シュティルナーを疎外論的に読む誤りについて


「はだかの王様」の経済学

「はだかの王様」の経済学


svnseedsさんのところコメント欄の著者コメントを見て気には留めていたが、ようやく書店で見かけたので、シュティルナーに言及しているところだけ立ち読みした。


まぁシュティルナー理解としてはオーソドックスなものだとは思う。つまり、典型的な誤解だということ。私からすれば、3つほど誤りがあって、第一に、シュティルナーは神やら国家やら人間やらを「実体のない幽霊」として捉えていたとするところ。第二に、シュティルナー個人主義者だとするところ。第三に、シュティルナー疎外論者だとするそもそもの理解。


先に一般的な理解を得にくいであろう二点目を処理しておくと、エゴイズムと個人主義は異なる立場であるというのが私の理解である――と言うか類としての「人間」概念への従属を拒んだ後に個‐「人」主義が成り立つはずがないのは至極当然ではなかろうか。個人的にはこちらの論点の方が重要だと思うが、世間的にはここを争う価値は見出しにくいかもしれない。


では、一点目と三点目。これらは関連している、と言うか要するに同じことで、シュティルナー疎外論的に読めば、自動的に彼は徐霊師(デリダ)であるという理解になってしまう。例えば、廣松学統――つまり疎外論への評価は松尾さんとは異なる――の星野智は、「シュティルナーヘーゲル左派批判」(『理想』第540号、1978年)という論文で、疎外論シュティルナーを次のように切り捨てている(213頁)。

 シュティルナーの「唯一者」が一切の階級的利害も否定して既存秩序の転覆を観念的拒絶としての「反逆」にもとづかせることは、マルクスにとって世俗を超えたまったくの理念的高みに立ち、世界に対する哲学者の無力をイデオロギー的に表現するものでしかなかった。シュティルナーがその「エゴイズム」の基礎に「利害」を置き、しかもあらゆる社会的形象を「私」の被造物とする「疎外」論的発想は、究極的には、その「疎外」の回復を対象への反価値措定という観念的営為に求めるものでしかないのである。


これに対する反論としては、次の拙文で足りる*1

 また、シュティルナーには「意識の全能性」への信仰が見られるという批判もしばしば繰り返されている 。この批判の根拠は、シュティルナーが国家の解体や既存秩序の転覆を「精神的拘束への内面的拒絶」であり「観念的拒絶」である「反逆」に基づかせているという理解である 。さらに、そうした「反逆」論が展開可能なのは、シュティルナーにとって全ての客体は自らの意志の「被造物」であるがゆえに、それらは自己が「それを正当とみなす限りでしか存続できないという前提」が存在しているからである、という指摘がなされている 。こうした批判もまた、シュティルナーの真意を読み間違えた結果であろう。神、人間、国家、法、などが〈私〉の「被造物」であるというのは、ここでは「それ自体によって神聖なるものはなく」、「自らの言葉、自らの判断、自らの拝跪」によって「それは神聖となる」という意味である(上・九四頁)。したがって、現実的実体としての国家や法が〈私〉の「被造物」であるわけでは必ずしもなく、「神聖な」国家や法が〈私〉の「被造物」なのである。それゆえ、〈私〉がそれを正当と見做さなくなったからといって、現実的実体としての国家や法が直ちに消滅するとシュティルナーが信じているというのは、拙速な誤読にすぎない。

シュティルナーはエゴイストと「精神」の関わりについて、以下のように述べている。

 精神についても、事はこれに類する。私が精神を一の幽霊に堕しめ、私にたいするその力を一の狂気に転落せしめたときに、精神は、非聖別化され、非聖化され、非神化されたものと見なされ、そのとき、私は、人が自然を何のためらいもなく好みのままに用益するのと同じように、精神を用益しうるのだ。(上・一二七頁)


 カール・レーヴィットや辻が気付いていたように 、シュティルナーは「精神」の廃絶を望んでいたわけではなく、ただその「創造者」たること、「精神」を自らの「所有」となすこと、「精神」を自己の「享受=賞味」の対象となすことを望んでいたにすぎない。すなわち、「われわれがまさに精神を所有すべきであって、精神がわれわれを所有すべきではない」とされる(上・八三頁)。シュティルナーが拒否したのは、「精神」を神聖化して、自己よりも高次なものと見做すことであり、完全なる「唯一者」が「聖なる精神」の前で空虚なものと見做されることである。「思惟が主となって、自らが従となっている」「自由な思惟」は退けられるべきであるが、「私の思惟」は存分に用いられるべきである 。完全なる自由が不可能であるように、「精神」からの完全なる解放、「精神」の廃絶は不可能である。個体は絶対に何らかの属性から自由になることはできないことを考えれば、このことはもとより自明であった。シュティルナーにとって、「精神」は批判と相対化の対象ではあっても、決して廃絶の対象ではなく、それどころか用益の対象でもあったのである 。


最近で言えば大屋雄裕『自由とは何か』にも見られたように、シュティルナーの議論を疎外論的に受け取る姿勢は、かなりの程度に浸透している。ヘーゲル左派とマルクスエンゲルスの間という位置からして、そのように読まれがちであるのは致し方ない面があるのだが、それにしても私はその読解を許容することはできない。


様々な解釈があるとしても、疎外論なるもののエッセンスは、何らかの「本質」「本来的状態」を想定した上で、その「奪回」「回復」を目指す点にある。他方、シュティルナーには、その「本質」の想定が無い。「唯一者」なる概念すら、単なる「空虚な呼び名」(形式的単独性)に過ぎず、個体の実質的意味での固有性に括り付けられているわけではないんだよ。彼は国家をはじめとする精神=幽霊に何の実体も無いなどとは考えていないし、幽霊を祓えるとも祓おうとも思っていない。

勘違いされがちだが、シュティルナーは精神=幽霊に「憑かれている」者もエゴイストであることには違いがない(「意図せざるエゴイスト」)と明言しており、ただエゴイストたる自覚がない人々を「おバカさんだね、プププ」と笑っているのだ。決して、「精神=幽霊の取り憑きは各個人の固有性を喪失させる由々しき事態であるから、この精神=幽霊を打ち倒して各個人の本来あるべき自然な姿を取り戻すべきだ」などというありがたい説教をのたまっているわけではない*2

使えるものは使えと言っている*3。何か取り憑いている奴にも、それは基本そいつが好きでやっていることなんだからほっとけ、というスタンスでいいと思う*4。で、これは疎外論なのだろうか。違うだろう。「移ろいゆく自我」*5を持ち出すまでもなく、疎外論的な読みが棄却されるべきことは明らかだ。


もちろん、シュティルナーもアソシエーション論者であることは否定しようがない。現実味が薄い「パン焼き連合」みたいなことも言っている。ただ、自発的な相互享受=賞味関係である「連合」は、すぐに固定化して「社会」に堕してしまうということを再三強調してもいるので、別にナイーブではないよ。

アソシエーション論とかぶつのはどうよという思いは私の中にもあった(ある)のだが、「連合」には、いわゆる「結社」とか「中間団体」だけでなく、普通に好きで付き合っている友達関係なども含まれることもあり、具体的な構想としてはともかく、理論的な水準では簡単に切り捨てることができないものだと考えている。

だから、松尾さんの構想に賛成するかどうかはともかく、その議論には注目したいと思う。じゃあ立ち読みで済ませるなという話だけれども、まぁ、追々ね。


最後になったが、色々と説明を端折っているため、不案内な人(ほとんどだと思う)には意味解らんだろうと思う。申し訳はないが、せめてもの申し訳として「マックス・シュティルナーについて」を挙げておく。




自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)

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唯一者とその所有 上

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唯一者とその所有 (下) (古典文庫 (21))

唯一者とその所有 (下) (古典文庫 (21))

*1:日本語文献だけを参照して前に書いた未発表の論文原稿から。以後、長いことシュティルナー研究はストップしたまま。

*2:ただし、ここには実は読解上の微妙な問題がある。私の理解では、シュティルナーは「憑かれている」状態のその先に在り得る「非利己性」をこそ危ぶんでいると考えられるので、「憑かれている」状態を全く問題視していないと言い切るのも正確性を欠くことになる。なお、例えば森政稔「アナーキズムの自由と自由主義の自由」(『現代思想』第22巻第5号、1994年)が示しているように、「憑かれている」状態と非利己性を無区別に扱うのが一般的になっているが、それは不適切である。

*3:「エゴイストは自身と敵対する国家も利用する。敵である国家からの「許可」は受け取らないつもりか、と問う者に対してシュティルナーは答える。「いやいや、喜んでお受けしましょう」(EE317/下一九七)」。

*4:もちろん、相手が自分の享受=賞味の対象になるような大事な人だったら、ほっとけないかもしれないが。

*5:これも誤解されやすい言葉だ、が、詳述しない。