現代日本社会研究のための覚え書き――テクノロジー/メディア(第2版)

記録手段の発達と「大きな物語


J.グーテンベルクが1450年に発明した活版印刷機は、均質な文書を大量・迅速・安価に作成・流通させることを可能にした。活字の使用は言語の標準化を促し、徐々にではあるが、各国で「国語」が形成されていく。各地方の方言が有していた多種多様な差異を排した標準語=国語が使用されるようになり、母国語によって聖書が読まれるようになれば、自然とナショナリズムは醸成され、読書人は国民化する。加えて、印刷による歴史の記録が容易になり、自国史が国語によって書かれるようになれば、「物語」の共有は促進され、国民化は確かなものとされていくだろう。


大量の流通によって出版物の希少性が薄まると、複数人による音読/読み聞かせに代わって、一人で黙読する「近代読書」のスタイルが広がった。もっとも、印刷部数2000部を超える出版物が登場するのは17世紀に入ってからであるから「近代読書」の担い手になったのは限られた階層の人々であった。読書習慣が大衆化されていくのは、18世紀末から19世紀にかけてのことである(「読書革命」)。まず、1840年代のシリンダー印刷機の開発と、1880年代のパルプ製紙法の発明により、より大規模な印刷が可能になる。そして、初等教育の拡充に従って識字能力が一般化することにより、大衆的読書の前提がはじめて整った。こうして「大衆の国民化」が全面展開を開始すると、書物は「理性的な文化財から、感覚的な消費財へと意味を変えていった」(佐藤〔1998〕、47-48頁)*1

日本では、19世紀末から活版本が普及し、20世紀初頭には音読から黙読への移行が起こって、読書量が増加した*2岩波文庫の創刊(1927年)が象徴するように、近代的読書人層の形成は、1920年代には完了していた。しかし、教養主義を体現していた文庫市場は、50年代を通じて大衆化が進み、古典・名著の二次利用としての性格を薄めていった(佐藤〔1998〕、60-64頁)。「近代読書」なる形式が普及すればするほど、読まれる内容は変質していくのである。


18世紀までの新聞は、市民階級によって支えられた政論新聞を意味した。それが19世紀に入ると、大衆的読書の本格化に対応するように、犯罪やゴシップを扱った大衆紙が登場し、新聞の性格が変質を始める。電信の発明(後述)を受けて、1848年には米国でAP通信が、51年には英国でロイター通信が創設されている。文字数にコストが比例する電信の利用は、冗長な「意見」を削ぎ落として簡素な「事実」のみを伝える姿勢を促し、新聞の中心的役割は世論形成から報道へとシフトした(佐藤〔1998〕、69頁)。また、米国では19世紀末から、犯罪やスキャンダルをセンセーショナルに伝える方法を押し進めた「イエロージャーナリズム」が盛んになり、大衆の興味・関心を掻き立てた(佐藤〔1998〕、82-85頁)。


国民化ということでは、写真が寄与した部分も小さくない。写真技術そのものは、1826年にフランスのJ.ニエプスがカメラ・オブスキュラを、39年には同じくフランスでR.ダゲールがダケレオタイプを発明していた。その後、英国のW.トールボットが41年に写真複製技術を、52年に写真印刷技術を発明するに及んで、初めて「複製技術時代」(W.ベンヤミン)が到来する(佐藤〔1998〕、94頁)。出来事を記録し、保存しておくメディアである写真は、「過去の所有」を可能にする。人々は、自分や家族の写真を撮影することで、大文字でない個別の歴史を編むことができるようになった。かつて自らの肖像を描いてもらうのは限られた階級の特権だったが、肖像写真はその経験を大衆化した(佐藤〔1998〕、96頁)。それは一面で、前近代的な固定的身分秩序が溶解した後の人々の困難な自己規定を助けたと言えるだろうが、他面では、反省的な自己参照(再帰)を恒常的に反復せざるを得ない近代人の(ヴェーバー的)病理を却って悪化させたようにも思える。近代的個人として固有の「小さな物語」を紡ぐことが可能になっても、その自己そのものの位置付けに悩むようであれば、国家的歴史のような「大きな物語」に接近せざるを得ない現実がある。そこで大小の物語の間を繋ぐのもまた写真であり、あるいは映画である。

戦場の様子を伝える報道写真はクリミア戦争期から始まるが、フォト・ジャーナリズムが開花するのは20世紀に入ってからである。1925年に小型カメラのライカが登場し、以降、写真雑誌や写真新聞の刊行が始まる(日本では1923年に『アサヒグラフ』が創刊)。未だTVなき時代に、遠く離れた世界の現実を居ながらにして「見る」=知るという経験は、確実に人々の想像し得る世界を拡大させ、そして圧縮したはずである。直接には知り得ない世界を視覚的に捉えることで、ローカルな日常はある程度相対化され、不可視であるがゆえに神聖化・絶対化されていた存在(例えば政治家)が可視化されることで、脱神聖化が進む。そのような効果はあっただろう。しかし、事態は必ずしも一方向的に進むわけではない。「御真影」を見る/拝むという経験を反復させることによって対象の偶像化=神聖化が促された例に示されるように、「見(え)る」ことは常に相対化をもたらすわけではない(春原・武市編〔2004〕、193頁)。むしろ写真は、その普及によって圧縮された広範囲の世界を統合する象徴を提示することで、象徴を「見る」=共有する人々の間での「大きな物語」の浸透/維持/強化の機能を果たしたと言える。


映画は写真の延長線上に在るが、個人的な利用が困難である分だけ、その機能は物語の共有に特化されている。したがって、映画は極めて近代的なメディアである。映画は「自立したメディウムでなく、テクノロジーの集積性において極めて集合的なメディアである」ゆえに、その起源を断定し難いとされるが、通常は、1895年にフランスのリュミエール兄弟のシネマトグラフが公開された事実から語り始めることが多いようである*3。映画館が与える体験は、互いに見知らぬ人々が同じ空間を共有して、同じ物語を同時に受け取るという儀式的な振る舞いである。したがって、映画が戦意高揚やプロパガンダのために利用され、国民動員を大きく助けたことには、必然性が認められる。報道写真と同様、人々はスクリーンに映された世界を「見る」ことによって物語を共有し、自己の位置付けを獲得しようとしていた。しかし、物語を共有するために映画館まで赴く習慣は、やがて衰える。映画の入場者数は58年に11億2745万人で戦後のピークを迎える*4。その後、TVの爆発的普及によって衰退に向かい、場の共有を条件とする視覚メディアは、舞台の脇へと押しやられた。


後述するように、場の共有を必然化しないTVは近代的でない、ということになるわけではない。出版や写真もそうだが、距離的に離れた人々が同じ情報を容易に共有可能になる(脱空間化)ことは、近代を特徴付ける条件の一つである。それは音楽メディアについても言える。1877年にT.エジソンが蓄音機を発明し、1909年には日本で蓄音機/レコードの製造が始まる。レコードは、音楽の鑑賞行為を時間的・空間的制約から解放した。決まった場所に行かずとも(脱空間化)、いつでも好きな時に(非同期性)、好きな音楽を個人的に楽しむことができる。つまり、ローカリティからの自由が増すということは、活版印刷・写真・レコードから共通して得られる効果である*5。メディアがもたらすローカリティからの自由は、個人の自立/自律を助けるとともに、より大きな共同性(ナショナリティ)への統合を促す働きを為す蓋然性が大きい。



交通手段の発達と都市化


メディアが「間にあるもの」の意味ならば、広い意味において、交通手段もメディアの一種には違いない。交通において近代の始まりを告げたのは、英国のJ.スティーブンソンが1814年に実用化した蒸気機関車だった。1825年にストックトンダーリントン鉄道が開通し、順次、全国に普及。都市間移動が高速化され、都市の発展を促した。移動時間の短縮は空間を収縮させ、距離的懸隔感を薄めることによって、統一的・均質的な「国土」の成立を可能にした。また、出版物を同時に頒布可能な領域が飛躍的に拡大したことによって、新聞の全国化が急速に進むことになった。やがて鉄道は各国に輸出され、それぞれの「国土」統合の一助となっていく(佐藤〔1998〕、27-29頁)。1869年には米国で大陸横断鉄道が開通し、日本でも1872年に新橋‐横浜間が開通した*6


鉄道が各国に敷設されていく最中の1884年には、英国の時刻表を基準とした世界標準時間が定められる。既に、一律の針の動きで生活を均質化・規格化する機械時計と工場労働が、日照時間に左右される前近代的生活様式を駆逐しつつあった。そこに世界規模での均質化が挙行されるに及んで、不可視の「時間」の物象化は完成に近づく。人々の間には、数分の「遅れ」に気を苛立たせ、時間への忠誠心に基づいて他者を非難する近代人の感性が、急速に浸透し始めていた。鉄道による移動の高速化が旅行から「プロセスの愉しみ」を奪ったとされるように(佐藤〔1998〕、28頁)、均質化された時間は、目的達成までの距離を測る定規として働き、目的手段的な行為態度を促す。こうして時間を無為に過ごすことが許されなくなった近代人の行為態度は、農村的環境から都市的環境への移行に対応しているだろう。


1881年には電気鉄道が実用化され、1890-1900年代には日本の大都市を市街電車が走るようになった。1885-86年にはドイツのG.ダイムラー(二輪)やK.F.ベンツ(四輪)が自動車を発明する。米国では、19世紀末には自動車が普及し始め、1913年にはH.フォードがT型フォード車の大量生産を開始する(佐藤〔1998〕、29-30頁)*7。自動車が各国で本格的に普及するのは、第二次世界大戦後である。日本では1964年10月の東京五輪に合わせて首都高速道路が開通し、各地の道路が拡張された(東海道新幹線の開通も同時期)。60年代後半には、いわゆる「3C」の一つとしてマイカーの保有が大衆に促された。

交通手段の改善によって人口が集中した都市は、周辺の農村を巻き込みつつ、発展と拡大を続ける(都市化)。都市へと人口を流出させる農村は拡大する都市へと吸収されるか、そうでなくてもかつての共同体的統合を弱めていく。移動の容易さが生まれ育った土地に住み続けることの自明性を奪うとともに、通信手段の発達によって絶えず都市文化が流入してくるようになるからである。都市の流動性と匿名性は少なからず農村にも共有されるようになり、伝統的な農村共同体は解体されていく*8


都市生活は、技術の発達に従って日々豊かになっていく。ガス灯は1820年代にイギリスで普及し、1850年代にはドイツの諸都市でも一般化、1873-74年には横浜と東京の街路も照らし始めた。人工的な灯りは、日照時間による制約から人々の生活を解放する。英米で勤労者向けの大衆紙=夕刊が普及し始めるのは、1840〜60年代である*9。1867年にV.ジーメンスが発電機を実用化し、79年にはエジソンが白熱電灯を発明する。これらを受けて、1880年代には、各国諸都市で電線網が敷かれることとなる。日本でも1886年に東京電燈が開業し、90年代には主要都市に電灯会社が設立されるようになり、日露戦争後には大都市での電気使用が一般化した(佐藤〔1998〕、30-32頁)。第一次世界大戦語になると、都市ではガスと水道が普及し、電灯は農村でも使われるようになった。都市郊外に住宅地が拡大し、通勤には電車が使われた(五味文彦ほか編〔1998〕、416頁)。



通信手段の発達と「場所感覚の喪失」


鉄道が規則正しく運行することを可能にしたのは、電信である(以下、佐藤〔1998〕、142-148頁)。1837年、米国のS.モールスが発明したこの技術は、離れた場所にいる者同士が同じ情報を共有するまでの時間を、一挙に縮めた。1848年の全ヨーロッパ的革命運動を可能にした条件の一つは、電信技術の助けだった。1870年には東京‐横浜間で敷設され、翌年には上海‐長崎‐ウラジオストックが結ばれた。1876年には日本全土に電信網が拡大し、士族反乱の鎮圧に活用された*10

電信の後には電話が来る。1877年には、米国でG.ベルが電話会社を設立。80年代には商業化が進み、90年代には全土で遠距離電話が可能になった。日本で電話の利用が始まるのは90年の東京‐横浜間であり、99年には東京‐大阪間でも利用が可能になるが、一般に普及するのは1920年代以降である。


電信や電話のような通信を高速化する技術の登場は、「場所感覚の喪失」をもたらしたと言われる。それ以前には、コミュニケーションのためには直接会うか、手紙を介するかしか手段が存在しなかった。対面的なコミュニケーションのためには場所を共有しなければならないし、手紙には一定の時間差が生じざるを得ない(非同期性)。これに対して、電信は「居ながらにして」遠方での出来事を素早く知ることができるし、電話はより同期性が高い上に、双方向的なメディアであることから、超空間的な「疑似対面」の経験を生んだ。したがって、これ以後のコミュニケーションは、必ずしも具体的な場所の支えを要さなくなったのである。そして、こうした「場所感覚の喪失」を昂進させたのが、ラジオであり、TVであった。


1895年、イタリアのG.マルコーニが無線通信技術を発明し、通信手段の発達に新たな段階を加える。無線通信は第一次世界大戦で軍用に大規模な利用が行われたが、民間利用が本格化したのは戦後である。米国ではラジオ局の開設が相次ぎ、1922年にスピーカー内蔵のラジオ受信機が登場すると、飛躍的に一般家庭への浸透が進み、39年までに世帯普及率は80%に上った。私たちはここに、通信から「放送」が枝分かれした画期を見出すことができる。日本でも1925年にはラジオ放送が開始され、翌年には日本放送協会が設立されている(民間ラジオ放送の開始は51年)。放送メディアは、特定の相手と特定の情報をやり取りするのではなく、情報を「送りっ放し」にすることで、広範囲の人々に同時に同種の情報をばら撒く。それゆえに、共有や凝集を容易にする一方で、差異や階層の維持を困難にする。

欧米でも日本でも、この頃のラジオは家族共通の娯楽であり、一家団欒の象徴であった(春原・武市〔1998〕、19頁)。なぜか。それは、音声による情報伝達には、文字通りの「リテラシー(識字能力)」が必要とされないからである。いかに読書習慣が大衆化しても、本を読むためには最低限の識字能力が必要とされ、それゆえに一定の教育課程を経ることが享受の条件に設定されざるを得ない。それに対して、識字能力を必要としない音声メディアや視覚メディアには、コンテンツにアクセスし、それを享受するために越えなければならないハードルが、ほとんど存在しない。その意味でラジオと、それに先行する映画、そしてラジオの後に続くTVは平等性を備えたメディアであり、しかもそれがマスに向けて情報を発散するメディアであるという面も併せて、民主的=国民的メディアだったのである*11


TVは、戦間期から第二次世界大戦中にかけて姿を現わして来る。1926年に英国のJ.L.ベアードがテレビジョンによる映像の送受信に成功。35年にはドイツが世界初の定期放送を始め、翌年には英国のBBCが放送を開始。39年には米国のNBCRCAが実験放送を行っている。日本での放送開始は戦後の53年であり、59年4月の皇太子結婚を機に急速に普及。60年代に入った頃には、世帯普及率90%を超えていた(下図)。63年11月には初の衛星中継放送がJ.F.ケネディ米大統領暗殺を映して、「場所感覚の喪失」=脱空間化を生々しく顕わにしてみせた。


 (藤竹編〔2005〕、76頁)


この頃のTVはラジオの性格をそのまま引き継いだように一家団欒の象徴としての役割を演じており、同年12月の第14回NHK紅白歌合戦が記録している81.4%という視聴率は、それを証明している。60年代後半の「3C」ブームと70年の大阪万博を経たころには、カラーTVへの移行がおおむね完了。70年代後半には世帯普及率は90%台後半に上った。TVは紛うこと無き国民的メディアとなったのである*12


TVの特性としては、しばしば同時性(同期性)・臨場性・訴求性の三つが言われる。同時性はラジオなどと共通するが、臨場性と訴求性は音声と映像を併せて送り出すTVならではである。特定のイベントが行われているまさに同じ瞬間にTVがそれを映し出すことによって、視聴者はあたかも自分がその場にいるような気になる。そして、しばしば現場に立ち会った人よりも鮮明に(画面に映し出された限りの)イベントの隅々を眺め渡すことができる視聴者は、その(疑似)体験によって、感情を直接に揺り動かされやすい。加えてTVは、極めて多数の人々に向けて同じ(臨場的・訴求的な)経験を同時に与えることができるために、特定の物語の広範な共有を容易にする。その意味でTVが国民統合を促進する近代的メディアとしての機能を果たしている/いたことは疑い得ない*13

しかしながら、TVには確実に別の側面がある。それについては後述するが、示唆的であるのは、TVの普及が映画を衰退させたという歴史的事実である。映画館が都市における一種の公共空間だとすれば、そこからの撤退と自宅の居間におけるTV視聴への移行は、「家庭への内閉」という近代化過程に対応している*14。しかし、繰り返すように、本来互いに匿名的であるはずの市民たちが同じ空間に集まって同じ物語を同時に見るという映画の特質が前近代的であるわけがない。映画とTVの差異は、一義的には近代内部におけるものである。映画が与える物語の共有という経験は、TVの登場によって脱空間化されるとともに極大化・日常化された。しかし、物語の共有促進機能を担う中心的メディアが、公共空間における儀式的形態から私的空間における日常的形態に移行したことは、既に近代からの逸脱(物語共有の困難)の不可避性を内包していた。そのことが明らかになるのは、TVのもう一つの側面が剥き出しになってからだった。


もっとも、TVが単純な近代的メディアでないことは、それが極めて平等な=民主的メディアであるという事実だけを抉っても顕わにできる。あまりに平等なメディアは、近代的主体を成り立たせる条件を破壊してしまう。この点について、佐藤卓己による次の指摘は興味深い(佐藤〔2006〕、13-14頁)。

活字のように抽象的でなく、具体的な音声や映像をもった電子メディアは、たいした習熟を必要としない。子ども向けと大人向けにはっきり区別されていた書籍や雑誌と異なって、番組や映画の内容に多少の配慮はあっても大人も子供も同じラジオ受信機や映画館を利用する。大人と子供の境界はハード面で消滅し、その影響はやがてソフトにも及んでくる。その象徴がディズニー映画だったということができるだろう。もちろん、それに先行する西部劇やチャンバラ劇が狙った観客も、大人と子供の両方だった。[中略]
それでも、居間に置かれたラジオは親の管理下にあったし、映画館への入場には年齢制限が存在していた。しかし、テレビ放送が普及すると、子供と大人、大衆文化と高級文化の境界線はほとんど消滅した。


佐藤はこのすぐ後で、「快適な自己保存に満足しており、他者への優越願望を欠いている」ニーチェフクヤマ的な「最後の人間」を、(ディズニーランドで成人式をするような)大人でも子供でもない「成長しない人間」の姿に重ねている(佐藤〔2006〕、15頁)。そのような認識の是非を問うことは避けておくが、ここに東浩紀の「動物化」論との対応を見出すことができるのは明白だろう。



近代の脱部族化=国民化=大衆化


以上、記録・交通・通信の三領域に分けて、概ね20世紀前半までの各種メディアの状況を見てきた。その後の変化を語り始める前に、ここまでの議論を整理・統合しておきたい。

近代は、移動と通信の高速化による「時空間の圧縮」の時代と言える*15。近代以前においては、空間は具体的かつローカルな性格を持つものと認識されていた。移動が危険や困難を伴う一方で、戦争・悪疫・飢饉などによって社会生活が予測不能なものとなる場合が多かった。そのため、ほとんどの人々にとっては、決まった場所に留まり続ける方が安全であった。だが、例えば地図が次第に精度を上げていくように、多方面で科学的知識/技術が発達するに従って、世界を規格化された予測可能な単位とする――空間からローカリティを剥奪していく――プロジェクトは成功を収めていく。そのプロジェクトは近代化の名で呼ばれることが多いが、文脈によって様々な捉え方ができる。ここでは、M.マクルーハンが言う「脱部族化」の側面を採り上げるのが解り良いだろう*16


前近代は部族的な社会である。そこで中心となるのは声によるコミュニケーションであり、それゆえにコミュニケーションの舞台は互いに対面可能な狭い共同体内部に限られる。同じ時間と空間を共有していることがコミュニケーションの条件となるから、ローカルな文脈から切り離された情報など、存在そのものが信じられない。自らを生みだしたローカリティから脱して生きることの可能性も、信じられない。ところが、文字の使用が一般化し始めると、事情が変わってくる。文字は声と異なり、時間的・空間的制約が小さいメディアである。情報を保存することができる(非同期性)ので、狭い共同体に限られず、広範囲にわたるコミュニケーションが可能になる(脱空間化)。すると、部族単位で設けられた障壁は前提を失い、部族を超えたより大きな単位での統合が促されることになる。それが脱部族化である。

現に、活版印刷の発明と発展は、言語の地方的差異を駆逐し、標準語=国語の形成を帰結した。文字メディアに限らずとも、メディアの発達が非同期性や脱空間性の上昇をもたらせば、時間的・空間的制約の低減によって、人間の行為や意識は部族的な性質を弱めていかざるを得ない。例えば交通手段の発達は、「国土」の形成や都市化(伝統的村落共同体の解体)を促した。人的流動性を高めたり、日常の生活圏そのものを拡大させたりすることで、異なる文化や価値観に触れる機会を増やした。また、通信手段の発達は、自分が生まれ育った社会や、今現在帰属している集団とは異なる環境についての情報を得やすくすることで、当該社会/集団の中で維持されてきた伝統や規範を相対化する材料を提供した。このような状況下において、部族的まとまりを自明なものとしたまま維持することは、極めて困難となる。


では、脱部族化した社会はその後どうなるのか。既に明白なことだが、脱部族化の過程はほとんど国民化の歩みと重なる。そして、(「19世紀」までの)国民化の後には(「20世紀」的な)大衆化が到来する。大衆とは、画一化・均質化された存在として、マスコミュニケーションを成立可能にする前提である。だから、近代的なメディア状況は、脱部族化=国民化=大衆化とともに在る。ポストモダン的なメディア状況が現れるとすれば、それは、脱部族性=国民性=大衆性という枠組みを破壊するような要素を有しているはずである。

この点についてマクルーハンは、「再部族化」による「グローバル・ヴィレッジ」の到来を予見した。このビジョンは、電気メディアの即時性(通信の高速化)とネットワーク性(場所感覚の喪失)が国家単位のまとまりを困難にして、より小さな単位に再/細分化していくことを述べていると理解できるのだが、そこで「グローバル・ヴィレッジ」が言われる意味は一見解りにくい。「地球村」などと言うと地球が統一的な共同体になるかのような印象を与えるが、それはどうも誤解らしい。意図されているのはどうやら、国境を越えて「声」が届き得るメディア状況の到来によって、グローバルな範囲で部族的まとまりを形成することが可能になる事態のようだ。それならば、後述する趣味共同体の乱立やマイノリティの結合維持などを想起しつつ、支持することが可能なヴィジョンであろう。

だが、グローバルな再部族化が起こるとは、どのような条件によるのか。以上の視座を踏まえた上で、20世紀後半に話を移すことにしよう。



時空間の発散と私的メディア


まず、交通である。1903年の米国でライト兄弟が完成させた飛行機は、二度の大戦で軍用に利用された。戦後になると民間利用が拡大し、地面に引かれた国境線を軽々と飛び越えて見せることで、人々が国家の違いを相対化する作業を助ける。無論、グローバルな移動ないし流通という文脈においては、15世紀末から始まる大航海時代の経験が先行している。大航海時代以後、ヨーロッパが知る世界が拡大するとともに、世界内の諸地域がより緊密に結び付いていくことは不可避になった。その後、海上交通は発展を重ね*17帝国主義という非対称な枠内でこそあれ、19世紀末から20世紀初頭にかけては、グローバルな流通網が機能していた。しかしながら、現今のように大量の一般人が反復的に他国を周遊するような状況は、過去に例を見ない。

日本人の年間海外旅行者数は、1972年に初めて100万人を超えて以後、継続的な伸びを見せ、86年には500万人に届いた。その後は急激な伸びを見せ、幾度か停滞しながらも、2006年には約1753万人を記録している(国土交通省〔2007〕、第Ⅰ部第1章第1節2-(1)「図Ⅰ-1-1-2 海外旅行者数の推移」)。このような状況下において、国境線の相対化という事態が過去のどの時期よりも実際的な意味合いを持っていることは、疑い得ない。異国を歩き、異文化に直に触れることは、最早希少な体験ではない。都市化以後には農村に住み続けることが「敢えて」する選択になるが、グローバル化の進行は、生まれ育った国に住み続けることを「敢えて」する選択にしていくだろう*18。ここにおいて、近代が押し進めてきた脱空間性は、国家という空間的まとまりも突破して行く。脱空間性の更なる昂進は、近代以後のメディア状況における第一の特徴である。


次に、通信/放送と記録を併せて見ていこう。民主的=国民的メディアの究極として近代的な相貌を見せていたTVには、70年代頃を境にして変化が現れる。米国でのTV普及台数は75年には世帯数を超えたが、80年代に入るとケーブルTVが急発展を遂げ、80年には18%だった世帯普及率は、88年には53%にまで上昇した(佐藤〔1998〕、207-209頁)。日本でも、ケーブルTVは80年代以降に順調に契約数を増やし(藤竹編〔2000〕、100頁)*19、2006年には加入世帯数(自主放送を行うものに限る)は1955万世帯、普及率にして38%となっている(総務省情報通信政策局地域放送課〔2006〕、2頁)。

また、BS、CSなどの衛星放送の2008年時点の契約者数は、84年に開始されたNHK-BSが約1331万、90年に開始されたWOWOWが約244万、96年に開始されたスカイパーフェクTV!が約309万、2002年に開始されたe2 by スカパー!が約49万となっており、のべ1933万世帯ほどが衛星放送を視聴していることになる(「過去の年度別 衛星放送契約者数の推移データ」@社団法人 衛星放送協会 公式サイト)。少なくとも全体の3割の世帯では何らかの衛星放送を受信しているようである(下図)。


 (春原・武市編〔2004〕、35頁)


ケーブルTVや衛星放送を視聴する人の割合が増えれば、TV視聴の多様化ないし細分化が進む。さらに、80年代半ばから進んだとされるTVの複数所有化が、その傾向に拍車をかけている。2000年度のカラーTVの世帯当たり保有台数は約2.3台となっており、複数所有が一般化していることが分かる(春原・武市〔2004〕、35頁)。居間でチャンネル争いをする家庭は減り、家族構成員が他の構成員に気兼ねすることなくそれぞれに好きな番組を見ることができる(「個人視聴」)。また、TVゲームのように、TV以外に選択可能な娯楽が増え*20、それらに費やす時間が増えれば、自然とTVの視聴時間は減っていくだろう*21。視聴者はリモコンの利用を通じて、常に複数のチャンネルを比較対照して視聴したり、場面に応じて即座にチャンネルを変えることで、見る必要のない部分や見たくない部分をスキップしたりすることができるようになった。これは、それまで一方的に受動的な地位に甘んじることを余儀なくされていた視聴者が、限定的ながら能動性を獲得したことを意味する(藤竹編〔2000〕、143-144頁)。

また、64年にソニーが初めて製品化した家庭用ビデオテープレコーダー(VTR)が、80年代に入って急速に浸透し始め、88年には世帯普及率が60%を超えた (佐藤〔1998〕、204-205頁)。90年以後の普及率は70%前半で安定しているが(前掲「情報メディアの世帯普及率の推移」)、90年代後半にはDVDレコーダーが普及し始め、2000年代以降はハードディスクレコーダーの利用も進んでいるため、単純に伸びが止まったとは言えない。TVメディアにとって、VTRの登場は決定的に重要である。リモコンを積極的に活用する視聴者は既に、所与のソフトをそのまま丸ごと消費するという視聴スタイルから部分的に脱しつつあったが、番組を私的に記録し、編集可能な形で手元に保存しておくことができる装置の登場は、視聴スタイルの全面的な革新を可能にするものだった。ここで重要なポイントは二つある*22

一つ目は、同期的なメディアであったTVを非同期的に消費することが容易になったということ。つまり、番組編成時間による制約が緩くなり、録画しておいた好きな番組を好きな時に視聴することが可能になったということである。見たい番組の時間に合わせて他の行動を制限する必要がなくなり、生活の自由度が高まった。同じ番組の視聴者の間で同じ生活時間を共有する必然性が失われたということは、生活様式の規格化効果が薄まったということでもある。同じ物語を共有するにしても、最早その同時性は毀損されているのだ。

他方で、VTRによる保存が「好きな番組を好きな時に」視聴することを可能にするということは、地理的/国家的障壁の乗り越えが容易になるということでもある。現にヨーロッパ各国の移民社会内部においては、本国から送られてきた母国語放送のビデオテープを中心とする鑑賞共同体が形成されることで、エスニック・マイノリティの結合維持や文化継承が促進される反面、受け入れ国への統合が困難になっていることが指摘されている*23。無論、移民に限らず、ビデオテープやDVDに保存されたソフトが一般化することは、国境を越えた消費行動を容易にする。数多のサブカルチャーにおいて国境を越えた鑑賞共同体が形成されている現実は、VTRの利用なしには在り得ない(佐藤〔1998〕、205-206頁)。これは、ケーブルTVや衛星放送の普及と併せて、視聴行動の多様化ないし細分化を促進する効果を持つ。つまりVTRは、視聴行動と視聴内容の両面において、TVの画一性・均質性を解体する効果を持つ。

二つ目のポイントは、VTRの登場によって、TV番組の「読み・書き」が可能になったということである(佐藤〔2006〕、183頁)。ビデオテープに記録された映像は、早送りすることができるし、巻き戻すことができるし、一時停止することもできる。好きなところで切り、他の映像とつなぎ合わせることも可能だ。つまり、その映像がどのような要素によって構成されているのかをじっくりと読み込み、好きな要素を書き加えることができる。


歴史を振り返るなら、このような編集能力をマスコミュニケーションの受け手に獲得させるメディアの端緒は、カセットテープであった。70年代にコンパクトカセットテープの使えるラジカセが普及して以降、テープは音楽を聞く手段としての主流的地位を占めるようになり、とりわけ若者はFM放送やレコードから録音した音楽でマイテープを編集することに精を出した(藤竹編〔2000〕、276-277頁)。このような状況は、レンタルレコード店が拡大することでFM放送のリスナーが減り、やがてレコードがCDに取って代わられても、MDが普及する90年代後半までは基本的に変わらなかったように思う。おそらくVTR普及期において、「エディットするリスナー」としての経験を持たずに「エディットする視聴者」への変容を遂げるのは困難だっただろう。


映像にせよ音楽にせよ、受け手による操作・編集能力の獲得は、受け手の能動性を啓発して送り手との落差を縮め、送り手の特権的地位を揺るがしている*24。一度リテラシーを得た者がそれを「書く」までの距離は、短い。


さて、以上のようにTV視聴が多様化・細分化の度を強め(ケーブルTV、衛星放送、複数台所有)、非同期性を帯びるようになり(VTR)、操作・編集可能性が伴うようになる(リモコン、VTR)ことは、TVの「私的メディア」化を意味する*25。私的メディアとは、個別のニーズに応じた利用が可能であり、個人または限られた趣味共同体単位での特殊な消費を助けるような個人化/私物化されたメディアである。

私的メディアには、近代以後のメディア状況に現れる特徴を顕著に見出すことができる。その一つは(1)脱空間化の一層の昂進であったが(TVの個室への設置)、私的メディアにはさらに三つの特質がある。まず、脱空間化と同じく近代的特徴の延長として、(2)非同期性の促進が挙げられる。映画に代わって物語の共有機能を担ったTVが最大の特質である同時性を損なえば、私的な「小さな物語」の乱立への移行は防ぎ難くなる。次に、(3)脱大衆性の台頭。マスコミュニケーションを可能にした均質的な大衆の存在は、メディア利用の多様化ないし細分化によって掘り崩されていく。最後に、(4)可塑性の獲得。マスメディアを伝って送られてくるコンテンツを受け手の側がかなりの程度操作や編集を加えられるようになれば、マスコミュニケーションにおける一方向性は解体されていき、情報はゴールを迎えないままに絶えず無数の送り手=受け手の間を漂うことになる。

脱空間性・非同期性・脱大衆性・可塑性という四つの要素は、一方できめ細かなニーズを充足させ、マイノリティの尊厳を守るが、他方で社会の「島宇宙化」を進行させる。言い換えるなら、一方で「大きな物語」の解体を不可避にするけれども、他方で個人をエンパワーメントする。お望みに沿って、そのどちらを強調してもよい。重要なことは、それらが決して切り離すことのできない表裏の関係にあるということである。既に結論めいたものに到達してしまったが、他のメディアを見ながら、論を補強しておきたい。


家庭用ビデオカメラは、1994年には普及率が30%に届いた(佐藤〔1998〕、205頁)。写真とVTRの両方に似たこの機器は、旅行や誕生日など私的イベントの記録によって私的な歴史(「小さな物語」)の編纂を日常化させるとともに(佐藤〔2006〕、183頁)、映像によって現実を切り取るという経験を身近なものとして、送り手の特権性をますます希薄なものにしていった。自己や家族の記録を積み重ねたい/積み重ねなければならないという意識は、デジタルカメラの普及や、カメラ付き携帯電話の一般化によって、人々の間に浸透していく。一億総カメラマン化する社会の中で、記録される「べき」とされるものは既に、起伏に富んだ「イベント」よりも、平坦な日常であることの方が多くなっている。


1985年に登場したコードレスホンは、個室での電話を可能にして家族の個人化を促す一要素となったが*26、電話の個人化・脱空間化は、「ケータイ」の普及によって極地を迎える。携帯電話やPHSなどの移動電話の加入契約数は1996年から急増し、世紀の境目に固定電話の契約数を上回った(「電気通信サービスの加入契約数の推移」[PDF]@総務省)。伸びはその後も続き、2007年末における携帯電話とPHSを合計した加入契約数は約1億500万、普及率は82.4%となっている(「携帯電話・PHSの加入契約数の推移」@総務省 情報通信データベース)*27

現在のケータイが占めている地位は、未来を左右する。電話や手紙(メール)のみならず、TV(ワンセグ)、カメラ、ビデオカメラ(ムービー)、音楽再生(着メロ・着うた)、インターネットなど、既存のメディアの多くは既にケータイに統合されつつある。携帯電話やPHSを利用してインターネットに接続している利用者は既に50%を超えており(総務省〔2007a〕、第1章第3節1-(3))、インターネットへの接続のために利用する機器として携帯電話やPHSのみを利用している人は922万人と、インターネット利用者全体の1割を占めている(総務省〔2008〕、2頁)*28。経済的メディアである貨幣すらも、ケータイに取り込まれた(おサイフケータイ)。ケータイは今やコミュニケーションツールであるだけでなく、消費のアンテナ/場/ツールであり、自己物語形成の場でもある。


最後にインターネットに触れて、まとめに入りたい。コンピュータの開発は40年代から進められていたが、パーソナルコンピュータが登場するのは1970年代の米国だった。90-91年にワールドワイドウェブ(WWW)が開発されると、インターネットの商業化へと結び付く*29。1995年にインターネットの一般利用が本格的に始まると、普及率は急激に上昇(総務省〔2007a〕、第1章第3節1-(1))。2007年時点では8800万人が利用し、人口普及率にして69%に上っている*30

パソコン及びインターネットの使用は、蓄積ないし送信可能な情報量を飛躍的に増大させると同時に、情報の到達範囲を拡張し(国境の無化)、到達に要する時間も短縮した。誰でも・いつでも・どこからでもアクセス可能な情報がオンラインに氾濫していることから、利用の自由度は極めて高い。何らかのコンテンツを編集するコストも著しく低減されたため、私的メディアとしての機能は極大化している。人々は脱大衆化された消費がますます容易になったし、直接に面識を持たない者同士でも濃密な対立/連帯関係を取り持つことが可能になったので、趣味や主張が合致すれば、いかに地理的懸隔があろうとも共同性を生みだし、活発なコミュニケーションを行うことができる。

このように書いてみると、インターネットは確かに画期的なメディアではあるものの、それがもたらした変化は基本的には程度の変化であることが分かる。パソコン&インターネットは、高速化・脱空間化・脱大衆化・可塑性など、既存のメディアが果たしていた機能を一層拡張した進化型メディアとして重要なのであり、そこに本質的な意味での革新性は無い。


さて、繰り返すように、メディアの発展による脱空間性・非同期性・脱大衆性・可塑性の上昇は、「島宇宙化」を促進する。人が生活の中で活用可能な時間は限られている以上、細分化された趣味共同体内部でのコミュニケーション/消費行動が占める割合が増加すれば、その分だけ家族・学校・職場などの一般的集団/空間におけるコミュニケーションは減衰し、繋がりが希薄化することが予想される。この点は「共同体/市民社会」で別途検証するが、「繋がりの希薄化」が現に在るとの前提に基づくと、そこから改めてより大きな対象への統合欲求が生まれてくるとの推測が導かれるのは自然である。例えば、佐藤は次のように述べる(佐藤〔2006〕、103頁)。

情報技術の発展により、個人はメディアが提示する無数の選択肢から自らの欲望にそった情報を自由に入手することが可能になった。だが、選択そのものを自ら放棄しない限り、個人は特殊化、専門化した趣味の選択に膨大な時間を費やさねばならない。さらに自分の選択を合理化するために、人々は「自分探し」に多大なエネルギーを注ぐのだが、それは自己喪失の不安に由来している。結局、情報化によって個人は教会や学校や近隣共同体など物理的空間の規制から自由になったわけだが、個人の行動規範はもはや共同体によっては担われず、全ては自己責任とみなされる。こうして、個人が背負い込む自己責任が増大すれば、それに耐えきれず精神的に破綻する者も現れる。そのため、誰もが国民文化と国民福祉に安住して、共通の歴史にアイデンティティを保証されていたナショナリズムを懐かしく思い起こす時代が到来する。


これは一面では近代化=国民化過程の反復であるが、グローバルな島宇宙への「再部族化」を環境とする現代では、かつてのような象徴的統合は期待できない。また、「大きな物語」に希求する人々は、その相対性を自覚しており、自我の断片化を避けようとして「敢えて」超越的存在に接近しているのである。このようなポストモダン的条件によって、アイデンティティ形成の在り方やナショナリズムの現れ方も、近代的なそれとは相違してくる。これらの点については、「スピリチュアル/アイデンティティ」や「ネーション/国家」で触れることにしよう。



*1:佐藤卓己によれば、その傾向は、20世紀前半に始まるペーパーバックの台頭に顕著に現われている。

*2:春原・武市編〔2004〕、18頁。

*3:佐藤〔1998〕、97-98頁。

*4:五味文彦ほか編〔1998〕、501頁。

*5:近代的メディアの中で特殊なのは多分、物語の共有にあたって時間的・空間的制約を(敢えて?)厳しく設ける映画の方だ。

*6:1890年前後には、新橋‐神戸間と上野‐青森間も開通。

*7:フォード社が確立した大量生産大量消費システムについては、「経済」の項を参照。

*8:都市化については「共同体/市民社会」の項で詳述する。

*9:1833年には、安価で犯罪・ゴシップを扱った『ニューヨーク・サン』が創刊されている。

*10:なお、郵便制度が日本で整うのは1871年のことであり、全国化されるのは1890年代に入ってからである。

*11:F.ルーズヴェルト米大統領が「炉辺談話」を始めて行ったのは、1933年3月だった。

*12:辞任に際した佐藤栄作首相が「国民に直接話したい」と告げて会見場から新聞記者を締め出し、TVカメラに向かって語りかけたのは、72年のことである。

*13:この点で、「序論」で採り上げた東の議論――TVが象徴的統合を延命させた――は妥当している。

*14:家族」の項を参照。

*15:コーエン&ケネディ〔2003〕、46-47頁。

*16:以下、有馬〔2007〕、116-142頁。

*17:19世紀初頭に米国のR.フルトンが汽船を開発。

*18:海外旅行に一度も行かないという「選択」には、既に理由の提示が迫られるようになっている。

*19:なお、ケーブルTV放送自体の開始は55年であり、自主放送に限れば63年である(藤竹編〔2000〕、95頁)。

*20:任天堂ファミリーコンピュータを発売したのは1983年である。

*21:ただし、TVの視聴時間は95年からの10年間で微減しているものの、大きな変化が生じているとは言えず(NHK放送文化研究所〔2006〕、判断の留保を必要とする。))。まして、一家が揃って同じ番組を見る機会は希少になっていく。こうしてTVは、団欒の象徴としての地位から転落する。 リモコンが一般化したことも、無視できない効果を持っている((1992年にはTVにリモコンが付いている人は87%であり、番組が面白くなくなったらチャンネルを替えることが「よくある」人は40%、「ときどきある」人は41%だった(藤竹編〔2000〕、142頁)。

*22:言うまでもなく、DVDレコーダーやハードディスクレコーダーの登場によるデジタル化・大容量化は、以下に述べるような効果を一層増幅する。

*23:1989年の西ドイツにおいては、ドイツ人世帯におけるVTR普及率が44%であるのに対して、トルコ系住民の世帯普及率は75%に達していたという(佐藤〔1998〕、218頁、佐藤〔2006〕、182頁)。

*24:また、誰もが送り手側に回る可能性を高め、マスコミュニケーションにおける送り手と受け手の区別が困難になる状況の前提を作り出している。パソコンやインターネットの普及と発展による「総表現社会」の展望を語るのなら、このような先行する条件を見逃すべきではない。

*25:佐藤〔1998〕、209頁。

*26:家族」の項を参照。

*27:移動電話の契約数については、「携帯電話/IP接続サービス(携帯)/PHS/無線呼出し契約数」@社団法人 電気通信事業者協会HP、も参照。

*28:携帯情報端末のみによるインターネット利用者は、2006年には688万人であった(総務省〔2007b〕、2頁)。ただし、2004年には1511万人、2005年調査には1921万人であったので(総務省〔2006〕、2頁)、一方向的に増加しているわけではない。総務省〔2007a〕の第1章第3節1-(1)で指摘されているように、ここには携帯情報端末の性能の問題が関係していると思われる。

*29:佐藤〔1998〕、227-228頁。

*30:総務省〔2008〕、1頁。