九条の護衛者たち(三)


2006/08/11(金) 17:09:59 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-262.html

(承前)


現実主義的理想主義的護憲論


現代の護憲派を理論的側面でリードしている渡辺治は、大塚のような理想主義的な護憲論と、内田や長谷部のようにある程度現実を容認するような護憲論との、いわばあいだを行く。渡辺は、9条は解釈改憲によってボロボロになっており、自衛隊を認めた上で野放図な海外派兵などを防ぐために新たに歯止めをかける必要があるとする「解釈改憲最悪論」に反論し、もし9条が何の役にも立たなくなっているのであればわざわざ改正する必要はないはずであると言う。改正しようとする動きがあるということは、9条に未だ力があるということを意味する、と。その上で渡辺は、憲法は現実と全く一致するということがないものだと主張する。憲法は現実と緊張関係を持っているからこそ、その実現に向けて努力すべき規範として意味を持つ。それは男女平等を定めた14条や生存権を定めた25条と同様である、と。


渡辺によれば、現代の改憲論の主要な目的は、多国籍企業のグローバル展開に伴い、アメリカとともにグローバル市場秩序の安定を確保するために、軍事大国化と自衛隊武力行使目的の海外派兵を可能にすることにある。こうした「支配層」の思惑を長い間阻んできたのは9条とそれに基づく平和運動にほかならず、明白な憲法違反である自衛隊の拡大は9条が歯止めとなって抑えてきた部分が大きい。解釈改憲も強力な運動に対する余儀ない対応として採られてきた苦肉の策であり、例えば集団的自衛権の行使を認めるような解釈変更なども、心配されているように官僚の判断でいくらでもできるような性質のものではない。したがって、明文改憲を許さないことは今でも極めて大きな意義を持っており、「解釈改憲状態の方が、明文改憲よりずっといいに決まっているのである」(以上は、渡辺治『憲法「改正」』増補版、旬報社、2005年、および、今井一編『対論!戦争、軍隊、この国の行方』青木書店、2004年、に基づく)。


『改憲問題』(ちくま新書、2006年)で包括的に改憲論への反論を行っている愛敬浩二も、渡辺の議論に負うところが多い。特に、改憲に関わる「支配層」の思惑についてはほぼ渡辺の分析を丸呑みしている。もっとも、こうした分析は渡辺や愛敬だけでなく共産党社民党も多くの部分を共有しており(以下を参照。「日本共産党第22回大会決議より抜粋」2000年11月24日「参議院選挙にのぞむ日本共産党の政策」2004年6月2日「第三回中央委員会総会 志位委員長の幹部会報告」2005年4月9日社会民主党全国連合常任幹事会「憲法をめぐる議論についての論点整理」2005年3月10日)、精緻さを別にすれば比較的一般化しているとも言える。愛敬は渡辺と同じように自衛隊違憲であると考えているが、それを制約するような「新しい九条」を制定したとしても、それが改めて解釈改憲にさらされない保証がどこにあるのかとして、「解釈改憲最悪論」に抵抗している。また、長谷部の9条=「原理」論に対しては一定の理解を示しつつも、9条が「準則」と了解されているからこそ実際は「原理」として働くのであるとして、その実践的問題点を指摘している。こうした「現実主義」的立場、現実政治的視点は愛敬の強調するところであり、こうした立場からすれば、「戸締り論」のように一般的・抽象的議論からいきなり軍備の是非に関する選択を迫る議論は、政治論として馬鹿げている上に改憲派(「支配層」)の思惑を隠蔽するものだとして、厳しい批判を受けることになる。


以上のような渡辺=愛敬の護憲論を一言でまとめるとすれば、「手段的絶対平和主義的護憲論」とでも言えよう。渡辺も愛敬も、自衛隊違憲であると考えており、そうした現実の方を9条の理念に近づけていくことを主張しているので、その意味では絶対平和主義の立場に立っている(愛敬はそう明言している)。しかし、愛敬が一般的・抽象的議論としての軍備の是非論を扱うことを拒んでいることからもわかるように、現実問題として非武装が実現できるし実現すべきだと彼らが信じているようにはあまり見えない。むしろ彼らが強調するのは政治的な歯止めとしての9条の効力である。これは愛敬についてより顕著であるが、彼らは9条を厳格に(つまり絶対平和主義的に)解することによってこそ歯止めとしての効力が強まると考えており、その意味で彼らの絶対平和主義的立場は手段的に選択されていると言える。おそらく彼らも自衛力の必要を認めており、その点、内田や長谷部と大きく考えを異にするものではないが、9条と自衛隊を整合的に捉えるような一種の「譲歩」は政治戦略上望ましくないと判断しているものと思われる。


こうした解釈の上で、彼らの議論の問題点をいくつか指摘したい。まず渡辺について。渡辺は14条や25条を引き合いに出しながら憲法と現実は常に緊張関係にあるものだと言うが、9条の現実との乖離を問題にする人々は単に「乖離」だけを問題にしているのではなく、9条の実現が「不可能」であることを問題にしているのではないか。14条も25条も完全な実現は不可能に近いが、その実現要求を個別のケースに応じて争うことができる。これに対して9条は個別的に争うことができず、(「準則」として解釈する限り)端的に実現していないとわかる。したがって、9条と性質を大きく異にする14条や25条を引き合いに出す論法は説得力に欠けるように思われる。渡辺自身も自衛隊違憲だと言っており、その即時および近時の廃止を目指していない以上、9条は実現不可能ゆえに常に違憲状態を発生させる条文であることになり、この点を問題視する意見が根強いのは無理もないように思われる。


また、渡辺が分析する改憲派の思惑については大きく外れているとも思わないが、後に高橋哲哉の議論について改めて述べるように、「支配層」の思惑に問題の全てを還元するような議論は受け入れ難い。「支配層」と呼ばれるような人々でなくとも「国際貢献」やその他の海外派兵、軍事大国化などを支持する人々はそれなりに存在していると思われる。そして彼らは「支配層」に「だまされている」わけではない。この点を無視するならば、「支配層」ではない人々に広くアピールするような護憲論の展開は到底かなわないであろう。


愛敬については一点だけ述べておく。9条改正については抽象論ではなく現実を踏まえた議論をするべきであるという主張には確かに理があるが、それが一般的・抽象的議論を封じるような意味合いで述べられていることは批判されるべきである。愛敬自身が述べるように、立憲主義が多数決では覆しがたいようなルールを予め定めることによって通常政治の逸脱・暴走を防ぐ目的を持つとすれば、憲法に関する議論はかなりの程度一般的・抽象的性格を持たざるを得ないはずであり、持つべきでもあるはずである。通常の政治過程における現実的・政治的な判断に大まかな枠をはめるルールである憲法の規定については、想定されるあらゆる事態に応じた一般的議論を尽くすことが求められる。もちろん特殊日本的な歴史的文脈や政治的・社会的事情は有り得るとしても、(例えば「戸締り論」のような)一般的・抽象的設定から議論を始めることは、特段批判されるべきではない。むしろ「戸締り論」のような軍備の一般的是非を問うような議論を回避し、「支配層」の思惑に焦点を絞り込もうとする愛敬の振る舞いこそが、それ自体として強い政治性を有するものである。…と、斯くの如き指摘をなすことこそ、現実的議論を喚起する愛敬の希望に沿った行為であると信じたい。


(続く)


憲法「改正」―軍事大国化・構造改革から改憲へ

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対論!戦争、軍隊、この国の行方―九条改憲・国民投票を考える

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改憲問題 (ちくま新書)

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