神と正義について・4


2006/08/16(水) 11:31:54 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-253.html

(承前)


政治的なるものの消去不可能性


丸山は、一面では現行秩序の擁護者であった。それは、丸山が秩序の破壊者(マルクス主義者、新左翼、誰でもいい)に対しては政治的に振舞ったということでもある。「政治的」とはいかなる意味であるか。ここでは、20世紀ドイツ最大の政治学者であるカール・シュミットの定義をより厳密でない形で用い、「友・敵関係」としての対立といった程度の意味に解そう(参照:カール・シュミット『政治的なものの概念』田中浩・原田武雄訳、未来社、1970年)。いかなる民主主義者も、リベラリストも、自らが支持するところの自由で開かれた社会を破壊する者に対しては、政治的に振舞わざるを得ない。


例えば、憲法学者の長谷部恭男は、価値多元主義に基づくリベラルな立憲民主制においては、公私の分離などを要求することで国家はそれぞれの価値に対して中立的に振舞うことが可能であり、比較不能な諸価値を共存させることができると主張する。しかし、同時に長谷部は、自身が支持するリベラリズムは、こうした多元的価値の共存が可能となるような社会の破壊者を断固として排除するものであるとの意思を明確にする。


 これに反して、さまざまな文化、さまざまな善の観念が共存し、競合する社会のあり方自体を否定しようとする思想に対してリベラリズムが中立的でありえないのは当然のことである。多様な善の観念の間になお社会的協働の余地を確保しようとする限り、ロールズのいう「政治的」領域を保障する必要性は、社会の中に生きるいかなる個別の思想に対しても優越する。リベラルな民主社会を破壊しようとする思想に対してリベラリズムが差別的な態度をとるのは、この政治的領域を確保する公共的必要に由来するのであって、何らかの特定の善の観念を執行するためではない。リベラリズムは、そのような思想の唱道に対しても、それが明白で差し迫った危険をもたらさない限りは寛容であろうとするであろうが、ある思想に対する寛容とその積極的是認との間には、明白な違いがある。


(長谷部恭男『比較不能な価値の迷路』東京大学出版会、2000年、61‐62頁)


以上は、多様性を尊重する者は多様性を否定する者も尊重するか、という問いへの簡潔な回答となっている(同様の内容は、第1回で検討したケルゼンも述べている。参照:ハンス・ケルゼン「正義とは何か」『ケルゼン選集』第3巻、木鐸社、1975年、46‐47頁)。ここでの「政治的」とは「善」に対する「正」、すなわち「公共的」を意味するが、その価値を共有しない外部者が存在する限り、それは真の意味での「公共的」ではなく、「私的」あるいは「共同体的」にすぎない。すなわち、リベラルな民主社会を生きる「友」たちにとっては、そうした社会の破壊者たちは「敵」、徹底的に叩き潰すべき「敵」となる。諸価値に対して中立的に振舞おうとするリベラル・デモクラシーの擁護者もまた、一群の「敵」に対しては政治的に振舞わざるを得ない。その「敵」がしばしば指摘されるようにイスラーム(「原理主義者」と付けても付けなくても――参照:池内恵「「他者への寛容」だけでは解決しない」『論座』2006年4月号)なのか、そうでないのかはここでは問題ではない。そうした「敵」はいつでも想定し得る。想定し得る限り、いかに自由で開かれた民主社会においても政治的なるものは消去できないのである。


政治的なるものは、メンバー選択においても現れる。既に見た論文で下地が述べるように、「メンバー選択の問題は究極的には恣意的でしかありえない」。国境から自宅の扉に至るまで、我々はそれを他者に対して無限に開いておくことはできない。そうである以上、我々は共に「われわれ」たり得る共同体のメンバーを選ぶのである。それは潜在的に、あるいは直接的に、友と敵を分かつ政治的行為以外の何ものでもない。しかし、それは正義だろうか。友と敵を分かつことは正義だろうか。究極的に正当な根拠もなく、誰かをメンバーから排除することは正義だろうか。また、たとえ秩序の破壊者とはいえ、暴力を以て彼を鎮圧し断罪することは正義だろうか。もちろん、それは正義ではない。少なくとも否定神学的正義論が志向する彼岸的正義ではない。正義は暴力を拒む。政治とは暴力を以て敵から友の利益を守る営為にほかならない。政治は正義ではない。彼岸的正義は政治的なるものが消去された果てに現れる。それゆえ、永遠に現れない。


否定神学的正義論は、その構造上、政治的なるものの消去を究極目標に据えなければならないはずである。究極的な正義の名に値するのは、無際限かつ無血の正義のみであるから、正義は個別の共同体や暴力を決して伴わない。したがって、こうした正義に向かって漸進する否定神学的正義論は、メンバー選択の恣意性についての修正可能性に開かれていなくてはならない。しかし、振り返ってみると、第2回で検討した下地による批判的合理主義の正義論は、この要件を満たしていないようにも見える。下地は、メンバー選択についても異議申し立てによって無限の修正可能性を確保できるかのように述べているが、実はそこには修正不可能な枠が存在している。それは、まさにその合理主義、論理的反証の重視によって生み出される。


下地によれば、現行の正義への異議申し立ては無批判に受け入れられるべきものではなく、論理的な妥当性の争いを経て承認される。だが、そうした論理的整合性をめぐる争いそのものが、非政治的ではいられないであろう。たとえ論理的整合性自体は非政治的であり得る(客観的に判断可能である)と仮定するとしても、実際に整合性を判断し争いに決着をつけるのが、様々な政治的思惑を有するとともに必ずしも論理だけに動かされるわけではない現実の人間(メンバー)達である以上、異議申し立てが承認されるかどうかは政治的性格を帯びざるを得ない。専門家の判断においてはもちろん、民主的手続きにおいては尚更である。特にメンバー選択のような尖鋭な問題ならば、決して政治性は拭えない。新たなメンバーの異議申し立てに応えるかどうかを決めるのは、既存のメンバーの特権なのだ。こうした修正プロセス自体が持つ政治性を看過することはできまい。


また、以上の点は現実適用上の問題であって理論上の問題ではないと反論されるのであれば(私はそう思わないが)、もう一点付け加えておこう。批判的合理主義は論理的であることを重視するあまり、論理的反証をなし得ない者のメンバー参入を絶対的に拒んでいるのではないか?そもそも論理=言語を用いることができない者、あるいは言語は用いることができても論理的であり得ない者、そしてその上代弁をしてもらうことも不可能な者たちの異議申し立ての可能性を理論的に排除しているのではないか?これは無限の修正可能性を標榜する否定神学的正義論においては致命的な、修正不可能な枠の設置を意味しているように思える。もちろん、そもそも否定神学的正義論などではない、と言われればそれまでであるが。


やはり我々はデリダの議論を詳しく見る必要がある。そこではより洗練された否定神学的正義論が展開されており、批判的合理主義が押し流してしまっているように見える者たちのことも視野に入れられているからだ。デリダは徹底して政治的なるものが消去された地点を指し示す(もちろんそれは実現し得ないので指し示すだけであるが)。次回には、ようやくと言うべきか、彼を訪れよう。(続く)


政治的なものの概念

政治的なものの概念

比較不能な価値の迷路―リベラル・デモクラシーの憲法理論

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