ほんとうにおめでたいのはだれか


2006/07/14(金) 03:02:40 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-248.html

むしろ自己消失(自己忘却)こそ、役柄や世界劇を見事に生きるための前提。そのためいつのまにか、役柄存在者である自分をほんとうの自分だと思いこむ。こうなれば、二重忘却状態におちいって、金輪際、ほんとうの自分など問題にすらならない。そんなものを問題とすることを「本来性のジャーゴン」(アドルノ)だなどといって、したり顔で批判したり、断罪したりもする(『本来性という隠喩』)。
 だが、そんなことではないはずだ。「旅にでて自分をとりもどそう」などと、あたりまえのようにいうではないか。「忙しすぎて自分自身を見失いそうだ」。そんな焦燥感にかられたことは、どなたにもたびたびあるはずだ。そんなときぼくたちはふと、自己の二重性の隙間に、足を踏み入れているわけだ。だれにも覚えのあるとてもリアルな話のはずだ。おめでたいのは、そんな焦燥や不安をしらない、アドルノたちのほうである。


古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』講談社現代新書、2002年、111頁)


アドルノの議論については詳しく知らないので措くとしても、この部分を素直に読む限り、おめでたいのは著者の方だという印象を受けざるを得ない。「旅にでて自分をとりもどそう」とか、「忙しすぎて自分自身を見失いそうだ」などといった台詞こそ、まさしく「吐き気がしそうなほど決まり切っ」た(110頁)、演じられた台詞ではないか。そんなありがちな「焦燥感」を覚えただけで「自己の二重性の隙間に、足を踏み入れ」たことになるのであれば、どれほど楽だろうか。あまりにも無邪気に(見える言い方で)「リアル」と言ってみたり、アドルノがそうした焦燥や不安を知らないと断じてみたり、いかに軽妙な文体による読みやすさを重視しているとしても、筆が滑りすぎな感は否めない。


「ほんとうの人間が実現すべきほんとうの世界や社会」たる「本来性からの疎外状態(非本来性)を解除し、オリジナルな自己にめざめ、本来の世界へ抜けていこうとする」姿勢(209‐210頁)を完全に捨て去ることは難しいし、それが「生き生き志向」として批判されざるを得ないにせよ(仲正昌樹『デリダの遺言』)、「自己の二重性」を問い直すことはひとまず存分になされてよい。だが、その上で「ほんとうの自分」とは何なのか、そんなものはほんとうにあるのか、あるとしてもたどり着けるものなのか、それを省みたり求めたりしている今の私こそ「ほんとうの自分」には程遠い演じられた自己ではないのか、といった更なる問い直しは不可欠とされるべきである。「ほんとうの」とか「固有の」などと言う/言われる時こそ、最も懐疑精神を発揮すべきタイミングに他ならない。


これはシュティルナーについても言えることで、彼は個体の社会的規定性などにもかなり気を払っているのでそれ程ナイーブではないが、それでもなお個体の「固有の」部分をわりと安易に前提としてしまっている疑いが濃厚な箇所が散見される。そもそも彼は「自己性」が失われてエゴイスト的行為をなし得ない状況を最も問題視するのであるが、ある個体にとって何が利益になるかは非常に判断しづらいので、非エゴイストを特定するのも厳密には難しい。「移ろいゆく自我」を前提とするならば、自己にとっての利益と言ってもいつの時点での話なのかということになるし、非自己的な対象に没入している際の個体が「没入していない」と言い張る限りでは否定しがたいはずであるが、いやあいつは非エゴイスト化したと名指すためには同じ個体のそれ以前のある時点での自我をその個体「固有の」、(利益判断の基準となるべき)本来の自我として設定せざるを得なくなるのではないか。その辺の曖昧さもあるので非エゴイストとは区別されるべき「不自由なエゴイスト」(意図せざるエゴイスト)も併せて批判しているのかな、と私などは思うわけだが、たぶんシュティルナー自身も混乱していると解釈するのが素直なんだろう。


ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)

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デリダの遺言―「生き生き」とした思想を語る死者へ

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