理論の開放性


2006/08/30(水) 16:24:32 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-272.html

しばらく前から私は近代とかポストモダンとかいう話を口にしなくなっている。色々本を読んだり考えたりしていくと、直接の興味関心などはかなり変遷していく。けれども、現在の自分だけを重視して過去に通ってきた道程を全く無化してしまうようなことは避けたいので、たまに自分の根本の問題意識は何だったのかと振り返ってみることがある。


私の根本の問題意識は常に暴力の問題に関わってくる。簡単に言うと戦争とか貧困とか国家とか。大学入りたての頃は国際政治や平和学のようなことに関心が集中していたし、そこからグローバリゼーションへ行き、アナーキズムへ行き、その過程で色々あって利害関係やシュティルナーに行き着いた。近代とは恣意的な境界線を引き、フィクションを構築し、複雑な現実を単純化することだから、暴力そのものであり、暴力嫌いの私が近代嫌いになったのも当然である。でも、境界線は結局どこかに引かなければならない。そのことを改めて明確に認めた以上、近代をどうこうする議論に私はもはやほとんど魅力を感じなくなっている。


境界線を引くこと、つまり政治の避けがたさについては連載企画の方で主題的に扱っているのであまり詳しく述べないことにするが、境界線をどこかに引かなければならず、引く基準に究極的に正当な根拠など無いことには議論の余地は無い。そうである以上、境界線はどこに引かれることも有り得る。つまり私達は誰でも排除できるし何でも包括できる。現実には排除は避けられないが、その排除の基準は政治的(恣意的)でしかない以上、基準は常に再設定される可能性がある。そうであるならば、現実にはともかく、理論的にはいかなる排除をも生まない開放性を確保しておく必要がある。再設定の契機にスムーズに対応できるように。


私はそういう役割を果たすもののつもりで利害関係の理論を考えているし、一方で既に提出した利害関係者討議のアイデアは、その意味では失敗しているとも言える。討議という性格上、理論的な排除をかなり多く含んでいるからだ。もちろんあれは実現可能性にかなり配慮したものなので、ある程度予定された失敗だと言うこともできる。また、具体的な現実問題に直接対応する個別理論として、現実における排除の避けがたさを内部化・体現してしまっているとも言えるかもしれない。いずれにせよ、いきなり理論に進まずに具体的アイデアを先に形にしたことは十分に意味あることだったと思っている。


まだろくに中身が伴っていない理論に関して、これほど大風呂敷を広げまくってどうするんだと自分でも思うが、このプレッシャーが多少なりともプラスに働いてくれればいい。それからもう一つ付け加えておくと、近代をどうこうする議論を云々するよりも、じゃああなたは具体的に何を提案するの?という問いへの答えをしっかりと整えて提出し、その妥当性と可能性を検討に付してもらう方が、はるかに生産的・建設的であると今は思っている。いや、たぶん昔もそう思っていたんだけれども、今は実際にそういう取り組みの段階に入っているということだろう。