確率の前と後


東浩紀福嶋亮大にインタビューを受けた「オルタナティブの思想」『批評の精神分析 東浩紀コレクションD』(講談社BOX、2007年)から(初出2006年)。


 じゃあおまえはなぜ一回性とか確率とか言うんだ、というと、これはちょっと難しい話で、僕もよく言語化できません。そのうえで言うとこんな感じです。つまり、人生が百万回くらいあったとする。永劫回帰です。みな人生は一回しかないから貴重だと思っているわけだけど、本当はそうじゃない。それで、僕の人生はすでに十回繰り返されていて、いまがその七回目だとする。僕の哲学というのは、その七回目の人生は七回目なりにグッドエンドを目指そう、みたいな感じなんです。僕が『ファウスト』の原稿で言いたかった一回性は、そういう一回性です。無数の反復のなかの一回。
 こんなことを言うとバカにされそうだけど、僕のポストモダンの二層構造とか、ああいう話の根底にあるのは本当に美少女ゲーム的発想なんですよ。つまり、いろんな人生の可能性を与えてくれる永劫回帰のインフラが下にあって、そのうえに一回一回の人生が、選択肢の組み合わせの数だけ設定されている。そんな世界観なんですね。ここでのポイントは、人生は何回もやり直しがきくけれども、でも「この人生」「この選択肢の組み合わせ」は今回限りで終わりだということです。ゲーム=世界の総体を考えたときに、一回のプレイ=人生体験を大切にしようという層と、人生はシステムが呼び出してくるバリエーションのひとつでしかないのだから、それそのものについて考えても意味が無いという認識は、完全に調和します。というより、ゲームというメディアは、本質的にその統合を要求するわけです。
 というわけで、近代的な「経験的‐超越論的二重体」は崩壊しましたが、ポストモダンにはポストモダンなりの二重性が生じるわけです。それが、自分の人生に対するすごく素朴でナイーブな耽溺と、人生など偶然生み出されたものでありたいしたものではないという冷めた認識の共存なんですね。それは、統合というか接合というか隣接というか……ともかく、僕はそこに関心があるわけです。『動物化するポストモダン』にも、その辺は書いてあります。


[311-312頁]


僕の言いたいことは、むしろとても単純なことです。たとえば先日、ジェイコム株の誤発注に乗じて、二〇億円だかを儲けた二〇代のデイトレーダーがいて話題になりました。ああいう事件はまさに「不意」の奇跡です。しかし、巨大なシステムがあればそういう巨大なミスは必ず確率的に起きるし、起こる以上それで儲かるやつも確率的に出る。宝くじと同じで、三億円が当たった人にとっては奇跡だろうけど、それはそういうシステムなんだから、その視点で見れば奇跡は必然にすぎない。交通事故だって、当事者にとっては大変な事件だけれども、統計的には毎年何万人という規模で起こる平凡な事件ですね。つまり、あるひとがなにかの事件を一回的に体験することと、それが統計的で平凡であることは、両立する。そこをあえて「あるひと」の視点で統合すると物語が生まれるわけだけれど、大きな物語が消滅した現代社会においては、その統合がうまく機能しない。したがって、確率的な感覚が物語なしに露呈してくる。
 もともと、世界は偶然によって作られていて、成功するも失敗するもわりと運でしかないし、誰と結婚するとか子どもがどうなるとか、それぞれの人間にとっては一回限りの出来事なんだろうけど、もし人生を巻き戻してやり直せばたいていは違うことになる。かつての社会はその身も蓋もない現実を物語の機能で覆い隠していたのだけど、現代ではそれが崩れてしまった。僕はそういうわけで、現代社会では、ベタでナイーブな肯定性とメタなシニシズムの二重性が明確に現れているのだと考えています。


[312-313頁]

確率的な出来事が特定の視点から物語られることによって意味を帯びるようになることはよいとして、しかし出来事が確率的な出来事であることは、特定の主体からの認識を離れたところで理解され得るものだろうか。世界が確率的に成り立っているとして、確率とは何であるのかを理解するためには、理解する主体が既に立ち上がっていることが必要ではないだろうか。世界は統計的だし、私が生まれたことも平凡な出来事でしかないが、私が生まれて在ることは私にとって決定的であり、全てだ。世界に意味が無いことを私が知るのは、私が眼差す範囲に構築された意味世界においてである。重要なことは多分、私たちが意味への囚われから免れることはないということよりも、「主体」と「システム」の分裂をフラットに見ることができる位置など存在しないということだろう。何かを見、そして語るのは、いつも特定の主体だけである。


 ゲーム的リアリズムは、リアルな物語を紡ぐのでもなければ、物語批判の果てにリアルなものの到来を夢見るのでもない。言い換えれば、物語を肯定するのでも否定するのでもない。それは、他にも多様な物語がありうること、すなわち、現実がゲーム的であることを受け入れたうえで、私たちひとりひとりが単一の物語しか語れないし生きられないことを描く、解離的でアイロニカルなリアリズムになるだろう。


[東浩紀「メタリアル・フィクションの誕生」『文学環境論集 東浩紀コレクションL essays』(講談社BOX、2007年)本論第二回、58頁(初出2004年)]

つまり、現実はゲーム的ではない。そんな気がする。東が描く先後関係は、微妙な違和感を覚えさせる。それは多分、議論を展開する上での「言葉の綾」以上のものだ。


それは、ひとことで言えば、コミケ的でゲーム的な感性が世界を覆い尽くしてしまった今、私たちが立脚すべき「リアル」とは、たったひとつの現実=物語(自然主義的リアリズム)でもなければ、無数の虚構=物語たち(まんが・アニメ的リアリズム)でもなく、無限に多様な物語がありうるなか、それでもこの私はつねにひとつの物語を選んでしまっている、という事実性に求められるほかないのだ、との認識である。


[同「メタリアル・フィクションの誕生」本論第三回、84頁(初出2004年、太字は原文傍点)]

無限の選択肢から、たった一つを「選んでしまっている」。選んでいる。私たちは。選んでいる。のか?既に在る、のではなく?私たちは選べるのか?無限の選択肢が見えているのか?そもそも無限の選択肢など在るのか?在ったのか?それは想像されただけではないのか?錯覚ではないのか?「ありうる/ありえた私」は、私なのか?私は今から選ぶかもしれないが、この私より前に「選んだ私」は、私なのか?


ここに刻まれているのは、いささか抽象的な表現で言えば、まんが・アニメ的リアリズムが主題としている(と大塚が述べる)死の一回性、反復不可能な物語にすまう単独的な経験から、ゲーム的リアリズムが主題とするはずの生の一回性、反復可能な物語のあいだを横断する経験そのものの単独性への視点の転換である。


[同「メタリアル・フィクションの誕生」補遺、132頁(初出2005年、太字は原文傍点)]


おそらく、東の言う「一回性」の語に引きずられてはいけない。一回的であることと唯一的であることは異なる。東の問題意識は興味深いが、中核的なところで私とは考えがズレている。一回性と単独性を区別しなければならない。しかし「単独性」もまた、厳密には柄谷行人の言うそれと区別するべきなのかもしれない。私が描きたい「唯一性」は多分、東の「一回性」とも柄谷の「単独性」とも違うものだ。彼らはともに超越的で宗教的な志向性を帯びた議論をしているが、私はもっとつまらない、地べたに這いつくばった議論をしたい。


 僕にとって自由とは、自分の位置を相対化するというよりも、自分の別のありかた、そしてそのようなありかたが可能になるオルタナティブな想像力と関係しています。そして、オルタナティブな世界への想像力の根拠として、メタではなくて、確率とか事故を基礎に据えることはできないだろうか、というのが僕の発想です。さっき、「人生が何回も繰り返されていたら」とちょっと宗教的なことを言いましたが、そういう可能世界を自由の感覚の源泉に据えられないか、というのが僕のテーマです。これは「ソルジェニーツィン試論」のころから一貫していて、いまでも変わりません。
 ただ、いま思うと、かつての仕事には誤解の余地が残っている。たとえば『存在論的、郵便的』では僕の「確率」と柄谷さんの「単独性」をほとんど等置している。しかし、いまの僕の整理だと、そこはむしろはっきり差異がある。柄谷さんの単独性は、無限の可能世界を巡ることでいまの自分を肯定し強化する思想です。メタの不幸というのはそういうことだと思う。それに対して僕が考えたいのは、自分のうえに何層もの可能世界の自分が覆い被さっていくような感覚です。人生をあるがままに受け止めつつ、もっとほかの人生もあったかもしれないとつねに思うような、そういう感覚ですね。


[前掲「オルタナティブの思想」、316-317頁]

  • 参考


批評の精神分析 東浩紀コレクションD (講談社BOX)

批評の精神分析 東浩紀コレクションD (講談社BOX)

文学環境論集 東浩紀コレクションL

文学環境論集 東浩紀コレクションL