「熟議に基づく教育政策形成シンポ」傍聴記


4月17日に文部科学省内の講堂で開催された「熟議に基づく教育形成シンポジウム」を傍聴してきましたので、その模様について、気付いたことや個人的な感想を簡単に書き留めておきたいと思います。

コンセプト


「熟議」とは「熟慮と討議」を縮めた言葉で、近年、政治理論の分野で盛んに論じられている「熟議デモクラシー(deliberative democracy)」という考え方に由来するものです。その内容を理解するには、本年2月から始動している文科省の「「熟議」に基づく教育政策形成の在り方に関する懇談会」の第1回(2月10日)配布資料「「熟議」について」を見るのが手っ取り早いでしょう。

そこでは、田村哲樹『熟議の理由』に依拠しながら、「関係者」が一堂に会して課題への学習・討議を行うことを通じて課題および相互の立場についての理解を深めることが自律的な問題解決を促す、といったプロセスが熟議民主主義の姿として描かれています。また、本年1月から始動している内閣府「新しい公共」円卓会議第5回(4月9日)における鈴木寛文科副大臣提出資料では、「当事者による熟議」が中央教育審議会のような専門家による議論と共に政策形成における「車の両輪」として位置付けられています(ほぼ同内容の資料は、シンポジウムの参加者・傍聴者にも会場で配布されました)。

そうした「熟議」の「実践の第一弾」として行われたのが今回のシンポジウムでした。全体テーマとしては、「小・中学校をよりよくするにはどうすればよいか」なる問いが掲げられていました。具体的には、事前に一般から募集された参加者を10名程度ずつの小グループに分けた上で教育をテーマとした討論をそれぞれ実施し、各グループの議論内容を最後に報告し合う、という形の設計です。文科省としても未だ試行錯誤段階にあるようで、こうした熟議空間の設計は今後変化する可能性が言及されていました。

構成・進行


今回のシンポでは小グループ(G)は9つ作られ、1〜5までが小学校、6〜9が中学校について話し合うということにされていました。事前の告知では「10名×10グループ程度」とされていましたが、会場設営の都合上か、9Gとなったことで1Gあたり平均12〜13人にまでメンバーが膨らんだようです。さらに討論のファシリテーターとして1人、議事録作成係として1人の計2人の文科省スタッフが各Gに参加したので、(目算でざっと数えた結果なので正確さは保証しませんが)平均約16人で1Gが構成されていました(一部、さらに「懇談会」の委員が参加したGもあったようです)*1

参加者の男女比は7:3から6:4ほどでしょうか。ファシリテーターや記録補助を務めた文科省スタッフも3分の1ほどは女性でした。年齢層は18〜19歳の大学生から青年・壮年・老年層まで幅広く、あまり偏りはなかったように思います*2。職業的には学校教員、保護者(元教員含む)、教育委員会委員、教育関連企業社員、大学教員、大学生、キャリアカウンセラー、職業ファシリテーターなど、こちらも様々でしたが、私が把握できた限りでは学習塾関係者はいませんでした(単に私が把握し切れなかっただけの可能性が大きいです)。

各Gは直径2mほどの円を作って着席し*3、9つの輪の左右・後方の壁際にコの字型の傍聴席が形成されました(傍聴者は討論中は歩き回って各Gの様子を近くで見ることができました)。Gごとに1台のビデオカメラが設置され、討議の様子が記録されるとともに、中継用のビデオカメラやiPhoneによるustream中継によって、インターネット生配信も行われました。

進行はほぼプログラムに沿って行われました。冒頭に鈴木副大臣から挨拶とWebサイト「熟議カケアイ」の公式発表があり、続けて文科省スタッフから50頁超の冊子資料(当日配布)の内容について頁をめくる手を止めることのできない速さでの説明が為されました*4。その後、「懇談会」委員の金子郁容氏による「熟議の心得」伝授が行われて、ようやく「熟議」が始まりました。

前後半に分かれた討論のうち、前半1時間は副大臣高井美穂政務官が各Gの議論を外から眺め、休憩を挟んだ後半1時間は副大臣政務官、金子委員が10分程度ずつ順繰りに各Gの中に入って議論に参加する、という形が採られていました(政務官は後半途中で早引け)。Gごとの討議終了後、議論の結果を各Gの代表者が順番に報告した後は、特に全体の結論を取りまとめることはせず、副大臣を中心とした運営側の挨拶や「懇談会」委員の金子・田村哲夫・城山英明各氏からの一言などあって終了となりました。

討論の様子と内容


自ら応募してきただけあって、全体に参加者のモチベーションは高く、議論は活発に行われたと思います。発言数の偏りは当然ありますが、文科省スタッフのファシリテーション(と言うよりも司会)も概ね無難であったと思われ、私が眺めていた限りでは各Gとも大きな混乱もなく、それぞれ程々に活発な議論が穏やかに行われていたという印象でした。

討論は比較的自由な雰囲気で行われ、PCを開きながら討論に参加した人は全体で10人以上はいたと思います。PCで何をしているかと言えば、twitterがほとんどで、自ら議事録を作っている人もいました。iPhoneを傍らに置いていた参加者も数人確認しました。参加者以外の傍聴者や設営スタッフにもPCやiPhoneを手にしていた人が多く、局地的とはいえtwitter&ustが行政にかなり食い込んでいる様子を目の当たりにしました。紙にアイデアを次々に書いて床に置いていくファシリテーション技法を用いながら討論に参加している人も見られました。

報道陣は最初はカメラマンが2人ぐらいかなという印象だったのですが、討議後半になって副大臣政務官が議論に参加する段にはグッと記者が増えた感を抱きました(それでも計10人ぐらいでしょうか)。副大臣が参加するGを移動する度に、議論の内容に耳をそばだててメモを取る記者とフラッシュをたくカメラマンたちによって厚みが増す輪も移り変わっていくのですが、その一方で政務官の参加するGは他とあまり変わらず、副大臣政務官の扱いの差が目に見えてよく解りました。

議論の内容としては、G報告として教師をバックアップするためのバックヤードの整備(「スーパー事務室」)などの提案も為されましたが、そのように具体的なところまで踏み込んだのは少なく、全体としては現状認識および考え方や体制・態勢についての議論が中心であったとの印象を受けました。総じて言えそうかなと思ったのは、教師の大変さについての認識が広く共有されており(参加者に教員が多かったこともあるでしょう)、支援の必要性が確認される一方で、教師の資質向上が必要であるとの認識も根強く持たれているようだ、ということです。それに伴い、学ぶ目的設定の重要性や授業内容をドラスティックに改革する方法、教員の評価法などについての議論が為されていたようです(あくまで私が見聞きできた範囲での話です)。学校を地域や大学・NPOその他の外部機関と連携させる必要性が複数Gで話し合われていたことも印象的でした。

その他(少し長めの)感想


後は雑駁な感想を。最初に感じたのはファシリテーターをしていた文科省スタッフ(の一部)が声小さいな、ということ。局長級までもがファシリテーター役として出張ってきたのは余程背負っているのか副大臣の号令で駆り出されたのかは知りませんが、いずれにしてもファシリテーターとしてちょっとどうかと思った部分はありました。ただ、これは全体としての問題でもあって、1Gあたりのメンバーが明らかに多いのに加えて会場のキャパシティもギリギリでキツキツだったので、G間の距離が十分に取れておらず、周囲の音のせいで話者によっては同じG内でも声が聞き取れないということが珍しくありませんでした。

あと、雰囲気が自由なのはいいとしても、全体のオーガナイズが弱すぎるように感じました。総合司会が「懇談会」メンバーの女史だったのですが(名前失念)、討議を中断して休憩時間に入る旨の伝達が十分に行き渡っておらず、そのまま討議を数分継続したGが幾つかあったので、後半の討議に入るタイミングがずれてマチマチになってしまっていました。前述の声の問題もあるので、これはいただけないな、と。ここまでは比較的些末な運営上の点。


もう少し本質的と言うか、「熟議(民主主義)」というコンセプトや制度設計そのものにかかわる点についても幾つか。先にも書いたように、参加者の中には職業ファシリテーターの人もいて、それを聞いたファシリテーター役の文科省スタッフが「じゃあファシリテーター代わりましょうか?」と冗談めかして言う場面も見られたのですが、実際代わるべきだったのではないかと思いました。事務局はまだしも、個々の討議のファシリテーションを行政側が担う必然性は無いですし、むしろ担うべきではないとも言えます。行政=文科省自体が、教育政策についての重要な当事者・関係者に含まれるであろうと考えられるからです。第三者的にファシリテーションをし得るような立場ではない。

この点、文科省側のスタンスが象徴的に現れていることがあって、それは各Gごとに設けられた固定カメラの位置です。カメラは全て例外無く、並んで座るファシリテーター役と記録役の2人の文科省スタッフの背後に設置されていました。あくまで「裏方」であるスタッフを映しても意味が無く、「主役」である一般参加者の人々を映さなければならない、という自然と言えば自然な考えの現われなのでしょうが、しかし行政を「裏方」的位置に固定するこの考え方にはある種の危険性が潜みます。「裏方」とは決して明示的には記録されず、「見られる」ことのないままに場を統御・支配する、いわば不可視の権力です。必ずしもそのように働くわけではないとしても、そのように解釈される可能性には敏感でなければなりません。カメラを背にすること=自分たちを局外の地位に置くことの特権性への自覚が薄いのではないかな、と感じました*5

教育政策において文科省は明らかに当事者・関係者ですから、討議のファシリテーターであるよりも、純粋なメンバーである方が相応しい。文科省全体とまではいかなくとも、文科省に勤めている人々が教師や保護者などと同じ立場で討議をしてみてもいいでしょう(むしろ、するべきなのですが)。実際、ファシリテーター役をしていたスタッフの心の内をこそ聞きたいな、と私は見てて思いました。「実際代わるべきだった」と先に述べたのは、そういう意味です。事務局までを第三者機関に任せるのは難しいかもしれませんが、少なくともファシリテーター役だけは、今後開かれる同様の試みでは文科省の外部の人(できれば職業ファシリテーター)にお願いするべきでしょう。


この点は、結局「当事者」ないし「関係者」の概念についての認識の甘さや不明朗さに結び付いていることだと思います。「関係者」を中心とした熟議を謳っているシンポジウムでありながら、文科省スタッフの座席に「関係者席」と大書した紙を堂々と貼り付けているセンスに、私はちょっと笑ってしまったのですが、しかしそのセンスが全てを物語っているのでしょう。

副大臣は締めの挨拶の中で、これからの行政はマネジメントの立場、ファシリテートやエディットの役割を果たしていくことになる、との認識を示しました。それはそれとして的を得た認識です。しかし、行政の役割が非政府的アクター間の集合的解決をマネジメントすることに限定されていくとしても、依然としてアクターの1つであり続ける行政機関そのものが当事者・関係者でなくなることはありません。行政主体にも利害はありますし、その内部では選好も形成されるでしょう。同じことは専門家にも言えます。行政のマネジメント的役割や専門家の専門知を重んじ、それらに独自の地位を与えるということは、行政や専門家を局外の地位に置いてよいということではありません。当事者ないし関係者、つまりstakeholderが誰であるのかを考える場面では、行政・専門家は他のアクターと並列の立場に戻されるのです。

展望


他にも、田村・城山両委員などから言及があった、このシンポを今後どのように政策形成に繋げていくのかという部分とか、小Gに分けて取りまとめもしないなら個別のテーマを割り振った方が議論が散漫化せず良かったのではないかとか、「熟慮と討議」のうち「熟慮」の部分は今回あまり見出せなかったように思うが今後どう考えていくのかとか、関連して熟議デモクラシーにおいて最も肝要である「選好の変容」という部分についてはどうか(それを望むためにはやはり明確な問題設定をして予め対立構造を顕在化させることが必要なのではないか)、などなど色々思ったのですが、文科省としては前述の「熟議カケアイ」(朝日記事)を中心に継続的に試していこうという姿勢はあるようだし、少し前のタウンミーティングとかよりはずっと良い試みなのではないかという気がするので、これ以上細かいことはひとまず措いておきます。

それから最後に。傍聴は疲れます。始終歩き回って、観察したり聞き耳立てたり。こういうのは参加する方がずっと楽だし楽しいですね。


熟議の理由―民主主義の政治理論

熟議の理由―民主主義の政治理論


関連で、「リスク社会における公共的決定2」で紹介した松浦正浩氏の新著が参考になるので、以下に掲げておきます。

実践!交渉学 いかに合意形成を図るか (ちくま新書)

実践!交渉学 いかに合意形成を図るか (ちくま新書)

*1:参加者・傍聴者を含めて、当日は200名近い人が集まったそうで、確かに会場はごった返しており、活気には満ちていました。

*2:ただし、小学生も中学生も高校生もいませんでした。

*3:討論が始まると、メンバーの声を聞き取るために円を一層狭めるGが多かったです。

*4:資料の内容は日本の小中学校教育についての基礎的なデータと最近の調査統計、政策動向などを整理したもので、1.確かな学力の向上、2.豊かな心の育成、3.特別支援教育の充実、4.教員の資質向上、5.教員の数の充実、6.学校、家庭、地域の連携協力、の6項目。

*5:今回のシンポでは、私が見る限りファシリテーター役の人々は総じて無難な司会に徹していて、議論の内容を特定の方向に誘導するなどの恣意的な操作や暗黙の圧力などは確認されなかったと思いますが、参加者によっては何らかの恣意や圧力を感じた人もいるかもしれません。