民主主義の機能における二重性と存在における二重性


データ整理していたら、2年前に書いたレポートを見つけたので、載せてみる(表題はレポートママ)。最近はシリーズもの以外は司法関連の話題が多かったので、久し振りにデモクラシーのネタもいいでしょう。内容的には、これだけでは毒にも薬にもならないようなもの。これからお勉強しますという感じかな。今だと、やや首をひねるところもある。ところで、ずっと前から思っていることで最近また思い出したのだけれど、国民的議論とか国民的合意とか世論の意思とか社会的選択とかが云々と言葉上で言っている方々は、具体的にどういうプロセス等を想定しているのか、よく解らないところがある。理論的には経済学にもそれっぽい道具立てがあることは一応知っているのだが、それが現実レベルとどう結び付くと考えられているのかが今一つ分からない。まぁ、ほとんどの人は、それ以前に国民や社会の「議論」とか「合意」とか「選択」とか「決定」とかをブラックボックス的に使って論点を切り詰めているだけなんだけど。それ自体が必ずしも悪いわけではないとしても、棚上げにされた部分を考えるためにはもっと別の道具立てとの接続が必要なのではなかろうか。


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 「日本の民主主義は機能しているか」という問いがここにあるとする。これに答えるとすれば、まずここでの「民主主義」が指示する意味を確定しておかねばなるまい。「機能」しているか否かを問うているのだから、ここでの「民主主義」は思想や価値理念としてのそれと言うより、政治体制や政治的決定方式としてのそれ(「民主政」)を意味していると考えた方がより自然に思える。だが、ことはそう単純でない。「機能」しているか否かを問うことが有意味な行為であるためには、「機能」する目的が確認されねばならない。ここでは、対象が「機能」しているか否かと同時に、その「機能」が目的に適っているか否かも問われている。この問いにおいて、「民主主義」は「機能」する主体であると同時に「機能」の目的である。したがって、問いは二重である。「日本の民主主義(民主政)は機能しているか、そしてそれは民主主義にとって望ましいような機能を果たしているか」。


 民主政は、基本的に討議に基づく多数決を中心とする政治的決定方式であり、政治体制である。それは、最低限「人々の意見が対立する問題、しかも社会全体として統一した決定が要求される問題について、結論を出すという役割」を果たしている*1。この役割を果たす上でなぜ民主政が選ばれるべきであるのか。それは、価値理念としての民主主義が、個人の自己決定の権利をできるだけ多く実現することが望ましいと考える立場であり*2、民主政がこの目的を最も達成しやすいからである。


 「日本の民主政は機能しているか」と問われれば、それは機能していると答えるほかない。日本においては広い範囲で言論の自由が保障されており、もちろん完璧とは言えないまでも、ひとまず様々な形で多様な意見が表明されている中で、国会議員が選ばれ(2005年9月11日衆議院選挙)、国会議員から選ばれた総理大臣が内閣を組織して(2005年9月21日第3次小泉内閣、同年10月31日第3次小泉改造内閣)、国政にあたっている。国会の議席数の分布が民意の正確な反映ではないとしても、相対的な反映がなされていることには相違なく、郵政民営化関連法案のような「人々の意見が対立する問題、しかも社会全体として統一した決定が要求される問題について、結論を出すという役割」がとりあえず果たされていることは確かである。
ただし、現今の制度に基づく民主政だけで、個人の自己決定の権利をできるだけ多く実現することが果たされていると言えるのか、特に折々の選挙だけで十分と言えるのかという疑念が抱かれるのは当然である。私も同様の疑念を抱く。この意味で、日本において現在機能している民主政が民主主義の立場から見て必ずしも十分に望ましい状態にはない、と考えている政治学者は多い。例えば選挙制度や議会民主制の在り方などを通してこの点を考察し提言する者もいるが、ここでは市民による討議や参加に注目する討議/熟議民主主義についての議論を取り上げよう。


討議/熟議民主主義は、「人びとの私的な選好(preferensce)が多数決によって集計されるプロセス」として民主主義を捉える「投票中心の民主主義観」に異議を申し立て、「人びとの相互的な熟慮と討論」に「民主主義の核心」を求める立場である*3。この立場は、参加民主主義とともに「政治システムへの外からの入力、特にデモス(民衆)の力に比重をおく」*4。市民の討議が必ずしも実際の政治的決定に直接結び付くことを求めないこの立場の民主主義観は本稿の民主主義観と一致するものではない。だが、市民の公的コミットメントを促すことで政治システムへの統合を強化していくことも視野に入れていることから、討議/熟議民主主義もまた、現在の民主政の在り方を自己決定の最大化という民主主義の目的実現により近づけようとする点では一致していると考えられる。そして、従来欧米諸国で盛んだったこの立場をめぐる議論が近年日本で精力的に紹介され検討されていることからも、日本において民主主義がそれ自体望ましいようには機能していないとの認識が広く共有されていることがわかる*5


 冒頭の問いに戻ろう。「日本の民主主義は機能しているか」。機能している。では、「それは民主主義にとって望ましいような機能を果たしているか」。十分に果たしているとは言えない。だが、改めて考え直してみれば、民主主義とはいずれにせよ「民主主義にとって望ましいような機能」を完全に果たすことはないものなのではないか。なぜなら、それは「個人の自己決定の権利をできるだけ多く実現する」ことを目的とするのだから。民主主義をこのように解釈すると、それは単なる努力目標のようにも思えてくる。と、同時に「永久革命」としての「真の民主主義」観が大きくせり出してくる。民主主義は一方で「できるだけ多く」でよしとする妥協の原理である。他方で、永久に実現することのない、不在において存在する神のような理想として想定される。プラグマティズム否定神学的理想主義との結託。民主主義のこのような二重性こそ、それが多くの人を魅了して離さない所以なのかもしれない。

*1:長谷部恭男『憲法と平和を問い直す』(筑摩書房、2004年)39頁。

*2:むろん価値理念としての民主主義が目指す内容をこの点以外に求めることは可能であるし、私も他の解釈可能性を排除しないが、本稿ではこの点を民主主義の中心的目的と考える。

*3:田村哲樹「民主主義の新しい可能性」畑山敏夫・丸山仁(編)『現代政治のパースペクティブ』(法律文化社、2004年)145頁。

*4:篠原一『市民の政治学』(岩波書店、2004年)157頁。

*5:政治学者の手になるものに限れば、上に挙げたもの以外に、山崎望「境界線を越える民主主義?」(『創文』第447号、2002年)、田村哲樹「熟議民主主義とベーシック・インカム」(『早稲田政治経済学雑誌』第357号、2004年)、早川誠「討議デモクラシーの源泉と射程」(『立正法学論集』第39巻第2号)などがある。