「かかわりあいの政治学」の余白に


規範とは何か。決めごと/決まりごとである。なぜ決める/決まるのか。そうした方が好都合だからだ。誰にとって?――関係する(と考えられる)全ての主体にとってである。

ある規範によって不利になる人もいるではないか――無論。しかし、その人にとっても、従わないよりはマシだから、規範は維持されるのだ。この構図は、二つの概念で説明できる。「利益」と「権力」がそれである。

規範は「強者」がつくる。強者の利益にかなうように。

「弱者」は従う。逆らうよりも彼の利益にかなうからである。

こうして規範が全体の支持を取り付けるのは、その成立と維持から相対的に大きな利益を得る者の権力を背景にするからである。ここで注意すべきなのは、権力も相対的であるということだ。「世の中力だ!」とサトってしまったボッチャンは、結局一握りの人間が云々とぼやきがちになるが、浅薄である。絶対的な力の差があれば、規範やそれへの支持など不要だ。弱者が群れることで強者を屠ってきたのが生命の歴史にほかならない。権力の分布図は絶えず流動しているのである。それに伴って規範も変わるのだ。

体制が親族や教育の在り方に介入したがるのは、秩序の流動性を低めて、既存の権力バランスが覆らないように、変化を防圧しているのである。例えばジェンダー意識のように、弱者の側が規範を積極的に評価する現象は、大部分が規律訓練や三次元権力で説明できる。しかし、全て説明できるか?――そこに私は疑問を残す。


ここまでは政治学的議論に思えたかもしれない。しかし同じことは、社会学的にも話せる。人は予期をして行動する。こうなるだろうな、と事実について予期する。当たる。同種の予期への確信が増す。予期が制度化されていく。「多分」が「当然」になる。すると予期が外れた場合、予期に反することをする方がおかしい、と思われるようになる。「だろう」が「べきだ」になる。事実的な予期が規範的な予期に移行していく。

分かる話だと思うが、この予期の説明は、それだけでは規範や規範意識の形成についての説明として十分でない。予期が何に基づいているのかと、予期は何に対して貢献するのかが議論に含まれていないからである。要するに、予期の意味が変質していくプロセスは明瞭だが、そもそもの予期の材料と目的が不明瞭である。そこで、先の政治学的議論と重ね合わせてみればいい。利益と権力の概念を導入することで、予期の材料と目的は適当に用意できる。

人が予期するのは、自分の利益を最大化するためだ。そのために、無数の可能性について、どのような利益がどの程度の確率で発生すると予測されるかを計算するわけだが、その計算においては、権力の作用も考慮しないわけにはいかない。「自生的秩序」とやらを誉めたがる連中には、このことを理解していないアホ助が多い。国家がやろうが、企業がやろうが、個人がやろうが、権力は権力だし、人為は人為に違いない。秩序はいつも作られるもので、そういう意味では完全に自生的な秩序なんて存在しないし、「従わないよりはマシだから」式の権力作用が組み込まれた利益計算を前提にするなら、どんな秩序でも自生的秩序だと言えてしまうのである。要するに「自生的」の定義が恣意的なんだ。


ここでは政治学的な見方と社会学的な見方を照応させてみたが、別に他の角度から攻めたっていい。経済学でよく使われるゲーム理論で考えても、同じようなことが言えるはずだ。最近流行りの脳科学認知心理学、それらを踏まえた行動経済学からでも同じ。より長いスパンで考える進化倫理学からも話せば、包括的になる分、もっと解り易くなる。言語哲学からだってそうだろう。注目するところは違っても、論じているのは同じ一連の現象だ。

秩序は、皆が望むからその形になる。そこでポイントになるのは利益と権力。あとはそれらの間や周りにある幾つかのメカニズムを論じるだけ。論の組み立て方は色々あるにせよ、結論ははっきりしている。「これが僕の望んだ世界だ」。違いない。

でも、そんなことはとっくに解っている。何年も前から色んな形で書いている。総合的に論じた人はほとんどいないけど、知っている人は知っている、つまらん事実だ。そう、事実だ。でも、それが全てか?そこで止まっていいのか?その先にまだ何か在るってことはないのか?

その先が無いのなら、それはそれでいい。本当に利益と権力で全てが説明できるのなら、凄く楽だ。ただ、どうもその二つの概念には還元し尽くせない要素が他に在るんじゃないか。そういう思いが拭い切れない。その要素を名指すため、「関係」という明らかに不適切な――しかしそれ以外に言いようもない――呼び方をしたことがある。「かかわりあいの政治学」と名付けたシリーズ記事は、主にこの要素について考えるために書き始めた。今のところ、迷走している。


規範が出来上がる時の材料として利益や権力以外に関係の要素が使われる、ということはいい。問題は、その他の場面も含めて、関係は利益や権力と同水準で扱ってよい概念なのか、ということだ。関係が、それ自体として規範を生み出す力となる独立した要素なのか、ということだ。

焦点は、道徳感覚の起源に在る。何かを正しいと思うことの理由に在る。私たちが何かを正しいと思うのは、それが自らの利益にかなう(と思っている)ということと、それが正しいと思うように仕立て上げられたということ、その二つの他には理由が無いのだろうか。ある特定の事実が、それだけで私に「正しい」「間違っている」という感覚を生じさせるということは無いのだろうか。その直接的な感覚から規範が作られるということは無いのだろうか。

それだけで、ということは多分無いだろう。しかし、じゃあ利益や権力だけで全部が全部説明できるのかと言うと、それも疑問なのだ。だから、ここを探究することには価値が在る。いや、探究すべきなのである。


多分この説明では、解ってもらえないんだろう。本人も、自分の問題意識が本当にこんなことだったか、既によく解らなくなっている。何か足りていない、偏っている気がする。でも一面は語っているので、それでいい。このテーマは、ちまちまと進めていければ十分だ。