ポストモダンが要請する新たな政治パラダイム――Stakeholder Democracyという解


私はリアルタイムで見ていたのですが、昨日の『朝まで生テレビ』に出演した東浩紀さんが、「インターネットがある現代なら、5〜10万人の規模でも直接民主政が可能だ」と力強く語っていました。この発言は、これまで彼が展開してきた一連の議論の延長線上にあるものなので、彼の読者にとっては特段新鮮な印象を与えるものではありませんが、その内容が刺激的なものであることは確かです。

過去に何度か採り上げているように、デモクラシーの新たな形についての東さんの提起に対して、私には賛成できるところとできないところがあります。明確に賛成できるのは、私たちが置かれている「ポストモダン」という社会状況についての認識と、「政治的意思決定の仕組みというものを原理的なところから考え直してみる必要がある」との問題意識に対してです。「ポストモダン」なる社会認識については、昨年「現代日本社会研究のための覚え書き」と題したシリーズ記事で多面的な観点から現代社会を分析した結果、東さんのポストモダン論が概ね支持し得るものであるとの確かな感触を得ています。

他方で賛成し難いのは、彼がいわゆる「選好集計モデル」、つまり各々のメンバーが予め持っている意見や立場を単に集計すれば最適な意思決定が得られるとの想定に依拠していると思われる部分です。今回はSNSに言及していますから、ただ電子的投票を行うだけでなくウェブ上で直接討論するということも含めて「直接民主政」を考えているのかもしれませんが*1、彼の一連の議論において政治過程の中心イメージは常に「投票」であり、「討論」への言及が為されることはまずありません。しかしながら、既に別の記事で論じたように、「自分の欲求を実現するためには、所与の選好のまま投票するよりも、意見の違う人と話し合ってから判断した方が良い場合もあ」りますから、「私たちの自己決定(自分が望む結果をもたらすような決定)を可能にするためにこそデモクラシーがあるとすれば、直接投票が常に最も民主的な方法であるとは限らない」のです。


東的デモクラシー論に賛成できる点と賛成できない点をそれぞれ敷衍させる形で、さらに話を進めていきたいと思います。「覚え書き」で詳細に検討したように、ポストモダンとは、社会が高度に流動化し、「島宇宙」化し、共通前提を失ってより小さな単位へと切り離されていく(個人化)状況を表しています。政治家や官僚が忖度する「民意」なるものは、元々各種調査の対象としてしか存在しない何か漠然とした集合体でしかないわけで、本来は内部に差異や対立を抱えて一つにまとめようもないものを無理矢理にまとめあげているに過ぎません。したがって、解釈の客体としてしか在り得ない「民意」は常にフニャフニャと捉えどころのないものとしてしか現れず、その「代表」とはただでさえ融通無碍なものです。ゆえに、社会の一体性が失われていくポストモダン下では、全体を統合的に「代表」することが一層困難・無理な行為となり、本来は全く立場を異にする人々を糾合して疑似的な連帯を創出する「ポピュリズム」が不可避的に帰結されるようになります*2

これは、従来の「代表」統治、すなわち一元的政治過程における政府統治=「ガバメント」の限界を示す認識にほかなりません。社会は多様化・細分化しているのに選択の余地がほとんど無い二大政党制では対応できるわけがないとの不満はここから来ていますし、政治的有効性感覚の低下と無党派層の増加の最大の要因も、同じところに発しています。だから東さんが政治的意思決定の仕組みを根幹から考え直すべきだと主張することは物凄く理にかなっているし、90年代以降の政治学的認識とも大略一致するわけです。特に政治理論の分野で言えば、従来型の「利益集団自由主義」に対抗して出て来た「討議/熟議デモクラシー」が現在トレンドになっています。ただし、これは先に述べた「選好集計モデル」を批判して、投票よりも市民・政府・専門家を含めた討論過程を重視する考え方なので、東的デモクラシー論とは方向性が異なることに注意が必要です。


私自身はと言えば、討議/熟議デモクラシーの議論に大きな関心を寄せつつも、それとは微妙に力点が異なるStakeholder Democracy(利害関係者民主政)を新たなデモクラシー像として提唱しています。この考え方は、個々の主体が有する私的な利害関心を重視して、多様な利害関心が政治過程に伝達・反映されるための回路を再整備しようとすると同時に、従来の政治過程から社会内へと決定権を積極的に委譲して「利害関係者stakeholder」間での合意形成による決定および執行を支援・推進する点に特徴があります。ポストモダンでは従来の政治過程の外に巨大な影響力を有する企業や個人が存在し、政治課題の専門性も高まっているため、「ガバメント」の修繕・改良としての作業と並行して、「政治の遍在」を視野に入れた一般統治=「ガバナンス」を制度的に構築していかなければならないとの問題意識が前提されているのです*3

「ガバナンス」と言った時、それが単なる「市民参加」であっては意味がありません。何か漠然と一枚岩的な形で観念された「市民」は、結局抽象的な「国民」の別の名でしかなく、代表統治を補完するための付属物にしかならないからです。現在盛んに論じられている討議/熟議デモクラシーを私が片手落ちだと思うのは、政治的意思決定の在り方を刷新する様々なアプローチを提起してはいるものの、従来の政治過程(ガバメント)の外で何ができるかということ(ガバナンス)への関心が相対的に低く、社会内の「サブ政治」を含めた決定過程一般に適用可能な理論的成果が豊かとは言えないことです。この理論の「公共性」志向もその一因でしょうが、そのようにして大文字の政治から独立しきれない理論は、ややもすれば昔ながらの「参加民主主義」に話し合うことの大切さを付け加えただけで、やがて後景に退いていくかもしれません。


ガバメントの改善と同時にガバナンスの確立が必要であるということは、「代表」と並立して「自治」、ないしは少なくとも「代理」の政治が存在しなければならない、ということです。しかし、もはや「代表」が困難だと言うなら、「自治」ないし「代理」だけで行ってはダメなのでしょうか。東さんはインターネットのようなコミュニケーションツールの発達次第で直接民主政が可能な規模は拡大していくのであって、直接民主政の実現を阻んでいるのは物理的な障害と、それに規定された人々の想像力不足だけだと言います。これは、理論的に言うなら究極的には「代表」は廃止できるし、廃止すべきである、との捉え方であると解するのが自然でしょう。ですが、政治学的観点から言わせてもらえば、「代表」の存在理由はそれほど簡単に割り切れる話ではありません。

ポイントの理解には、憲法学における「国民nation」と「人民peuple」の区別が役立ちます。これは私が極めて重要だと考えているために何度も繰り返し書いていることでありまして、コンパクトに説明した記事平易に語った記事の両方を参考にしてもらいたいと思います。肝心なのは、具体的な直接行動が可能であるために「代理」原理との結び付きが強い政治的意思決定有能力者としての「人民」には、精神障害者や年少の子どもが含まれないことです*4。非「人民」にも利害は存在しますが、彼らはそれに基づいて「自治」を行うことはできませんし、そのまま「代理」してもらうことも望めません。もちろん一部の「人民」が身近な非「人民」の利害に「共感」してそれを自らの利害に同化させて行動することは有り得ますが、理論的に言えば、政治的意思決定無能力者の利害をそれとして忖度できるのは「代表」政治だけなのです*5

人民主権」の怖いところは、部分の利害を体現する政治主体が全体を動かしてもよいと公式に認め、政治的無能力者の意思――あるいは政治的敗者の意思――は考慮するに足らないとする果断さにありますが、グーグルやツイッターによる「数学的民主主義」の実現に期待を寄せる論者も同じ果断さを持てるのでしょうか。

私は、無理だと思います。「人民主権」による「代理」統治には、時間軸もありません。現時点で直接に行動できる政治主体の利害が全てなのです。一般の人々がそのような政治を望むとは思えません。過去世代や未来世代を含んだ超歴史的な「国民」概念による代表統治とは、決定的な違いがあるのですが、「代表」と「代理」の別と言っただけでは、普通はここまで考えられてはいません。直接民主政への障害は規模だけだと主張する東さんも、多分この問題を真剣に考えたことは無いのではないでしょうか。「自治」はおろか、「代理」してもらうことさえできない主体が存在し、私たちがそれを切り捨てることができない以上*6、抽象的な「国民」が「代表」される契機を全廃することは不可能なのです。私は、ここに代表政治の不滅性を宣言することができます。


かくして、曖昧な「民意」なるものへの拘泥からも、私たちは完全に自由となることは望めません。しかし、注意を喚起しておきたいことがあります。性質上、「民意」や「世論」は代表統治に対応するものですから、現在ではガバメントの限界に伴い、その機能的意義は低下しているのです。つまり、本当で言えば、「国民」の統合感が衰えてきているので、「民意」なるものに踊らされる必然性はどんどん掘り崩されていっているはずなのです。ところが表面的には、通俗的な意味での「ポピュリズム」が云々されるように、「民意」への過剰な配慮や忖度がますます問題とされるようになっています。「民意」が過剰に仰がれていることよりもむしろ、実質的な有効性が失われつつあるにもかかわらず、未だに――あるいは今になって――代表統治的観念が枢要な認識枠組みとして重視されていることこそ、真の問題なのです。

したがって、為されるべきことはシンプルです。ガバメントではなく、ガバナンスに対応する新たな概念を生み出し、代表原理と自治ないし代理原理とを両立させるような総合的な認識枠組みを構築すること。そうした作業が必要とされているのです。「民意」とは別の新たな概念としては例えば「利害関係者意思」のような言葉が有り得るのかもしれませんし、Stakeholder Democracyこそ新たな認識枠組みの役割を果たすものでなければならないと、個人的には思っています。


最後に。代表政治は不滅だと、私は言いました。それは「国民」が、ナショナリズムが不滅だと言うことです*7。しかし、ポストモダン化が進行する中で、ナショナリズムの形も変わっていくとは思いますし、変わっていくべきだとも思います。私は、政治的無能力者にも利害は在るんだとも言いました。インターネットを介した直接民主政では彼らの利害に配慮することは難しいですが、彼らが独自の利害を有していることを明確に認定し、同時に彼らは有能力者と対等な社会のメンバーであると示す簡単な方法があります。ベーシックインカムです*8。同じ「国民」として社会というゲームを共有する者には、同じ「賭け金stake」が配られるべきです。たとえ自分自身では賭けられないとしても、彼の前にチップを置いておくことには意味があるのです。

*1:しかし「パブリック・コメントを洗練させる」としか言っていないことからすると、討論までは視野に入れていないのかもしれません。

*2:例えば「官僚」のように、「アイツがみんな悪いんだ」とスケープゴートをつくってしまえば、目指すところが全然違う人同士でも話が成り立つわけです。

*3:なお、この「ガバメント」と「ガバナンス」の用法は私独自のもので、政治学一般で通用するものではありません。ただし、両概念の対比は近年しばしば行われています。

*4:投票権を持たなくても他の政治的活動は可能なので、未成年全般が政治的無能力者であるわけではありません。

*5:もっとも、その場合の無能力者たちは抽象的な「国民」に含まれる一要素として観念されるに過ぎないわけですが、それでも考慮されるのとされないのとでは大きな違いです。

*6:過去世代や子どもの利害を切り捨てることは、自らの存立の基盤を切り崩すことになります。

*7:おや、これは私が「覚え書き」で書いた主張とは矛盾する見解かもしれない。自分で書いていて気付きました。ただ、大きくは強調点の違いだと思いますので、敢えて調整せずに公にしてみます。

*8:ベーシックインカムには東さんも多大な期待を寄せているようですから、その点では未来国家像において近いところがあると思います(全部が全部ではありませんが)。東さんの言葉で言えば「ポストモダンの二層構造」における下の部分、つまりセキュリティの層においてのみ機能するのがこれからの国家で、それを体現するのがベーシックインカムである、と。