神と正義について・5


2006/08/24(木) 10:57:48 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-254.html

(承前)


来たるべき民主主義


デリダは、主に講演やインタビューにおいて、自身の否定神学的正義論を丁寧に展開してくれている(デリダ自身が自らの主張は否定神学には還元されないと言っていることはこの際無視してよい)。まず、再三確認している否定神学的正義論の特徴の?現行秩序の暫定的・限定的承認について、デリダは以下のように明言している。


あの名指しようのない暴力の暴発のなかで、ふたつの陣営のどちらかに味方しなければならず、二元的な状況で選択をしなければならないのだとしたら、仕方ありません、そうしましょう。(中略)ですが、それにもかかわらず、改善可能性へ開かれたパースペクティヴを、「政治的」なもの、デモクラシー、国際法、国際機関、等々の名において、原理的に法の権限で残しておく陣営の側に私は立つでしょう。


(ジョヴァンナ・ボッラドリ×ジャック・デリダ「自己免疫:現実的自殺と象徴的自殺」ジョヴァンナ・ボッラドリ他『テロルの時代と哲学の使命』藤本一勇・澤里岳史訳、岩波書店、2004年、174頁)


ここで、デリダは丸山同様、一面では秩序の擁護者として振舞うことを宣言している。それは現実的には、ケルゼンや長谷部とともにリベラル・デモクラシーに対する攻撃者を粉砕する側に参与するという表明でもある。しかしその後に続く?と?、正義の不可能性の確認と不可能な正義への漸進についての議論こそ、デリダの本領である。丸山において永久革命の対象とされた民主主義は、デリダにおいては「来たるべき民主主義」と呼ばれる。それは、「いつの日か「現前的=現在的」となるような未来の」民主主義のことではなく、「現在〔現前的なもの〕のなかには絶対に現実存在しない」ような「不可能事」である(同、184‐185頁)。そして、「この不可能の可能性を信じる」ことこそデリダの主張の核心なのである(同、176頁)。


「来たるべき民主主義」が不可能であるのは、無条件の歓待や無限の責任、純粋な贈与が不可能であるのと同様である。歓待において、我々は条件付きの歓待しかなし得ない。予想もせず、招待もしていない、全き他者の無制限の訪問を我々は歓待することができない。我々は身の危険を覚え、恐怖を感じ、扉を閉ざさざるを得ない。「実際には、無条件な歓待を生きることは不可能」なのである(同、199頁)。我々は歓待し得る者だけを歓待するのだ。これは責任や贈与においても同じである。我々は可能な範囲で責任を負うのであり、与え得るものを与えるのである。可能なことのみをなし得る我々の歓待は常に条件付きであり、責任は有限であり、贈与は交換の性格を帯びる。しかし、それにもかかわらず、無条件の歓待や無限の責任、純粋な贈与といった観念を捨てることはできないとデリダは言う。


なぜか。まず、無条件の、無限の、純粋なそれとしての観念なしには、条件付きの、有限の、純粋でないそれという観念は持ち得ないからである。これが一つの「パラドクス」、「アポリア」である。我々はこうした不可能事を不可能であるにもかかわらず捨て去ることができない。そして、デリダによれば、真の決定とはアポリアの経験なしではありえない。すなわち、正義とはアポリアの、「不可能なものの経験」なのである(ジャック・デリダ『法の力』堅田研一訳、法政大学出版局、1999年、38頁)。換言すれば、なし得ないことをなすこと、それが正義である。


もう少し詳しく見よう。決定において、既に存在する「ある規則を適用すること」、それは単に「計算」にすぎず、そこでは決定は行われていない(同、55頁)。合法的な決定とはすべからくこうした行為にほかならないが、既にある一般的規則をただ自動的に個別のケースへ適用するとき、「裁判官は計算する機械である」にすぎない(同、57頁)。個別の事例が固有性を伴って扱われなければ、そこに正義は存在していないのだ。したがって、決定が決定であり、正義に適うためには、裁判官は一般的規則に従いつつ、個別事例に応じた再設定的な現実的解釈行為によって、規則を新たに発明するかのように決定しなければならない。固有のケースは固有のものとして扱われなければならない。それが正義である。


したがって、正義に適う決定は予測不可能かつ計算不可能なものである。もし予測可能であったり、計算可能であったりするとすれば、それは決定ではない。「私が行い決定していることがたんに私の決定できるものや私の可能性に属しているものだとすれば、これが私のなかにあるとすれば、それは決定ではない」(ジャック・デリダデリダ脱構築を語る』谷徹・亀井大輔訳、岩波書店、2005年、71頁)。歓待し得る者を歓待することが歓待でないように、与え得るものを与えることが贈与でないように、決定し得ることを決定することは決定ではない。「来たるべきもの」は「予期されざる来客」なのであり、前もって知ること、見ること、予測すること、勘定に入れることはできないのである(同、77頁。なお、これが「メシア的なもの」と「メシア二ズム」の分岐点でもある)。


ここまでで既にデリダの正義論の骨格は記述し得たと思う。確認しておけば、正義とは現在なし得ることの外にあるものであり、決定とは自らが決定し得ることの外にあるもの(他者の決定)である。同じことを、自己の可能態の外にある何か/何者か、すなわち他者(あるいは、「幽霊」)への応答こそが正義なのである、と言うこともできよう。冒頭で確認したように、デリダは現にある法や民主主義をひとまず肯定する。それは十分ではないが、「何もないよりはまし」である(同、104頁)。その上で、「正しくありたいならば、法を改善しなければならない」(同)。民主主義とは、「異議申し立てされる可能性、自分自身に異議を申し立てる可能性、自分自身を批判し無際限に改良する可能性を歓迎する唯一の概念」なのであり、その修正可能性こそが正義への道なき道を開く(前掲「自己免疫」、186頁)。脱構築とは法の改良であり、「脱構築しえない」正義とは、その完成にほかならない(前掲『法の力』、34頁)。そして、我々は「この完成可能性への欲望」を持っているとされるのである(前掲『語る』、123頁)。


正義の完成とは、政治的なるものの消去を意味する。政治的なるものの消去に向けた現行秩序の修正可能性についてのパースペクティブにおいて、デリダは下地よりも徹底的である。少なくとも理論的レベルにおいては、彼は「非‐人間的な存在者」にも目配りを欠かしていないように見える(同、137頁以下)。このように周到に展開されているデリダの正義論を前にして、我々は大いに説得力を感じることを率直に認めざるを得ない。しかしながら、その主張を繰り返し吟味するならば、幾つかの疑問が抱かれてくる。次回は、デリダの正義論に対する疑問点を挙げながら議論を進め、そこから否定神学的正義論そのものの妥当性を検討していくことにしよう。(続く)


テロルの時代と哲学の使命

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法の力 (叢書・ウニベルシタス)

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デリダ、脱構築を語る シドニー・セミナーの記録

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