「やむをえない犠牲」はお前が負え


2006/09/04(月) 17:15:50 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-276.html

 従って、この場合は文脈からして、「イラク解放のためのやむをえない犠牲」だとアメリカ兵は言いたかったのだろう。しかし、アメリカ軍の爆弾やミサイルで殺された当人や遺族にとって、あるいは手足を失うなどした負傷者にとって、「やむをえない犠牲」と言われてはたして納得できるだろうか。
 もしも自分が同じ立場に置かれたらと想像してみる。はたして自分は納得できるだろうか。(中略)
 「ネセサリー・コスト」とは、あくまでも何か物事を実行する側から見た対象として「犠牲」と位置づける表現だ。この場合は、戦争を起こした側つまり殺す側からの位置づけである。主体は殺す側にあり、殺される側は客体化されている。(中略)
 このように「ネセサリー・コスト」の本質を見極めてゆくと、それは「やむをえない犠牲」ではなく、「強いられた犠牲・被害」すなわち「強制された流血と死」であることがわかる。犠牲・被害を強いる側すなわち加害者の視点と都合から使われる言葉だ。


吉田敏浩『反空爆の思想』NHKブックス、2006年、252‐254頁)


こういう分野の本をじっくり読んでいる時間はあんまり無いのだが、こういう分野からあまり疎遠になるのも良くないと思ったので買っておいた。私もかつて空爆を特に敵視していた時期があったと思い出したこともある。「やむをえない犠牲」に関するところだけ拾い読み、あとは全く未読。


最近、暴力は避けられないとかそういうことばかり言っているので勘違いされると困るのだが、私の考えは「やむをえない犠牲」というものがあるなどという主張とは全く異なる。私は上に引用した吉田の主張に全面的に賛成である。殺される者にとって「やむをえない」もくそもあるわけがない。「犠牲者」を前にして「やむをえない」と語るのは、(こういうことを言うとヒューマニストは嫌な顔をするだろうが)殺されるのが人間か動物その他かに関わらず、あるいは生命を奪うことになるか否かに関わらず(例えば多数決の場面でも)、同じように欺瞞だ。


それにもかかわらず、暴力は避けられない。だから私達は、自分や自分の近しい人がその「犠牲者」に繰り入れられないように、政治を行うのである。もちろん多くの人は積極的に何かを行うまでもなく決定的な「犠牲者」とならずに済んでいる。それは確かに「特権」であり、その「特権」を手放さないようにすること、不作為や無知無関心もまた一種の政治なのだ。私達は好むと好まざるとに関わらず常に政治とともに生きていて、それは常に誰かに「犠牲」を強いていることと同じ意味だ。


重ねて勘違いして欲しくないのは、私達が誰かに「犠牲」を強いていることについて自覚的であろうがなかろうが、「犠牲者」にとっては何も変わるところはないということ。これは「やむをえない犠牲」なんだと言われようが、これは全然やむをえなくもなんともないし、犠牲になるのはあなたじゃなくても全然構わないけどあなたを犠牲にすると言われようが、「犠牲者」はただ「犠牲」を強いられるだけで結果は変わらない。もちろん実際に死ぬ間際にこのどちらかを言われるのであれば両者は全く違う意味を持つという意見はあるだろうが、私は本質的には同じだと思う。


「やむをえない」と語ることは政治的に有効な振舞いだし、それに対して欺瞞だと批判することも一種の政治であることは否定できない。こう言っていくとどんどん身も蓋もなくなっていくのであるが、確かなことなので言っている。やむをえなくなんて全然ないけれども、私達は誰かに「犠牲」を強いずに生きるのは難しい。じゃあどうすればいいかって、話は簡単で、「犠牲」をできるだけ少なくできるだけ小さくするために考えたり言ったり動いたりすればいいだけ。結局それだけの話であるし、それだけの話を巡って延々と思考や運動が積み重ねられているということなんだな。というようなことを私は卒論の一番最後あたりで簡潔に書いているのだった。こんな冗長なエントリよりもそっちを読んで下さいな。今更遅いか。


反空爆の思想 (NHKブックス)

反空爆の思想 (NHKブックス)

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平和論ノート(2)平和をたぐり寄せる http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070118/p1