自由の終焉


ここ最近はデモクラシー関連の記事を続けているが、そろそろ別の話題もどうだろうか。というわけで本日、HPに「自由の終焉――「配慮」による内破と自己性への転回――」と題する論文をアップした。これは(記憶が定かではないので)たぶん昨年末から今年の初めにかけて大部分を書き、3月頭頃までに概ね仕上がったのだが、まだ修正の余地があるかと思ってそのまま寝かせておいたもの(構想から数えれば足かけ5年ぐらい経っている)。

内容は自由論で、概念論と思想史的文脈を交差させつつ、自由の現代的問題(アーキテクチャとか)に(大雑把ながら)私なりの処方箋を出している。ブログで言えば「自由・自由・自由」で呟いていた課題に取り組んだことになり、新しい方から遡ると「私たちの新たなる神」「非人格的権力再考」「ある無限速度機械について」「自由と管理」「自由主義と非人格的権力」「自由から自己性へ」などが主な関連エントリである。「覚え書き」シリーズを書いたのは、これの助走の意味が大きい。

最近の『思想地図』『談』、並びに先日の「朝生」関連の議論を眺めるにつけ、最早テーマとしての新鮮さは失われ、議論のフェーズも移行しつつあるように思えるので、今出しておかないとタイミングを逃しかねない。今年の内に公表してしまって、何とか2000年代に間に合わせることにした。まぁ、政治学とか非社会学方面が相手なら未だ通用する鮮度のような気がするのだが、特に機会も無いし。


論文の構成としては、5節に分けた最初に概念論、次に思想史、その後で現状をまとめた上、最後の2節で既存の処方箋の検討と自説の展開を行う、といった流れになっている。引用した主な論者は、アイザイア・バーリン、E.H.フロム、ハンナ・アレント井上達夫、齋藤純一、アマルティア・セン、ハンス・ケルゼン、シェルドン・S.ウォーリン、東浩紀ローレンス・レッシグミシェル・フーコー、安藤馨、大屋雄裕鈴木謙介、などなど。isedの議論も参照しているし、もちろんルソーも扱っているので、近刊が予告されている東浩紀「一般意思2.0」の背景を理解する上でも大いに参考にして頂けると思う。

冒頭の概念論は少しテクニカルな話が続くので、最初はとっつきづらく感じるかもしれないが、全体を読み通せば面白いはずなので、投げ出さずに読んで欲しい。特に読み応えがあるのは思想史プロパーの人からは怒られるであろう、かなり冒険的な議論を展開した第2節なので、そこから読んで頂いてもいい。

また、結論に至る部分でシュティルナーを持ち出し、比較的詳細に論じているので、(少数だと思うが)そちらに関心の向きも是非。この論文は、後にも先にも、シュティルナー思想を再検討することの現代的意義について、最も具体的な文脈に即して語った内容になると思う。