神と正義について・6


2006/09/01(金) 20:45:40 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-255.html

(承前)


正義=神=幽霊のとりつき


否定神学的正義論には正面からは反駁し難いように思える。では、我々はそれを受け入れるべきであるのか。私はそうは思わない。以下、いくつかの疑問を提出し、検討を加えていこう。


まずデリダが述べるアポリアの経験、すなわち無条件の歓待を想定することなしには条件付きの歓待を知ることはできない、という論理は詭弁にすぎないのではなかろうか。我々にとって歓待ははじめから条件付きであり、責任は有限であり、贈与は何らかの交換である。こうした可能なものがまずあったのであり、これらの「本来形」としての不可能なものは後から考えられた観念やイメージにすぎない。我々は完全なるものから不完全なるものを演繹したのではないから、完全なるものを想定することなしに不完全なるものを考えることは十分に可能である。そうであれば、全き正義の想定と現行の正義や秩序との結び付きは必然的ではないことになる。


このように、我々にとっては可能なものが全てであると言ってよいのだが、デリダは自己の可能態=現実態の外にある何か(不可能なもの=他者)に近づき、ある意味で同化することが必要だとする。こうして自己の可能性を超える正体不明の他者に身を委ねる行いを、19世紀ドイツの哲学者マックス・シュティルナー流に言い換えれば、「精神」(Geist)にとりつかれることにほかならない。シュティルナーによれば「精神」とは神や人間や国家など、個体を超える普遍性を持つとされる観念たちである。シュティルナーは「精神」の神聖視を批判するが、それを非聖化して自己のために利用可能にすることを積極的に認めている。しかしながら、デリダ的な正義とは計算不可能=予測不可能=利用不可能なものであるから、それは利用に供さない「聖なる精神」=幽霊であることになる。幽霊にとりつかれる時、シュティルナーの言う「自己性」(利己的目的意識)は失われ、決定は狂気に委ねられることになる。それゆえ、正義とは幽霊であると同時に、(「自己性」の維持を許さないという意味で)非エゴイスト的である。比喩的意味ではなく、ここにおいて明白に、正義は神の、唯一神の別の名である。


この帰結は否定神学があくまでも神学である限り当然と言えば当然だが、明確に神の「存在」を主張する一派を前にして我々はやはり問わねばならない。あなた達が信奉する神は普遍的なたった一人の本当の神などではなく、ローカルな神にすぎないのではないか、と。デリダの正義=神は無際限かつ無血においてのみ現れる普遍的正義であり、定義上そのような完全なものとしてしか想定してはならない。したがって、この正義は誰にとっても何者にとっても、いつどこでも、どんな場合でも妥当する正義であることになる。しかしながら、そのような正義を想定し得るだろうか。それは不可能ではないか。ここで不可能と言うのは、それが現実的に不可能であり現前不可能であるというだけでなく、原理的に、それを想定することも不可能な、いかなる意味でも「在り」得ない、という意味である。無際限であること自体を望まない者もいる。無血であること自体を望まない者もいる。誰にとっても、何者にとっても、いつどこでも、どんな場合でも妥当する正義とは一体如何なるものであるのか、私には全く分からないし、予想がつかない。


もちろん、このような予測不可能性こそ全き正義の特徴であった。だが、素朴に思う。想定し得ないものを想定しておくことに果たしてどれほどの積極的意味があるのだろう。むしろその隙間、想定不可能性という一種の隙間は、無用の神秘性やローカルかつ政治的なイデオロギーなどを呼び込んでしまう弊害を生むだけではないのか。この点について東浩紀は、デリダ派の理論と実践、いわば全き正義と現行の正義との間にある「理論的に支えられないその飛躍の「穴」を埋めるためにこそ、素朴なイデオロギー、主体や共同体の経験主義的な肯定が再来しうる」と述べる(東浩紀存在論的、郵便的』新潮社、1998年、104頁。なお、私はここで例えば高橋哲哉の名を想起する)。こうした可能性は、正体不明であるがゆえに結局どのようにも解釈し得る全き正義の名の下に、ローカルな正義が正当化される事態の頻出を危惧させる。振り返ってみれば、下地による批判的合理主義の正義論。そこでは全き正義へと向かう現行正義の修正可能性が何よりも重視されるが、その修正過程自体が極めて政治的であった。そうである以上、結果的には正義の政治性や相対性の問題は何ら解決を見ていないと言えよう。


結局のところ、否定神学的正義論は相対主義を乗り越えられていないのだろう。それにもかかわらず全き正義なるものを想定すること自体が、新たな暴力、あるいはその隠蔽を生むかもしれない。全き正義は現前し得ないが、もしそれが現前するならば、それは「神的暴力」の姿をとる。デリダによって唯一「正義にかなう」暴力であるとされた神的暴力は、法を破壊し、罪を取り去りながら、血の匂いをさせない(ヴァルター・ベンヤミン「暴力批判論」『暴力批判論』野村修訳、晶文社、1969年、32頁)。神的暴力に血の匂いがないのは、血が「生命のシンボル」だからである(同、33頁)。生命なき幽霊=正義=神には血はそぐわない。私は、全き正義の名の下にローカルな正義が正当化される事態において、こうした神的暴力(まがい)が横行することになるのではないかと恐れる。そもそも神的暴力が血の匂いをさせないのは、正義=神の下に人々がみな狂気と盲目に冒されているからではないのか?そして狂人ならざる者(エゴイスト)はみな隠蔽/処理されるからではないのか?


民主主義というイシューに即して考えてみよう。第1回で私は、相対的民主主義においては自己決定権ができるだけ多く実現されることが良いことだと述べた。否定神学的正義論が目指す民主主義は、こうした量的な基準を乗り越えようとする。究極的には、自己決定権は一挙に、全てそのまま実現されるべきであるとされるだろう。だが、自己決定権が一挙に実現される事態とは、全ての人の選好と意志が一致する事態であって、その時、一切の個別性や差異は姿を消す。その時、それが一種の全体主義ではないと言い切ることはできない(強制・抑圧・洗脳・隠蔽などが無かったと言い切ることはできない)。当然それが全体主義であると露見した時点で、それは「真の民主主義」ではなかったことになる、とは言い得る。しかし、完全な一致を意味する「真の民主主義」が常に全体主義紙一重であることは認めななければならない。それは全くもって不気味なもの、あまりに完全で、血の匂いもせず、汚れもないような存在であるがゆえに、とてつもなく不気味なものである。「真の民主主義」=来たるべき民主主義が実現する全き正義とは、こうした得体の知れない幽霊現象を意味している。


デリダ自身が述べているように、我々は「完成可能性への欲望」を持っている。全き正義なるものを想定しておくことによって、それがローカルな正義の隠れ蓑になり、「完成」を目指して醜悪な暴力が暴走することにはならないだろうか。私は幽霊を恐れる。より正確に言えば、得体の知れない幽霊の「存在」を強調することが生むかもしれない事態を恐れる。もちろん、否定神学的正義論が必然的に全体主義化を呼び込むかのような危惧はいささか過剰であるとしても、否定神学的正義論が結果的にローカルな正義による普遍性の僭称を許すことに少なからず寄与し得ることは確かである。そしてそれは、不完全な正義に対して全き正義を、神話的暴力に対して神的暴力を対置するような発想が必然的にはらむ危険なのである。正しい思想に従えば、正しい結果が得られる。そうしたイデオロギーへのナイーブな信頼が凶暴かつ醜悪な帰結を生んでしまう。我々は歴史にその実例を見てきた。では、そうした帰結を避けるためには如何様な道が残されているのか。次回以降、我々は否定神学的正義論と袂を分かち、別なる道を模索することにしよう。(続く)


存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

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暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

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