり、第2期への移行はこれに対応する。経済成長による所得の向上と、産業構造の変化による農業の縮小が、高校・大学への進学率の急激な上昇をもたらした。この時期、離農や兼業化の選択をした農家の子弟が大量に高校に進み始めることで高校進学率が上昇するとともに、農業の世襲率が下降する(苅谷〔1995〕、133-134頁)。経済の急成長を背景に、学歴の獲得による階層上昇(「生まれ変わり」)の機会が拡大するとともに、学歴が子どもの将来を左右するとの認識が一般化し、農村を含むあらゆる社会層を巻き込んだ大衆的な競争が開始される(広田〔1999〕、108頁、苅谷〔1995〕、132頁)。

このように階層的限定性を突破した進学競争を久冨は「開かれた競争」と呼び、苅谷剛彦は、こうした競争の開始を画期として「大衆教育社会」が成立したと規定する(苅谷〔1995〕、12-13頁)。大衆教育社会とは、「教育が量的に拡大し、多くの人々が長期間にわたって教育を受けることを引き受け、またそう望んでいる社会である」と同時に、「どの階層に対しても教育が開かれており、また、階層によらず、だれもが教育に高い価値を置いている――そのようなイメージが定着している社会」である。60年代から70年代にかけて、教育問題や少年非行を貧困や階層性と関連付けて扱う研究や調査が姿を消していった事実は、このような「イメージ」の定着――非階層論的な認識枠組みの一般化――を傍証している(広田〔1999〕、138-141頁、苅谷〔1995〕、38-40頁)。

経済構造の変化と進学率の上昇に伴い、学校の役割も変容した。進学競争が一般化することで、学校は「生まれ変わり」の成否にかかわる決定的に重要な空間として、ほとんどの人にとって重大な意味を持つようになり、学校に対する期待は高まった(広田〔1999〕、108-110頁)。進学のみならず、進行するサラリーマン化の中、就職の世話をすることも学校の主要な役割の一つになる。また、農村とは異なる都市での規範・作法や、組織労働における行動規律の習得も、学校以外では不可能であった。

学校が担う役割の拡大は、近代における国民教育が完成しつつあることを告げていたし、それは拡大する経済にとって必要な人材を供給するという別種の要請にも合致するものであった。共通の価値尺度に基づき、共通の目標に向かって、横並びの競争をする学生は、所属する企業の方針に従順で、組織単位で共通の目標を達成しようと努力する、均質的な労働力として有用な人材となる(苅谷〔1995〕、200頁)。また、万人に開かれた学歴競争は、人々の間に平等意識を植え付けると同時に、現実に生じる不平等は、公正な競争の結果であり、積み上げた努力の差であるとして、社会の階層性を正統化する機能をも果たした(苅谷〔1995〕、201頁)。総じて、大衆教育社会の成立は、国家統合の強化を促すものであったと言えるだろう。


経済が低成長ないし安定成長期に入る70年代半ばには、文部省による抑制方針の影響もあり、進学率の上昇はストップする。以降、90年前後まで、高校・大学ともに進学率は横ばいが続く。門戸の広がりが制限される一方で、進学志向の高まりは鈍化せず、戦後最も受験競争が激しい時代、すなわち「閉じられた競争」の第3期が幕を開ける。激化する競争の中、「乱塾時代」と言われる程に進学塾や予備校が林立し、家計における教育費の割合も顕著な拡大を始める(図)。


(山田〔2005〕、207頁)


他方、校内暴力やいじめ、不登校など、学校における諸問題が注目を浴び始めるのもこの時期である。75年前後には、前述のような一貫した減少傾向にあった不登校が増加に転じる(奥地〔2005〕、153-154頁)。70年代後半以降、子どもによる親への家庭内暴力事件が盛んに報じられるようになったが、その背景には加熱する受験競争や閉鎖的な学校空間のストレスがあるとされた。70年代末から80年代初頭にかけては、管理教育や体罰の批判・告発が相次ぎ、学校や教師の責任が厳しく追及されるようになった(広田〔1999〕、118頁)。一連の「教育問題」の噴出を引き起こした大きな要因は、学校への期待が高まった分だけ、批判的な視線が浴びせられやすくなったことにある。無論、人権意識の高まりに伴い、元来は国民を啓蒙する機能を帯びていた学校が保守的で人権抑圧的な装置であると捉えられやすくなったことも影響しているだろう(同、132-133頁)。


だが、それに留まらず、本来は学校空間における価値尺度である偏差値が、大衆教育社会の成立とともに社会的尺度としても通用するようになり、社会全体が学校的価値観によって貫かれるようになったことによる影響を見逃すことはできないだろう。

宮台真司によれば、少なくとも60年代においては、家庭・学校・地域のそれぞれに異なる評価原則が生きており、「たとえ学校で勉強ができなくても、家に帰れば「お前は家業を継ぎさえすればいいから、勉強をやめて麻雀に加われ」「そんなに勉強してたら嫁のもらい手がなくなるから、花嫁修業をしろ」などと言う親がいた」し、「地域には竹とんぼ作り名人・虫取り名人・折り紙名人のジイチャン・バアチャン・アンチャン・ネエチャンがいた」ので、「学校に居場所がなくても、家や地元には、ちゃんと別の居場所があった」のだと言う(宮台〔1996=2000〕、146頁)。「ところが、とりわけ七〇年代後半から、急速に評価原則の均質化が始まる」(「学校化」)が、それは家族の空洞化の埋め合わせによるものだとされる(同、146-147頁)。高度成長期を通じた「近代家族」の確立と「家族への内閉」の進行により、家庭に――とりわけ母親に――求められる教育役割は拡大したが、そのような過剰な負担に応えるべく、親は子どもを「いい学校」に入れようとする。それは「子どもをいい学校に入れるのは、近所や親戚の誰から見ても明瞭な「良きこと」だと親は予期する」からだが(同、147頁)、そのような予期が生じるのは、社会的尺度は偏差値に一元化されていると、親が既に認識しているからである。

このようにして社会が学校的価値観に浸されている状況下では、子どもたちのアイデンティティ形成においても、学校的価値尺度=偏差値が中心的な地位を自然と占めるようになる。学校に馴染めないことは社会に馴染めないことであり、親の期待を裏切ることであり、アイデンティティの危機でもある。価値尺度が一元化されてしまえば、学校の問題は家族の問題になり、社会の問題になる。学校に反抗しようと思えば家族に反抗することになり、家族に反抗しようと思えば学校に反抗することになる。学校的価値を否定することは社会的価値を否定することであり、社会的価値を否定することは学校的価値を否定することである。社会の問題も家族の問題も自我の問題も学校に結び付けられざるを得ないのであれば、学校空間における問題が増加し、目立つようになるのは、必然と言える。かくして大衆教育社会の成熟がもたらした「学校化」は、「教育問題」の噴出を通じて「学校不信」を招き、「教育改革」のイシュー化を促すことになる。



日常化する「教育問題」と常態化する「教育改革」


90年以降の第4期(「不安定型競争」の時代)は、70年代後半以降に噴出した様々な「教育問題」を背景として、国民の間に「教育改革」の必要性が広く認識されるとともに、政府による「教育改革」についての議論や実践が活発化した時代である(苅谷〔2002〕、12-13頁)*3。第15期中央教育審議会が96年に提出した第一次答申では、過度の受験競争による悪影響への反省に基づき、子どもの「ゆとり」の確保と、知識量の多寡に還元されないような「生きる力」の育成を目指すべきことがうたわれた(同、45-48頁)。こうした認識に基づいて2002年から実施されている現行の学習指導要領(98年公示)は、「ゆとり教育」の名の下に授業時間や学習内容を削減することによって、子どもの学力低下を招くとして激しい批判を浴びた。批判を受けた文科省は、08年公示の新学習指導要領では授業時間増などを打ち出して「脱ゆとり」の方針を鮮明にしたものの、その一方で「生きる力」の育成方針は堅持している(学習指導要領改訂の基本的考え方文部科学省)。

いわゆる「ゆとり」路線は、77年公示・80年実施の学習指導要領から文科省が継続的に取り組んできたものである。その基調は過度の受験競争への反省であるが、そうした方針に基づきつつ、89年公示・92年実施の学習指導要領では「新しい学力観」なる概念と、個性を尊重した教育が打ち出された。「新しい学力観」とは、「自ら学ぶ意欲と社会の変化に主体的に対応できる能力を育成するとともに、基礎的・基本的な内容を重視し、個性を生かす教育を充実すること」を目指す立場である(苅谷〔2002〕、56頁)。この立場は、従来の「詰め込み型」教育に代わって、子どもの主体的な学習を促すことを通じて、創造性・思考力・判断力・表現力などを育成することを目指すものであり、後に「自ら学び、考える力」として打ち出されることになる「生きる力」と通底している(苅谷〔2002〕、48-49、56-59頁)。


こうした「ゆとり」路線や、少子化の進行の影響によるものか、90年代に入って、進学率は再上昇を始めた。これにより、全体としての受験競争は緩和されたが*4、それよりも重要なのは、この時期に、競争への動機付けに変化が生じたことである。バブル崩壊後の長期不況と、それに伴う大企業の倒産や日本的雇用慣行の衰退、相次ぐリストラや若年失業率の上昇などの事態は、学歴競争に身を置く子どもが社会から受容する人生モデルを喪失させた。「いい学校に行けば、いい会社に入ることができて、いい人生を送ることができる」という神話は、実生活では役に立たない知識の競争でも、それを勝ち抜けば安定した地位が得られると認識させることで、学習への動機付けを確保する機能を持っていた。そうした神話が崩れてしまえば、学習への動機付けは弱体化することが避けられず、受験競争や学校知識から撤退する子どもが多数出現しても不思議ではない。「輝かしい未来」が約束されなければ、今を犠牲にしてまで役に立たない知識に関する辛い競争に身を置こうと思う人間は、誰もいないからだ(宮台〔1997=2000〕、268頁)。

もっとも、学校教育から「降りる」子どもたちがまとまった規模で現れてきているのかどうかは、よく分からない*5。また、90年代以降も、偏差値上位校について言えば、受験競争が緩和したわけではない。ただし、大学「全入」とまでは行かないまでも、「選ばなければ入れる」と言われる近年においては、あからさまな形で「降りる」振る舞いをせずとも、適度に折り合いを付ける形で競争から撤退することは可能だろう。「いい学校」神話が崩壊した後でも上位校を目指して競争に身を投じる層と、何らかの形で競争から撤退する層の間で、二極化が進んでいるものと思われる(競争の局所化)。


「競争の局所化」は大衆教育社会の重大な変革であるが、社会ないし生涯全体における競争性は、むしろ高まっている点に注意が必要である。雇用が流動化するとともに年功賃金や終身雇用が保障されなくなる中、生活の「安定」は容易に得られるものではなくなっている。現代の企業が労働者に求めるのは、第一に創造性であり、第二に専門性であり、それらを持たなければ、単純労働力として「柔軟に」活用されるだけである。言うなれば、かつては学校的価値観に基づく競争に勝ち抜くことが自動的に生活の安定を保障してくれたが、現代では学校的価値観を超えたところで存在する競争において、自らの能力を現に示さなければならない。

90年代における教育政策の方向性は、そのような「生涯競争」を生き抜くための能力を身に付けさせることを目指すものである――とまで言うのは、おそらく不正確である。だが、ここに対応性があることは否定できない。「新しい学力」≒「生きる力」を重視する方針においては、学習上の力点は「理解する」ことよりも「問題を解決する」ことに移り、教育上の着目点は「何を学ぶ/覚えるか」よりも「どう動く/考えるか」に移った(苅谷〔2002〕、60-61頁)。その意図や成果はともかく、この転換自体は、経済/労働領域における現代的な要請――従順で均質的であるよりも主体的で創造的たれ――と合致している。また、自ら学ぶ意欲が重視されていることから、「いい学校」神話の崩壊による学習への動機付けの弱体化への対応が先取りされている面も読み取ることができる。

「いい学校」神話の崩壊は、教育現場における従来の評価軸(学校的価値観)を失効させたが、その結果として、親や子どもの側でも、単なる学歴志向よりも「やりたいこと」に即した「個性を伸ばす」教育への志向性が高まっている。今や、役に立たない知識を詰め込まれるよりも、現に役に立つ知識を習得するか、自分に必要なものを自分で探して獲得することができる姿勢や能力を身に付けることの方が、「輝かしい未来」に近づく道だと認識されつつあるのだ。



個人化時代の教育と子ども


現代において一般化している、子どもの主体性を重視する教育方針、いわゆる「子ども中心主義」の浸透の背景をどう見るべきだろうか。

第一には、「家族への内閉」が親の子どもへの愛着/固執を強めていることがあるだろう。「家族への内閉」が深化した結果、赤の他人が子どものしつけに口を出すことは許されず、「親と、親が認めた者だけが、子どものしつけの担い手の資格を持つような状況になってきた」(広田〔1999〕、127頁)。その結果、親は強迫的に教育主体としての責任を引き受けざるを得なくなっていく(同)。学校に対する親の視線がますます厳しくなっているのは、子どもの教育の最終的責任を帰せられる親の意向に反して、学校が「勝手なことをしてくれては困る」からである。親は教育サービスの「消費者」として、「正当な権利」に基づく学校教育への意見・介入を為し得る立場にあると見做されている(広田〔1999〕、130頁)*6

それと同時に、子ども自身が主体化ないし個人化していることも挙げられる。子どもを人権主体として捉える見方は70年代後半から現れていたが、明確に子どもを人権主体として認識し、尊重する態度が広まるのは、90年代に入ってからであろう*7。子どもの意思を尊重する一方で、自ら選択した行動の責任は取らせるべきだとの考えが強まっている*8。子どもを権利主体として尊重することは、自己責任を求めることと一体であり、強まる一方の少年犯罪への厳罰姿勢とも一体である。子どもが愛情やケアの対象としてますます「愛玩動物化」する傾向と、その内面が理解不可能であるとして「モンスター化」する傾向の並立は、こうして無矛盾に説明できる。「新しい学力」≒「生きる力」の重視は、子どもを自立/自律する主体として捉え、そうした認識に即して、相当の「配慮」と「要請」が、同時に子どもへと向けられていることの現れだと考えられる。


「いい学校」神話の崩壊に伴って、共通の評価軸が失われ、ライフコースの多様化が認識されることで、子どもの将来にかかわる選択肢も多様なものとして現われてきた(苅谷・増田〔2006〕、38頁)。既に評価軸は個別化されており、それぞれの選択の結果についての責任は、個人に求めれるようになる(同、41頁)。今や重要なことは、自分にとって/自分の子どもにとって有用な選択肢は何であるかであり、子どもの「個性」や「やりたいこと」に合った教育の確保である(同、42頁)。教育は、集団としての子どもを相手にする公共的営為であるよりも、個別の子ども=消費者に対価に応じたサービスを提供する私的取引としての性格を強めている。教育の個人化が、教育の(疑似)市場化ないし私化を生じさせている。それは、国民教育の第一の目的である自律的主体の形成を脱公共化するとともに、第二の目的である国民統合を欠損させる。教育による統合が、チープなシンボルやダイレクトな「心の教育」に期待されるようになっているのは、その不可能性を示すものだろう。



*1:家族」の項を参照。

*2:以下、各時期の特徴については久冨の認識に負うところが極めて大きいため、いちいち示すことはせず、ここで述べておくに留める。

*3:以下、教育行政の動きについては、『週刊ダイヤモンド』第96巻第14号(通巻4223号)、2008年4月、35-37頁、を参考にした。

*4:苅谷〔2002〕、114頁のグラフによれば、90年代に入って4年制大学への入学率は上昇を続けており、受験競争が緩和されていることが分かる。

*5:中高生の学習時間が減少傾向にあるとの指摘は存在する。苅谷〔2002〕、119-133頁。

*6:家庭教育の衰退が喧伝される一方で学校不信が深まる状況下で、家庭と学校は教育の責任を巡る日常的な駆け引きへと駆り立てられている。油断すれば、どちらが社会から指弾されるか分からないので、相手の隙を見つけては攻撃に転じるのである。「モンスターペアレント」なる言葉の浸透は、そうした駆け引きの一局面として捉え得る。

*7:89年に国連で採択された子どもの権利条約に、日本は90年に署名、94年に批准した。

*8:子どもはますます早期に将来について考え、進路を決定することを求められている――「13歳のハローワーク」。それは、子どもの「意欲」を喚起しようとする教育と方向を同じくするものである。