政治的敗者は政策過程から退出すべきか――山口二郎論説に寄せて


今週の『週刊東洋経済』(2009年10月24日号(第6229号))に、山口二郎のコラム「党派性を出すことで言論者の責任も明確に」が掲載されている。同記事には社会科学と現実とのかかわりについての山口の認識が顕著に現れているので、多少詳しく採り上げたい。

山口は、9月24日付の『朝日新聞』朝刊に掲載されたという小林慶一郎の記事を槍玉に挙げ、小林が「2005年の総選挙で小泉改革を支持した民意は、09年選挙でも持続していると主張し、民主党政権に対して経済的自由を尊重せよと提言」していることを批判する。


 小林氏の議論を読むにつけ、日本の言論界における最大の党派は「権力党」であることを痛感させられる。たとえばアメリカで新自由主義に基づく小さな政府をあおった学者が、オバマ政権に対しても同じように小さな政府を提言するなどということはありえない。政権交代が起これば、政策をアドバイスする学者も入れ替わるのが当然である。日本の場合、つねに権力に対して提言する専門家がいるようだ。専門家による余計なお節介のために、選挙における国民の選択が歪められるようなことがあれば、民主政治が機能しなくなる。経済的自由を尊重せよなどというお説教は、野党になった自民党に授ければよいではないか。
 政権交代によって一つの政策主張が退けられたら、それを支えてきた学者、専門家も敗北したことを認めるべきである。言論に携わる者は、自らの主張が人々に受け入られらない場合、すべからく「時に利あらず」という感覚を持たなければならない。そのことによって言論自体も進歩するのである。


山口の主張は、端的に言って暴論である。最大の問題点は議論が整合性を欠いている点であり、議論を整合させようとするとデモクラシーの理念を裏切ることになる点がそれに次ぐ。


まず、山口は政策提言者を党派に振り分け、一方の党派が選挙で勝利したのなら、他方の党派に寄り添った者は敗北を認めて政策過程から退出すべきだと言う。しかしながら、そのように学識者を党派に分断しておきながら、他方で「国民」は一枚岩のものであるかのように捉えなければいけない理由はどこにあるのだろうか。素朴に考えれば、(いかに無党派層が拡大したとはいえ)国民もまた党派に分裂しているのであって、一方の勝利は他方の敗北である。彼の論理を政治的・政策的党派にすべからく適用するのなら、与党に票を投じなかった有権者は「敗北したことを認めるべき」であり、政策過程から退出しなければならない。だが、そのような論理的帰結は、他方で討議/熟議民主主義にも肯定的に言及してみせる山口の理念と整合しない。


国民の意思――「民意」――を一枚岩の如く捉えて解釈してみせる振る舞いにおいては、小林(を含む無数の論者)も同様の誤りを犯していることは間違いない。しかし、国会議員ないし政府職員は部分集団の代表を憲法上禁止されている「国民代表」であるから、その職責において選出母体以外の国民の意思も尊重して欲しいと要求することは、少なくとも現憲法下での立憲民主政においては至極真っ当な行いのはずである。そして、数の力をたのまず、多様な意見に耳を傾けて議論を尽くすべきことを繰り返し「勝者」たちに説いてきたのは、主に山口が寄り添ってきた党派の方であった。

山口と同様ないし近似の党派に属する学識者たちが、これまでの数えきれない「敗北」の反復の中で素直に「退出」してきたと認める人は、果たしてどれだけいるだろうか。05年総選挙の敗北者たちが揃って口にしたのは、自らの政策・主張が支持されなかったことの受け止めと反省ではなく、いつも劇場政治・ワンフレーズポリティクスへの批判や、メディアへの不満ばかりだった。そして、国民は「郵政民営化」そのものを支持したわけではない、と決まって口にしたものだ。この口振りは、最新の「敗者」による「国民は民主党の政策そのものを支持したわけではない」との決まり文句にそのまま継承されている。


敗北を認めることと、退出すべきか否かは、全く異なる問題である。むしろ、国民代表の職責において与党と何ら変わることの無い野党議員が、与党の政策には十分反映されていない部分の国民の意思や利害を議会に持ち込むという重大な任務を持つのと同様に、学識者も退出などすべきではない。学識者が特定の政治的価値にコミットすることを奨励するのはよいが、だからと言って異なる立場の相手に提言すべきではないなどということにはならない。あくまでも政策実現が目的である政策提言者にとって、党派など「権力党」であってよいのだ。

多様な利害と意思に目配りを施す政治のためには、権力は排他的ではなく、包摂的でなければならない。「議論を尽くす」ものとしてのデモクラシーは、アクターの退出を好まないのである。したがって、与党に親和的でない政策提言者の退出を促しながら、市民参加による討議/熟議にも触れてみせる山口の論説は、自家撞着以外の何物でもない*1。彼が志向している民主政モデルは井上達夫が提唱した「批判的民主主義」モデルに類するそれであり、政策実現に直結するレベルでの討論活発化とはほとんど無縁な考え方だと言える。


整合性を持たない山口の議論が発している最大のメッセージは、要するに「目障りな負け犬はとっとと失せろ」ということであり、同論説は「勝者」(を自認する者)のおごりを堂々と打ち出した文書となっている。その臆面の無さに眉をひそめるべきか、それともある種の敬意を払うべきかは、読者諸賢の判断に委ねたい*2


週刊 東洋経済 2009年 10/24号 [雑誌]

週刊 東洋経済 2009年 10/24号 [雑誌]

*1:「敗北」した国民は「退出」するとすれば、「参加」すべき市民は限定されることになるのだろうか。山口は、自分が「人民主権」論者なのかどうかを明確にすべきである。

*2:なお、山口は昨日のエントリで採り上げた『二大政党制批判論』の著者・吉田徹と同じく北海道大学大学院の教員であり、日本政治学会理事長でもある。