九条の護衛者たち(四)


2006/08/13(日) 19:39:17 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-270.html

(承前)


啓蒙主義的護憲論


高橋哲哉もまた、渡辺や愛敬と同様に「支配層」の思惑を過大視する。高橋は、国家の戦争とは、「国家の権力者たち、そして彼らと利益を共有する者たちが自分たちの権力や利益を確保し、あるいは拡大するために国民を犠牲にして行う」ものであると述べる(前掲『ための本』、102頁)。その証に、高橋によれば、彼ら国家の支配者たちは決して戦争の際に最前線に身を置くことはないのである。さらに高橋は、軍隊=自衛隊は決して国民を守るものではないと言う。軍隊=自衛隊の第一次的な任務は国家=国体を守ることにあるのであり、それはつまり「国家の支配層、権力者やそれにつながる人々」を守るために末端の国民を犠牲にしていくということを意味するのだ(同、111‐114頁)。


ここで高橋は迷いなく国家=国体=支配層と結んでしまっている。しかしながら、「国体」を一般化して「国家体制」と考えるのならば、それは政治体制や憲法秩序を意味するはずであり、特に根拠も示さずに直接に「支配層」と同一視するのは不自然である。例えば長谷部は、「憲法自身が一貫して守るよう要求できる「国」とは現在の憲法の基本秩序であり、日本国憲法の場合でいえば、リベラル・デモクラシーと平和主義である」と述べている(前掲『憲法とは何か』23‐24頁)。このような考え方を採るとすれば、自衛隊が守るべき国家=国体=憲法秩序とは(平和主義はともかく)リベラル・デモクラシーであることになり、より具体的に言えば「人権」や「自由」や「民主主義」であることになる(長谷部の考えに反対するのであれば、国体と「支配層」をイコールで結ぶ根拠をきちんと示さなければならない。最前線に赴かないことがその根拠として十分でないことは、近代戦の常識や議会制民主主義の原則に照らして明らかである)。つまり、軍隊が国民ではなく国家を守るものだとしても、民主主義国家における国家とはその民主主義的秩序そのものであることになるから、軍隊は(少なくとも理論上は)必ずしも「支配層」を守るものではない。むしろ、民主主義国家においては、軍隊は国家=リベラル・デモクラシー=人権・自由・民主主義を守るためにこそ、国民を犠牲にするのである。


高橋のように、また渡辺や愛敬のように、戦争の責任を全て「支配層」の権益に帰してしまうタイプの主張は、リベラル・デモクラシーや各々の国民を免責するイデオロギーとして働くと同時に、高橋たち自身の思想の「正しさ」を最終的に保証する装置としても働いてしまっている。高橋は「支配層=悪の元凶」論を採用することによって、国家のために国民が犠牲にされる醜悪な側面がリベラル・デモクラシーにも備わっていることに目を瞑り、民主主義下において国民が自覚的に戦争を選択する可能性を除外し、戦争一般を「支配層」が自らの利益のために国民を犠牲にする形に一元化してしまう。このような構図においては、たとえ国民が一見自覚的に戦争を選択したように見えても、それは何らかの形で「だまされた」結果であるとされてしまう(前掲『ための本』140‐141頁では「だまされない」ようにするべきことが強調されている)。そして、「だます支配層」と「だまされる国民」というこの構図の中で、高橋のように「だまされてはいけない」と叫ぶ者たちは「支配層」の思惑を暴く啓蒙者(より露骨に言えば「正義の味方」)として確固たる地位を占めることになる。この地位が都合が良いのは、たとえ自分たちが少数派であってもそれは多くの国民が「だまされている」からであることになり、実際に戦争に突入するなどの最悪の事態においても、その責任を「だます支配層」と「だまされる国民」の両者に帰してしまうことができるからである。


高橋らが用いるこうした構図は、左翼や「進歩派」が伝統的に継承してきた構図である。そこでは、「だます支配層」、つまり国家権力者や大企業のトップなどがいつでも悪の元凶であり敵視される一方で、「だまされる国民」、つまり啓蒙されるべき大衆も軽蔑されている。高橋のような啓蒙主義者たちにとって、「正義の味方」である自分たちの「正しさ」を理解せず、「支配層」の思惑を見抜けずに「だまされる」蒙昧な大衆は、いつでも最大の障害なのである。こうした態度を私は左翼と進歩派の慢性的な病(病名:啓蒙主義的大衆フォビア)であると考えているが、この病についての議論は本筋から外れるものだろう。ただ、「現実におもねる」ことなく「思想」を持ち、「支配層」に「だまされない」ように歴史を学んで批判的思考を養わねばならない、と呼びかける彼らの姿勢は、多くの国民には「われわれのいる位置まで上がってきなさい」と偉そうに説教するうっとうしい存在にしか映らないだろうことは確かだ。


「新しい歯止め」論と護憲の方法


理論的に考えても、実践的に考えても、護憲派が最もアピールするべき相手は、平和のためにこそ9条改正が必要であると考える人々である。彼らは別に「支配層」に「だまされている」わけではなく、おそらく自分なりに平和実現の方法を考えた結果として9条を改正すべきであるとの結論に至ったのであろう(もちろん日本の「国益」や自分の身の安全を考えて9条改正を支持するに至った人々も別に「だまされている」わけではない、と私は思う)。こうした人々は解釈改憲最悪論をとっていることが多い。彼らは国際情勢や政治状況の変化に応じて、従来の歯止めとしての9条に代わる「新しい歯止め」が必要であると考えている。護憲を主張するのであれば、こうした主張に対して説得的に答えていかなければならない。


これまで私が批判してきた渡辺や愛敬、内田の議論は、実際のところ、それなりに説得力を有したものであると思う。ただし、それが恒常的な違憲状態を維持する点で、あるいは法的には解釈によって違憲は回避されているから問題はないと考える場合でも、解釈改憲最悪論の不安を十分に払拭しきれない点で、難がある。解釈改憲最悪論に対して渡辺や愛敬が述べている、明文改憲よりましであるという主張(「明文改憲最悪論」)や、改憲すればそこから新たに解釈改憲の危険があるという主張には一定の説得力がある、と私は考えている。この点については伊勢崎賢治も、軍隊の保持を禁止している現行憲法下でさえ軍事的な海外派兵が実現しているのであるから、「たとえ平和利用に限定するものであっても海外派兵を憲法が認めてしまったら、違憲行為にさらに拍車がかかるのではないか」として明文改憲に反対している(伊勢崎賢治『武装解除』講談社現代新書、2004年、236頁)。


しかしながら、おそらくそうした主張だけでは十分ではない。渡辺にせよ、愛敬にせよ、内田にせよ、伊勢崎にせよ、9条の歴史的・現実的歯止め効果を強調するのであるが、それだけでは「新しい歯止め」論を支持する人々に対する十分なアピールにはならないだろう。従来の歯止めとしての9条ではもはや十分ではないと考えている人々に対しては、従来の歯止めの効力が未だ残っているという(いささか消極的な)訴えかけをするだけではなく、また別種の「新しい歯止め」を積極的に提案していく必要がある。9条を改正することが平和に寄与しないことが確かであるとしても、9条を守っていれば十分であるという消極的な姿勢は説得的でない。9条改正以外の方法によって「新しい歯止め」が形成可能であることを示すことができれば、解釈改憲最悪論を支持する人々の中の一定数にはかなり説得的に訴えかけることができるだろう。もちろん、ここで言う「新しい歯止め」は従来の歯止めとしての9条やその他の積み上げを否定するような性格のものではなく、それらを生かし、それらと結び付きながら「新しい歯止め」として機能し得るものでなくてはならない。


明文改憲最悪論や9条の歴史的・現実的歯止め効果の強調に加えて、9条改正/遵守以外の形で「新しい歯止め」を構想し提案していく。これが私の考える説得的な護憲の方法についての結論である。けれども、実際のところ、私にはこの「新しい歯止め」がどのような内容であるべきなのか、皆目見当がつかない。全く無責任であり、結局何も言っていないことになるのかもしれないが、この先は読者の内の護憲派による更なる思索に委ねたい。これは完全に皮肉であると同時に全然皮肉じゃないが、思索するだけなら誰でもできるのだから、せいぜい平和について考えていて欲しい。


(完)


憲法とは何か (岩波新書)

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武装解除  -紛争屋が見た世界 (講談社現代新書)

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コメント

民主化まで護憲
読みごたえのある分析、お疲れ様でした。


僕自身は基本的には改憲派であり、逆に
絶対平和主義に立つならば徴兵されて
第三の国の侵略やホロコーストに加担して
平和の誓いを汚すことを免れるため、
敵国が侵略を決めた場合全国民が遠隔操作
体内埋め込み毒カプセルで自殺しなければ
ならない、と考えています。


また、「支配層の思惑」を重視する護憲派
対し、また現在の改憲派に対しても、
「従米の危惧はある、だから改憲民主化する
まで凍結しよう」と呼びかけたら双方は
どのような反応をするとお思いでしょうか?
2006/08/13(日) 22:37:21 | URL | Chic Stone #XQouQeWw [ 編集]


ねぎらいの言葉、ありがとうございます。


毒カプセルを選ぶかどうかはともかく、似たようなことを本気で主張なさる方は今でもいらっしゃいますよね。


ご質問ですが、改憲派は概ね「既に十分民主化している」で一致するんじゃないでしょうか。民主化のためにこそ国民の手で新たに憲法を選びなおすことが必要だ、という主張は割りとありふれていますし。あと、私は支持できないですし、一般的に見ても稀有な主張だと思いますが、今井一みたいに国民投票至上主義者みたいなのもいますね。


護憲派に関しては意見が割れるかもしれません。特に左翼や進歩派の間では、未だに日本が民主化しているかどうかで延々と論争可能ですから。乗る人も結構いるかもしれませんね。でも、「凍結」という部分に反発する人は多いだろうなぁ。愛敬などに言ったら、改憲民主化の問題ではない、とか怒られそう。高橋はどうでしょうね。「だまされる」ことを民主化の問題と考えているかどうか、そう読めるところもありますが、全体としては曖昧な印象を受けます。「支配層」の思惑を強調する学者や政治家や活動家はともかく、護憲派の中でも一般民衆レベルで日本が民主化していないと思っている人はあんまりいないと思うんですけどね。


まとめますと、護憲派の間では共感を覚える人は結構いるかもしれませんが、凍結というニュアンスへの反発もあり、あまり広く受け入れられたり強いインパクトを与えたりすることは無いような気がします。ご質問の趣旨に沿っているかわかりませんが、こんなところで。
2006/08/15(火) 17:47:25 | URL | きはむ@某所 #- [ 編集]