九条の護衛者たち(二)


2006/08/09(水) 19:26:07 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-265.html

(承前)


二つの現実主義的護憲論


大塚のように「武装か、非武装か」という選択を迫るのは子どもの論理だと言うのは、内田樹である(以下、内田の主張は全て内田樹ほか『9条どうでしょう』毎日新聞社、2006年から)。内田は、9条と自衛隊の間にある矛盾を積極的に評価しようとする。内田によれば、自衛隊という武力は9条という「封印」とともにあることによって正統性を得ているのであり、その意味で両者は相補的である。


どういうことか。内田の論理をたどれば、こうである。法律はわるいことをさせないためにあり、9条は戦争をさせないためにある。改憲派憲法に「戦争をしてもよい条件」を書き込もうとしているが、それは刑法に殺人罪とともに「人を殺してもよい条件」を規定するようなものである。ときには人を殺さなければならないことがあるのは事実であるが、刑法には「人を殺してもよい条件」は規定されていない。それは、「人を殺してもよい条件」を定めてしまえば、「人を殺してはいけない」という禁令が無効化されてしまうからである。したがって、我々は「人を殺してはならない」という理念と「人を殺さなければならない場合がある」という現実との両立不可能な要請を同時に引き受け、同時に生きなければならない。どちらかに「すっきり」すればよいというものではない。9条と自衛隊もまた、そのような矛盾した要請であり、9条(「戦争をしてはいけない」)という封印があってこそ止むを得ない場合の自衛(「戦争をしなければならない場合」)に正統性が付与されるという意味で、両者は相補的な存在なのである。


内田はその他にも色々と言っているが、主張の核心は以上に尽くされている。しかし、彼の刑法解釈は間違っていると言わざるを得ない。刑法には「総則」と呼ばれる部分が初めにあり、そこで「正当防衛」などの「犯罪が成立しない条件」が一般的に規定されている。これが殺人罪に適用されることでいわば「人を殺してもよい条件」が導かれる。また、刑法199条自体、読み方によっては「死刑又は無期若しくは五年以上の懲役」と引き換えにであれば「人を殺してもよい」と言っていると解釈することは不可能ではない。したがって、刑法には明示的にではないにせよ「人を殺してもよい条件」が定められていると言える。これに対して、刑法と性質が異なる(総則も罰則規定も無い)憲法においては明示的に「戦争をしてもよい条件」を定める必要があると考えることは、是非はともかく一つの立場として有り得る。


刑法の例が不適切であることから明らかなのは、例外条件(「人を殺してもよい条件」)の規定は必ずしも一般規定(「人を殺してはならない」)の無効化を意味しないということである。つまり、「戦争をしてもよい条件」を9条に新たに明記したとしても、「戦争をしてはならない」という一般的禁令が完全に無効化するとは限らない。刑法において「人を殺してもよい条件」と「人を殺してはならない」という禁令が両立しているように、憲法においても「戦争をしてもよい条件」と「戦争をしてはならない」という禁令は両立し得ないわけではない。そして、現実に両者は解釈改憲によって両立してきた。9条のそもそもの画期的意義は、「戦争をしてはいけない」という一般的禁令に留まらず、戦力不保持を定めることによって現実に戦争ができる能力自体を封じ、いかなる例外条件も認めない絶対的禁令として現れた点にある。それが自衛力の保持を禁止していないと解釈された時点で、絶対的禁令は例外条件を許容する一般的禁令に変化したのである。したがって、実際には、内田の言う「戦争をしてもよい条件」は既に定められていると考えるのが自然である。


ところが、総則によって例外条件がある程度明示的に定められている刑法と異なり、9条においてはあくまで解釈によって「戦争をしてもよい条件」が定められているために、解釈変更によっていくらでもその条件を拡張できるのではないかという不安が広がっている。度重なる解釈によって、いわば封印が弱まっているのではないか、そのうち実質的に封印が破られるのではないか、という不安である。こうした不安に基づき、「新たな封印」として明示的な自衛隊への制約を求める立場に対して、従来の封印の意味ばかりを強調する内田の主張がどれほど説得的であるかは疑問である。


他方、長谷部恭男は、自衛のための実力組織を保持することを否定しない「穏和な平和主義」を採るべきことを主張する。その上で長谷部は、「従来の政府解釈で認められている自衛のための実力の保持を明記しようというだけであれば」、その改正には「何の意味もない」から9条の改正は必要ないと言う(長谷部恭男『憲法とは何か』岩波新書、2006年、20頁)。長谷部によれば、9条は「ある問題に対する答えを一義的に定める準則」ではなく、「答えをある特定の方向へと導く力として働くにとどまる原理」であるから、自衛力の保持は憲法には抵触しない(長谷部前掲『憲法と平和を問いなおす』171頁)。9条が「準則」だとすれば、それは絶対平和主義を「唯一の「善き生き方」である」として「特定の価値観を全国民に押しつけるものと考えざるをえない」から、立憲主義の立場からは9条は「原理」として解するほかない、とされる(前掲『何か』71‐72頁)。


しかし、9条を(特にその2項を)「準則」でないと解するのは無理があるように思われる。少なくともその条項は当初「準則」として受け取られたし、現在でも国民の大半は「準則」として受け取っている。そして、仮に9条を「準則」だと解釈しても、それは国家に対して戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認を求めているだけであり、各国民に対して絶対平和主義的に振る舞うことを要求しているわけではないから、特定の価値観を押し付けるものだとまでは言えないであろう。歴史的に見れば、9条はもともと「準則」として解されていたのが、解釈改憲によって「原理」と見做されるようになってきたと考えるのがもっとも自然である。とすれば、長谷部は内容面においては9条改正支持派であるとも言える。彼が改正に反対するのは、基本的には、既に解釈によって認められていることを明記するだけであれば無意味であるという、形式面における理由に基づくにすぎない。


このような長谷部の形式的護憲論は、自衛隊の野放図な海外派兵に対する新たな歯止めが必要とする議論に対して、十分な説得力を持ち得るだろうか。むしろ長谷部自身によって「いったん譲歩を始めると、そもそも憲法の文言に格別の根拠がない以上、踏みとどまるべき適切な地点はどこにもない」と言われているように(前掲『問いなおす』163頁)、「原理」としての9条解釈などでは、更なる解釈変更によってますます歯止めとしての9条が切り崩されていくのではないか、という不安は払拭され難いように思われる。


(続く)


9条どうでしょう

9条どうでしょう

憲法とは何か (岩波新書)

憲法とは何か (岩波新書)