現代日本社会研究のための覚え書き――政治/イデオロギー(第2版)

五十五年体制の形成と安定


1946年4月、日本で初めて行われた男女普通選挙は、戦後初の総選挙でもあった。新憲法案は、新たに選出された衆議院を含む帝国議会で修正・可決され、国民主権をうたう日本国憲法が46年11月に公布、47年5月に施行された。施行に先立つ4月には、新憲法体制を樹立するため、首長選挙参議院議員選挙衆議院議員選挙、都道県議会議員選挙が相次いで行われた。こうして、統治権力の正統性の源泉が国民に求められ、政治的意思決定能力者の全てに国民代表=統治機関の具体的な構成への直接の参与が広い範囲で認められるという、明確な国民主権体制がその一歩を記した(民主化*1


戦後、計7年にわたって首相を務めた吉田茂は、その後の日本政治を規定する一連の政治的決断を行った。全面講和か片面講和かを巡る議論で揺れる国内を背に、サンフランシスコ平和条約日米安全保障条約に調印。冷戦に突入した国際社会において西側世界への参入を内外に示すと同時に、共産圏に対する極東の防波堤として、米国と安全保障上の緊密な関係を保っていく方針を明確にした。当初の吉田が自衛戦争も禁じているとの解釈を示した日本国憲法第9条は、米国への安全保障の依存と組み合わせられることによって、その機能を発揮することになる。朝鮮戦争を機に日本が再軍備に踏み出して以後も、歴代自民党政権憲法第9条と左派の抵抗を盾に、米国からの軍拡と軍事的貢献に関する要求を退けてきた。日米安保憲法9条+自衛隊のセットによって比較的安上がりに安全保障を確保することで、経済成長の実現に集中できる態勢が整う。これが吉田の作り上げた戦後政治の枠組みである。


55年11月、前月の左右社会党統一を受けて危機感を強める保守勢力が自由民主党を結党する。保守合同が実現し、いわゆる「五十五年体制」の基礎が確立された。五十五年体制とは、自民党が国会の安定多数を確保して単独政権を担いつつも、社会党共産党などの革新勢力が3分の1以上の議席を維持する状況(「1と2分の1」体制)を指し、冷戦状況の国内的反映を意味していた。講和問題をめぐって顕在化した左右対立は、この時期に固定化=制度化され、安保闘争所得倍増計画を経て安定を得ることになる。

59年から60年にかけて、安保条約の改正に反対する安保闘争が国民的運動になったのは、教職員勤務評定の実施や警察官職務執行法の改定などにも現れた岸政権の戦前回帰を思わせる強権姿勢への反発が広がったことが大きい。新安保条約の内容については必ずしも反対でない立場の人も、議会制民主主義の危機であるとして、安保反対運動に身を投じた。59年11月のデモ中に全日本学生自治総連合(全学連)が国会構内に突入したことを契機に運動は訴求力を増し、参加者は一般学生にまで拡大した。60年5月に新安保条約の批准文書は国会で採択されたが、6月15日の運動中に学生1名が死亡したこともあって運動の規模は空前のものとなる。連日10万人が国会周辺に集い、18日には33万人が国会を包囲したが、翌19日の条約自然承認によって安保闘争は終わりを迎える。22日には、岸内閣が退陣を表明した。この結果を「平和運動の挫折」と見るべきか「民主主義の勝利」と見るべきかはともかく、以降の日本政治では、戦前から活躍していた吉田・鳩山・岸のような貴族的政治家は表舞台から姿を消し、民主主義体制への尊重が左右両勢力に共有される戦後政治への転轍が明確になる。


岸政権の退陣後に登場した池田勇人は、「寛容と忍耐」を掲げ、世論に配慮した政治を心がけた。強行採決を避けて合意を重視するとともに、憲法改正などの対立が激しい争点よりも経済成長を重視し、所得倍増計画を打ち出した。これは、日米安保への依存と小国主義に基づく経済成長の推進姿勢を明示的にした点で、吉田レジームを発展的に継承するものであった。以後、この「戦後レジーム」(吉田=池田レジーム)は(そこからの脱却を目指した佐藤栄作中曽根康弘を含め)冷戦崩壊までの日本政治を決定的に特徴付けることになる。在任中は憲法改正をしないと明言した池田以後、憲法改正論議は下火となってイデオロギー色の強いイシューは後退し、利益分配政治が基調になる。この点では独自の経済政策を持ち得ない社会党も歩調を合わせ、与野党ともに福祉の充実と生活水準の向上を競い合う構図が形成された――経済政策上の政策目標の対立が消滅した――ため、左右対立は外交・防衛問題に限定されていく*2

五十五年体制が60年に安定したと言うのは、この意味である。五十五年体制下においては、「政党支持は、日米安保条約自衛隊に対する態度をめぐる自民党社会党の対立によって構造づけられ」、「経済政策は、保革を分ける争点にはなっていない」状態が続いた(大嶽〔1999〕、5頁)。国会での論戦は一見は激しい論戦の様相を呈しながらも、水面下ではきめ細かい調整と妥協が行われ、与野党の合意に基づいて決定が形成されることが多かった(「国対政治」)。多くの社会党議員は、「院外の大衆運動や一般有権者へのアピールでは自民党とは厳しく対立する姿勢をみせながら、自民党族議員とともに、党内や国会内で利益団体として行動した」(大嶽〔1999〕、22頁)。自民党が農業や建設業を中心とする地元利益や職業利益を、社会党官公労労働者の職業利益を代表することで、政党間対立は、「分け前をめぐっての対立」に変質した(大嶽〔1999〕、21頁)。選挙は団体単位で行われ、職場がそのまま集票機能を果たした。こうした政治が可能だったのは、第一次産業第二次産業を中心とする産業構造と、職場や地域の強い結合力によるところが大きい。そうした条件が失われた時、団体中心の「合意の政治」は、それまで「合意」の外に置いてきた層から手痛いしっぺ返しを受けることになる。


とはいえ、五十五年体制の地盤沈下は早い時期から始まっている。高度成長を背景とする日本的雇用慣行の成立と企業社会統合は*3、労働者の生活改善による闘争性の後退をもたらした*4。企業の繁栄と運命を一にする民間労組の社会党支持率は、年を追うごとに低下していった(下図)。社会党の支持基盤は、官公労に女性中心の市民運動家を加えた程度に縮小していく。それに並行して、60年代から社会党の長期低落傾向が始まっている。社会党議席は、58年5月の統一後初めての衆議院選挙以来、3分の1の枠内を越えることはなく、徐々に減少していくのである(原〔2000〕、176-180頁)。


 (渡辺〔2003〕)


社会党が長期低落から脱却する機会は存在した。それは50年代後半にイタリアから輸入された「構造改革論」の導入である。当時の「構造改革論」とは、さしあたり資本主義経済を前提としながら(革命ではなく)部分的改革を積み重ねて社会主義に至るという、いわば社会民主主義的転回を意味しており、60年の党大会で江田三郎が提案した方針に盛り込まれた。しかし、この方針は派閥間抗争に江田が敗れることにより、数年の内に葬られることになる。「構造改革論」の挫折によって、社会党が階級政党から国民政党へ脱皮する機会は逸失され、長期低落傾向を未然に防ぐ手立ては何も無くなった(原〔2000〕、183-190頁)。


もっとも、60年代から70年代初頭にかけての時期は、革新自治の相次ぐ成立によって、革新陣営が一時の盛り上がりを見せた時期でもある。京都では50年代から蜷川虎三が府政を執っていたが、63年に横浜で飛鳥田市長が誕生したのを端緒に、大阪や北九州など全国で革新市政が生まれ、翌64年には全国革新市長会が結成された。67年、ベトナム反戦運動を契機とする社共共闘の気運に乗って、両党から推薦を受けた美濃部亮吉東京都知事に当選する。71年には美濃部が再選したほか、大阪府黒田了一川崎市で伊藤三郎が、革新派から当選を果たした。72年には沖縄県屋良朝苗、埼玉県で畑和、岡山県で長野士郎が、74年には香川県で前川忠夫、滋賀県武村正義が、75年には神奈川県で長洲一二島根県恒松制治が革新知事として登場した(同年に美濃部が三選)。72-73年には、野党4党による政権構想も持ち上がったほどである。しかし、73年の低成長時代への突入以降、革新派首長の経済無策が露呈するとともに、支持基盤の労組の弱体化も進行した。社共の共闘も揺らいで、70年代末に完全に決裂するに至る。79年に美濃部が引退し、保守の鈴木俊一東京都知事に当選するに及んで、革新自治は終わりを告げた*5


80年代に入ると、五十五年体制崩壊の足音が聞こえ始める。82年に「戦後政治の総決算」を掲げて登場した中曽根政権が第二次臨時行政調査会を組織して推進しようとした行財政改革は、英米サッチャーレーガンに歩調を合わせるネオリベラリズム的な方向性を持つものであり、戦後型の利益分配構造を解体しようとするものだった*6。中曽根政権期に打ち出された各種の規制緩和所得税の累進率の緩和などは、90年代以後のネオリベラルな改革に先鞭を付けるものであったが、とりわけ大きな影響をもたらしたのは日本電電公社日本専売公社日本国有鉄道の民営化である(84〜87年)。三公社(特に国鉄)の民営化によって総評は大打撃を受け、社会党の支持基盤は一層弱体化することになる。






五十五年体制の崩壊と改革の政治


90年代初頭を以て戦後政治の折り返し地点と見做すことに異論は少ないだろう。89年の冷戦終結と91年のソ連解体は、国内外の政治環境を決定的に変えた。91年初の湾岸戦争を機に、国是「専守防衛」に基づいて海外への自衛隊派遣を行わない方針には、強力な疑義が突き付けられることになる。92年の国連平和維持活動協力法の成立によって日本の軍隊が初めて海外派遣への道を開かれる一方、「普通の国」論や「国際貢献」論に基づく憲法改正論が支持を拡大していく。この潮流は、憲法9条を改正し、国際社会や日米関係における軍事的貢献を積極的に拡大していこうとする点で、吉田が敷いた路線の見直しを目指すものである。以降、かつて「平和勢力」の中心として憲法改正や軍備拡張への抵抗力となった革新政党が衰退し、北朝鮮や中国の軍事的膨張による脅威が喧伝される中、吉田路線の見直しは着実に実行に移されていくことになる*7


90年代初頭は、自民党型利益分配政治の弊害が広く国民に認識された時期でもある。利権構造と結び付く金脈への批判は、74年の立花隆による「田中角栄研究」と76年のロッキード事件での田中逮捕において既に激しく巻き起こっていたが、88年のリクルート事件と93年の佐川急便事件で金権体質への批判は頂点に達した。同時に派閥政治への批判も高まり、政治の刷新、「政治改革」の必要性が叫ばれた。そして、自民党の分裂と同時に行われた総選挙を経て、93年8月に細川護煕を首班とする非自民連立政権が誕生し、自民党は初めて野党に転落する。また、同選挙で革新勢力は3分の1議席を確保することができず、55年2月の総選挙以来続いてきた1と2分の1体制も崩れることになる。こうして五十五年体制は終わり、戦後政治は転換点を迎える。


戦後政治の新たな時代については、94年末の新進党の結成が、保守二大政党体制の未来を展望させた。冷戦終結後、かつて政治の一極を占めた革新勢力の衰退は決定的なものとなっていた。社会党は80年代からマルクス主義を放棄して現実主義路線に舵を切り、86年1月の党大会で福祉国家および自由市場の承認や議会制民主主義の肯定を打ち出し、「政権政党」を目指すと宣言していた(原〔2000〕、196-197頁)。それはかつて捨て去った構造改革論への遅過ぎた回帰であり、現実への対応であるよりは追認であったが、この時点においてもなお、党内には社会民主主義路線への移行に対する反発が存在したのである。90年2月の衆院選では躍進し、一時的な盛り返しを見せるが、それは自民党の腐敗に対する批判を強める無党派層の受け皿になったに過ぎない*8(大嶽〔1999〕、26-27頁)。五十五年体制を主体的に刷新する突破力も、体制を支えた条件の瓦解をバネにする対応力も欠いた社会党が現実への完全敗北を認めるのは、93年7月の総選挙での歴史的惨敗の後、非自民連立政権への参加と離脱を経て、自民・さきがけとの連立政権を樹立し、日米安保の維持と自衛隊の合憲性を容認するに至った94年6月である。村山政権の誕生を以て47年振りに首班を輩出した社会党は、政権が退陣した96年1月に「社会民主党」への党名変更に踏み切るが、以降は拡大する民主党への議席と支持基盤の割譲を続け、小政党へと転落した。


五十五年体制の崩壊と社会党の衰退が意味するのは、イデオロギー政治の終わりであると同時に、戦後型の利益分配政治の限界である。利益分配政治への批判が自民党を野党転落にまで追い込んだのは、産業構造の転換によって、従来型の団体政治と利益分配構造による恩恵を享受しない層が拡大したことの影響が大きいと思われる。脱工業化や雇用の流動化、労組組織率の低下などを背景として、従来の職業的利益代表によっては捕捉されない有権者が拡大すれば、団体単位での利害伝達回路を前提とする戦後型利益分配政治への不満が高まるのは当然である(大嶽〔1999〕、22-23頁)。後述する無党派層の増加や政治的有効性感覚の低下についても、ある程度はこうした事情によって説明できる。

市民」の党として出発した民主党が、98年に旧新進党勢力を吸収して急成長を始めるのは、イデオロギー政治の終わりと旧来の利益分配構造の失効に対応した事態である。民主党は、自民党政治に対する「改革」の党としての性格を強調して議席数を伸ばし、現在では自民党と肩を並べる二大政党の一方に成長している。従来、その「改革」姿勢はネオリベラルな性格を帯びていたが、旧社会党の支持基盤を摂り入れるに伴って社会民主主義への傾きが強まっている。特に06年に小沢一郎が党首に就任して以降は、格差拡大への不満や社会保障制度への不安に訴求する狙いもあり、「国民の生活が第一」のキャッチフレーズを掲げ、「生活者」の党としての性格を強めている。

ネオリベラルな改革姿勢と生活者の党であろうとすることは、矛盾ではない。既に部分的に示唆しているように、中曽根政権以降のネオリベラリズム的な改革には、産業構造や社会構造の変化に伴う従来型の利益分配政治の失効への対応としての側面がある。そして、そうした改革の受益層こそ、旧来の団体単位の利害伝達回路から疎外されてきた非組織市民であり、イデオロギーよりも福祉や教育の充実を望む「生活者」とは、彼らを指すのである。民主党が激しい官僚批判を展開し、政府の歳出削減を強調する――そして小泉以降の自民党がその姿勢に倣っている――のは、これまで自分たちの意思が政治に反映されず、納めた税金が無駄に使われてきたとの強い不満を抱えている彼らに訴求するためである。ネオリベラルな改革を志向しながら社会保障の充実を唱えるのは、市民/生活者が政治に求めるものが、イデオロギーよりもサービスであるからにほかならない。


他方、戦後型の利益分配政治を支えた条件が失われてきたことは、自民党にとっては多大な困難を強いるものであった。自民党は従来、大企業管理職などのホワイトカラー上層のほか、地方の農業者、都市の中小企業・自営業者などを支持基盤としてきたが、事態の変化に対応しようとしてネオリベラルな改革に転ずることは、支持基盤(低生産性部門)への保護政策を打ち切り、打撃を与えることを意味する。既に80年代末には財界からも改革要求が突き付けられていたが*9、「自らの足を食う」改革は、容易に進めることができるものではなかった(渡辺〔1998〕)。

それでも、中曽根政権以降、自民党は漸進的にせよ改革を進めようとしてきた。とりわけ明確な改革姿勢の下に政策が断行されたのは、橋本政権(1996-98)における「六大改革」(「行政改革」「財政構造改革」「経済構造改革」「金融システム改革」「社会保障構造改革」「教育改革」)と小泉政権(2001-06)における「構造改革」である。橋本改革においては、様々な規制緩和が構想・実行されたほか*10、省庁再編による行政効率化や内閣の権限強化、経済財政諮問会議の設置などが実現された。小泉改革では、多方面での規制緩和のほか、郵政民営化をはじめとする特殊法人改革、不良債権処理、公共事業投資の削減、地方分権改革などが実施された。

一連の改革によって旧来の既得権益が一定程度まで解体されたことは確かである。しかし、それは利益分配政治が解体されたことを意味しない。現代政治は利益の分配以外では在り得ない。「利益政治」の名で嫌われたのは既得権益者であって、利益そのものではない。解体が目指されたのは「従来の利益分配構造」であって、遂行されたのは利益分配構造の再編に過ぎない。


利益分配構造が再編されると同時に、政治の構造も変化した。小泉政権期の郵政民営化をめぐる与党内外での攻防に象徴的に現れているように、従来型の「合意の政治」が崩壊したのである。戦後日本における「合意の政治」とは、単に自民党社会党国対政治のみを指すのではなく、派閥と「族」によって分化した自民党が各業界の利益を吸い上げ、党内及び省庁間での調整を経て合意を形成するボトムアップ型の政策形成過程も併せて意味している。だが、橋本政権における内閣権限の強化によって、トップダウン型の政策決定の可能性が開かれた。その可能性を強い政治力によってフルに活用したのが小泉政権である。もとより、細川政権期に「カネがかかる選挙」と「派閥の悪弊」を除くためと導入が決定された小選挙区比例代表並立制は、公認権を握る党執行部の権力を強め、派閥の拘束力を弱めていた。従来は階級政党である社会党との政権交代が有り得ないために、国民の多様な利害が自民党に寄せられ、派閥による党内疑似政権交代が行われていたのであるが、民主党の成長によってその必要性は薄れている。かくしてボトムアップ型の「合意の政治」は醜い利害調整に汲々とする「談合政治」と指弾され、華やかなリーダーシップに基づくトップダウン型の決定がポピュリスティックな賛美に浴するようになった。

また、そうした迅速で断固とした決定こそ、「効率性」の要求に適う、望ましい政治の姿であるとされている。今や、政治は下手に「民主的」であるよりも「効率的」である方が評価されるようになっている。政治哲学としてのネオリベラリズムと重なるところが大きいリバタリアニズムは、集団主義からの個人の防衛を企図して、民主的統治に懐疑的であったり、何らかの制限を設けようとしたりする傾向がある。それに対応するように、ネオリベラリズム的な改革においては、重要な決定が非民主的で閉鎖的な機関によって行われることが多い。例えば経済財政諮問会議は、ごく少数の財界人と経済学者によって構成されており、民主的正統性に乏しいにもかかわらず、小泉政権下では甚大な影響力を振るった。

とはいえ、ネオリベラルな政治が民主主義をないがしろにすることを公式に認めるわけではない。彼らはむしろ、既存の制度的枠組みが世論の実態を反映しておらず、一部の既得権益者にとって有利な非民主的システムになっているとの批判を口にする。そして、「民意」の支持をテコとして、非制度的な「民主的正統性」を標榜するのである。リバタリアニズムないしネオリベラリズムの開祖の一人と見られることが多いF.A.v.ハイエクは、自生的に生成・継承されてきた「法」(自然法)の観点から民主的統治を批判するという保守主義的立場にあったが(ハイエク〔1977〕)、現代のネオリベラリストが拠り所とするのは、第一に統治の効率性――トップダウン――であり、第二に非制度的・脱集団的な「民意」の支持――ポピュリズム――である。


起こったことは、つまりこういうことである。社会の個人化によって団体単位の利益分配政治がダメになった。いわば政治過程の個人化である。そこでバラバラになった諸個人の不満に応える「かのように見せる」英雄的な「リーダー」が、獲得したポピュリスティックな支持を背景に「やりたいこと」をやった。しかし、従来の利益分配構造が失効したのならば、必要なのは政治の個人化の隙を突いて「英雄」にやりたいことをやらせることではなく、諸個人の多様な利害を伝達・総合する適切な回路を新たに整備し直すことではないだろうか。現代の政治にとっての課題は、利益分配政治の破壊であるよりも、その刷新である。この基本姿勢を確認した上で、もう少し考察を進めよう。



「政治離れ」とサブ政治


近年の政治現象における顕著な特徴の一つは、無党派層の増加である。NHK放送文化研究所の調査では、自民党の支持率は、80年代初頭をピークとして、以後は低落傾向にある(NHK放送文化研究所編〔2004〕、106-107頁)。とはいえ、非自民勢力が支持率を伸ばしているわけではなく、むしろ自民同様に低落傾向を示している。拡大しているのは「支持政党なし」の割合であり、98年以降は過半数に達している。


 (同、107頁)


同じくNHK放送文化研究所世論調査では、「私たち一般国民の意見や希望は、国の政治にどの程度反映しているか」との質問に対して、「十分反映している」「かなり反映している」「少しは反映している」「まったく反映していない」の選択肢から答えてもらっている。それぞれの答えを順に政治的有効性感覚が「強い」「やや強い」「やや弱い」「弱い」ものと見做し、グラフ化したのが下図である。世論が多いに反映されていると感じている人は減少傾向にあり、特に98年以降は世論が全く反映されていないと感じている人が急増していることが分かる。


 (同、78頁)


また、「国会議員選挙のときに、私たち一般国民が投票することは、国の政治にどの程度の影響を及ぼしていると思いますか」との問いに対して、「非常に大きな影響を及ぼしている」「かなり影響を及ぼしている」「少しは影響を及ぼしている」「まったく影響を及ぼしていない」との選択肢を示した設問では(政治的有効性感覚は順に「強い」「やや強い」「やや弱い」「弱い」)、政治的有効性感覚の減退傾向がより顕著に認められる(同、82-84頁)。それに対応するように、国政選挙の投票率も減少傾向にある。


 (同、84頁)
 (同、85頁)


重要なのは、無党派層の増加や政治的有効性感覚の低下が何を意味するのか、である。無党派層と呼ばれる人々や投票所に足を運ばない人々は、決して社会的な問題に無関心であったり、無知であったりするわけではない。無党派層は、「既成の方法による政治参加には懐疑的である」ものの、「日本への貢献意欲、社会的支援に対する意欲は多数の人がもって」おり、「社会や政治には関心がある人たちである」(同、113頁)。つまり、彼ら――私たち――は、既存の政党や政治過程に満足するところが少ないだけである。


また、人々が政治的有効性感覚を低下させているのは、一面では政治への失望の現れであるが、他面では政治へ期待するところの少なさを示すものでもある。それは、「中央の政治や政党の役割と、現実の市民社会が持つ課題との間に大きなズレ」が生じているからである(篠原〔2004〕、55頁)。現代においては、社会を左右する決定権限の多くが、公式の政治過程における民主的統治原理による統制を受けずに漂流している。積極的な市場取引や利潤の追求、科学技術上の課題の探求などの諸活動が、「正当性の理由づけもされないまま」、社会生活上の変化を次々に引き起こす(ベック〔1998〕、378-379頁)。社会の輪郭は、「もはや議会での話し合いや行政府の決定によって決められるのではな」く、民主的な正統化を経ていない非政治的システムが、優越的な政治的形成力を有するようになる。社会を変える決定は、「どこかわからないところから無言で匿名で下される」ようになったのだ。決定権が政治過程から社会の側に移行しているのならば、政治過程に参加することの意味や必要性が乏しいと感じられるのも当然である。つまり、政治に対する不快感や不全感は、「公権力を委ねられた政治と、社会の広範囲にわたる変化との間に不均衡が生じていることから生じたもの」である(ベック〔1998〕、380-383頁)。

このように技術や経済など元来は非政治的性格を有していた領域が社会に大きな影響力を持つようになって単に政治的でも非政治的でもない独自の性格を帯びることを、U.ベックは「サブ政治」と呼ぶ。サブ政治が拡大すれば、政治の有効性は減衰する。ただでさえ社会の個人化によって利害伝達回路の弱体化に直面している人々にとって、政治が魅力や意義を失っていくのは必然である。こうした観点からは、政治の「劇場化」や「大衆迎合」は安易に批判できない。どうせ何も決定できない政治ならば、せめてエンターテインメントとなって話題を提供するぐらいのことをしてもらわなければいけない。人々がそう考えたとしても、無理はない。また、どうせ限られた影響力しか持たない政治ならば、マスメディアを介した大衆動員が行われたところで、大したことは起きやしない*11。そうした感触は、一面の真実ではある。


しかし、それでも、政治が完全に影響力を失ったわけではない。政治の有効性を回復する、ないしは政治から流出した決定権限に民主的正統性を確保するためには、どうすればよいのだろうか。問いを、空虚なポピュリズムに実体を与える方策は何か、と言い換えてもよい。その答えは、新たな利害伝達回路の確立であり、市民社会内部への利害関係原理≒自己決定原理の貫徹である。私はそう考えているが、詳細については「結論と展望」で述べることにしよう。



消費者主権政治と自由主義の勝利


最後の節では、脱イデオロギー的な現代の政治を決定的に特徴付けているイデオロギーについて、歴史を辿りながら論じてみたい。そのイデオロギーとは広く言えば自由主義であり、やや狭く言えば「消費者主義」である。そのイデオロギーの浸透に従って台頭する政治イシューは「生活政治」であり、生活政治をめぐる争いが展開される政治空間の性格を一言で言うならば「消費者主権政治」である。

1962年に米国のJ.F.ケネディ大統領が宣言した消費者の4つの権利、すなわち(1)安全を求める権利、(2)知らされる権利、(3)選ぶ権利、(4)意見が聞き届けられる権利は、そのまま現代の有権者が政府や政治家に対して主張することができる権利と見做しているものに一致する*12。人々は、タックスペイヤーとして官僚の無駄遣いに激しく憤る一方で、公共サービスの受益者として厳しい要求を突き付ける*13。政府は小さく、効率的でなければならないが、同時に充実した社会保障を国民に提供しなければならない。国家は国民の安全と健康にきめ細かく配慮するべきであり、リスクに対しては迅速かつ的確な処置を施し、必要な情報を直ちに公開しなければならない。政治家には広報とプレゼンが求められ、庶民の目線で「わかりやすく」語り、世論に耳を傾けなければならない。官僚や政治家は常に潔癖かつオープンでなくてはならず、国民が統治に参加可能な範囲は大きければ大きいほどよい。こうした国民=消費者の要求――誰も反対できないように思えるそれ――が基礎付けられているのは、ネオリベラリズムと言うよりも、非イデオロギー的な何かである*14

自由主義という長くて広い文脈をひとまず棚上げにすれば、現代政治を規定しているこの脱イデオロギー的なイデオロギーは、戦後の政治/運動史上、新左翼、「構造改革論」、革新自治、「新しい社会運動」、ネオリベラリズムなどと関係付けることができる。以下、順に述べていくことにしよう。


占領軍を解放軍と位置付けていた日本共産党は、コミンフォルムによる批判を受けて51年から武装闘争方針に転じたが、党内抗争を経た55年7月の第六回全国協議会で「極左冒険主義」との決別を宣言し、武力革命路線を捨て去った。二転三転する方針に、党への不信は強まっていた。56年2月にフルシチョフによるスターリン批判が報じられ、同年10月のハンガリー事件が知られると、中央集権的な党への反感は増幅され、学生革命家の分裂が引き起こされる。全学連における日共中央派と反中央派の対立を契機として、58年に共産主義者同盟(ブント)が結成され、次第に全学連の主導権を握るようになっていく。ブントは安保闘争における華々しい活動の後、闘争の総括をめぐって四分五裂していくが、既成の革新政党と激しく対立した彼らは、日本における新左翼の第一世代に位置付けられる。

50年代末以降に新左翼が形成された背景は、第一に先進資本主義諸国におけるフォーディズム福祉国家体制の樹立によって失業や貧困からの大規模な解放が実現し、「豊かな社会」が誕生したことであり、第二には政治的抑圧に基づく社会主義国家が同様の豊かさを実現できていないことであった。飢餓や失業の不安から解放された若者が、「豊かな社会」における既得権益を維持することに汲々とする労働運動や革新政党の現実主義・物質主義に苛立つというアイロニカルな構図がそこにはあった(大嶽〔2007〕、13-14頁)。また、スターリン批判とハンガリー事件を経て既成左翼の集権主義への反発が強まり、社会主義国家と福祉国家を官僚制支配による管理社会と総括して批判を加え、広範な自治・参加・自己管理を目指す考え方が台頭した(大嶽〔2007〕、15頁)。反スターリニズム、管理社会批判、福祉国家批判、官僚制批判。これらの点で、新左翼は後に台頭するネオリベラリズムとの共通基盤を持っていた。新左翼が、「ネオ・リベラリズム新左翼による既成左翼批判、福祉国家批判を換骨奪胎して、自らのイデオロギー的主導権を確立する」ことを通じて、「一九世紀から二〇世紀前半までのいわゆる(旧)左翼運動の伝統に致命的な打撃を与え、長期的には一九七〇年代以降のネオ・リベラリズムによる保守勢力の復権に貢献するという皮肉な役割を演ずることになった」と評される所以である(大嶽〔2007〕、25頁)*15

68年には、東大医学部の紛争に端を発して、大学紛争/闘争が勃発。各大学で全共闘が結成され、6月には東大安田講堂が学生に占拠された。翌69年1月には安田講堂の封鎖は解除されたが、運動そのものは拡大し、全国の大学で全共闘が結成されていった。しかし、時代は既に移り変わっていた。70年の3〜9月には大阪万博が消費文化の爛熟を知らしめ、同年6月の安保条約自動延長は、安保闘争の再来を期待していた運動家の思惑をあっさりと打ち砕いた。乱立する党派は全国の全共闘を草刈り場として延命を図ろうとする。中核派革マル解放派を中心とする内ゲバが始まるのも、この頃である。やがて72年2月の連合赤軍によるあさま山荘事件が起こり、革命運動の袋小路が誰の目にも明らかになった。80年代には内ゲバの激化によって混迷の度が深まり、新左翼そのものは死んだ。しかし、その「遺産」は現代に引き継がれている。

欧米の先進資本主義諸国では、60年代後半から、人種・マイノリティ・ジェンダー・平和・環境・消費者など、経済的利害に限られない争点をめぐって、「新しい社会運動」が巻き起こる。その新しさは、新左翼と共通する脱物質主義と脱中心的なネットワーク型組織、そして運動の主体が階級や労働者ではない「市民」であることだった。日本では、運動内部の批判の展開により、70年前後に部落差別や民族差別、ジェンダーなどのマイノリティ闘争へのシフトが起こったが*16、「新しい社会運動」のさきがけとして知られているのは65年4月に、小田実開高健らが発足させた「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)である。

安保闘争までは、大衆運動にせよ、知識人の先導的役割が大きかった。党の権威が失墜した後の全共闘では、脱中心性が強調された。ベ平連になると、市民が主役であることが強調され、個人単位の運動形態を採るようになる。ここで言う「市民」とは、「誰かに言われたからやるのではなく、自分で判断し、自発的に行動を選びとっていく」主体であり、自己決定と自己責任の主体である――「誰にでも開かれていて出入り自由、重視されるのは個人の自発性と創意、だからこそ、個人の責任は重い」(天野〔1996〕、176頁)。ベ平連においては、従来型のイデオロギーや党派からの自由と、自身の生活との連続性が強調されていた。無党派・脱イデオロギーの生活政治においては、運動主体は私的利害を優先しつつも、「ささやかな思い入れ」によって自発的に運動へと参加する(天野〔1996〕、182頁)。いわば「文化としての運動」であり、「心がけ」が重視される点では現代のロハスやスピリチュアルブームと共通する部分が大きい*17

ベ平連と並行して拡大した革新自治においても、その理論的支柱は松下圭一の「シビル・ミニマム」論であり、当時の政策課題としては自治と参加、環境、福祉への取り組みが強調されていた*18

また、「構造改革論」を掲げて社会党の刷新を目指した江田は、党内抗争に敗れた後、大量生産大量消費社会の物質主義と人間疎外への批判という新左翼に通ずる問題意識に基づき、市民運動へと接近していく(原〔2000〕、192-195頁)。何よりも生活水準の向上に関心を払う現実の市民の「生活者」としての意識を重視する江田は、党の指導よりも「政治を職業としないアマチュアの新鮮な活動」の主体性を尊重し、党の役割は国民の生活実感に基づく政策を形成して議会で実現していくことにこそ見出すべきであると説くようになる。既成の党体制の権威性を問題視し、現実主義的認識に基づく国民政党への刷新を目指した江田にとって、新左翼と新しい社会運動、ひいては現代の消費者主権政治にも繋がる「生活」重視路線へと踏み出すことは、極めて自然な成り行きだっただろう。

江田は77年3月に離党し、菅直人らと社会市民連合を結成した直後、同年5月に急逝した。社会市民連合は翌78年に社会民主連合に再編され、その中心であった菅はやがて鳩山由紀夫民主党を結成して、「生活第一」を掲げて小泉政権と改革姿勢を競うことになる。こうして新左翼から革新自治構造改革論、新しい社会運動、ポストモダニズムネオリベラリズム(小泉「構造改革」)、現代の生活政治までが、一本の近似線によって結び付けられる*19


生活政治は、環境問題に見られるように、サブ政治との重なりも大きい。社会運動やNPOなどの市民活動が盛り上がるのは、政治の機能不全や政治によっては対応できないイシューへの対応が必要とされているからでもある。大文字の党では対処できない「小さな政治」が各所で採り上げられ、環境やジェンダーなどの誰も反対できないイシューをめぐって政治の無能が嘆かれる。硬直的な官僚制への批判は高まり、いかに統治を国民の手に引き寄せるかが切実な問題として語られるようになる*20

消費者主権政治は、代表原理よりも代理原理を支持し、直接制への接近を帰結する。77年に生活クラブが提案し、79年の東京都練馬区議選から開始された「代理人」運動は、16年間で9都道府県で117人の「代理人」を地方議会へ送り出した(天野〔1996〕、204頁)。この運動は、政治を「市民が自らの生活を守る生活用具として」、議員を「地域で市民として暮らすために使いこなされるべき一つの生活用具」として捉えることからも明らかなように、代表原理への明確な懐疑に基づいている(同、204-208頁)。積極的な政治参加を志向するこの姿勢は近代的政治主体の完成であるように見えるが、「素性確かな消費財共同購入」から「素性確かな議員の共同購入」へと踏み出したその姿勢には、人民主権原理に基づく市民=公民(シトワイヤン)よりも、タックスペイヤー意識――納税者主権――に基づく市民=私民の性格が色濃い。

かつてJ.シュンペーターは、大衆が統治するエリートを市場でモノを物色するように選び出すことによって、統治の正統性と(政治参加の過剰の防圧による)安定性を確保するシステムこそが代議民主政であると捉えた。今では同じように政治を市場のアナロジーで捉えながら、大衆=消費者が政治=市場へと直接に参与していく理論的回路が登場したのである。つまり、勝利したのは公民的共和主義ではない。しかし、自由民主主義が勝利したわけでもない。自由民主主義が価値を見出していた統治の安定性は今や危機にさらされているのだから――ポピュリズム*21


さて、Z.バウマンは、消費社会/消費者の原理があらゆる領域に浸透していく現代社会の傾向を、次のように言い表している。すなわち、「可能性の陳列棚をみわたし、展示品の感触を確かめ、手で触れ、手でつかんで品物を調べ、財布の中身、あるいは、クレジットカード限度額と商品の値段をくらべ、あるものは買い物カートのなかにいれ、あるものは棚にもどすことが「買い物」であったとすれば」、「われわれは外でも家のなかでも、働いているときも休んでいるときも、寝ているときも起きているときも買い物をしている」。「われわれがしていることはすべて、その行為につけられた名前が何であれ、一種の買い物、あるいは、買い物に似たかたちの行動である」(バウマン〔2001〕、95-96頁)。

人々は、あらゆる領域のあらゆる行動/選択を、消費行動/選択のアナロジーで捉えるようになる。労働然り、宗教然り、教育然り、恋愛・結婚然り、政治然り。このような「消費者社会」(総消費社会)では、選択主体=「顧客」としての自己の意思と権利を最大限に尊重することを求める消費者主権主義に加えて、多様な選択肢=価値の乱立を自然な前提として受け入れる価値多元主義が基調を成す(岡本〔2006〕、35&38-39頁)。

NHK放送文化研究所が実施している世論調査の結果の分析によれば、73年から03年までの30年間に、「他者に配慮した意識が増加」し*22、「他者を認めない一方的な意識が減少」した結果*23、「個人の考え方を尊重する意識」、「他者を尊重する意識」への画一化傾向が進展したとされる(NHK放送文化研究所編〔2004〕、222-225頁)。これは一面では異なる考え方を尊重し、多様性を承認し、他者の生活に干渉しない寛容な態度が醸成されたということになるであろうし、他面では「自分は自分、他人は他人」と割り切った相対主義が浸透し、他者への無関心が拡大したと言うこともできるだろう――「カラスの勝手主義」(岡本〔2006〕、166頁)。

以上から、「序論」で採り上げた東浩紀の議論、すなわち物語の共有化圧力が低下したとの主張は、ある程度裏付けられたと考えてよいだろう。「大きな物語」は失墜した。しかし、それは他者への寛容という自由主義的命題の勝利でもある。もとより、消費者主権の基底たる自己決定そのものが、自由主義の所産であった。自由主義は、経済面に限らず、生命の保全や思想の自由、国家の中立化や法治主義男女共同参画や子どもの権利、共同体の拘束からの解放、プライバシーや個人情報のコントロール、自己決定の物質的基礎の保障など、全面的な勝利を収めた*24。おかげで私たちは自由になり、豊かになった。現状を過去と比較して、肯定的な要素の方が多いことは争う余地が無い。必要とされる作業は、評価すべきことは評価した上で、現代に固有の課題への対応を検討することである。



*1:「国民‐主権」の意味については、「法外なものごと」などを参照。

*2:外交・防衛政策では、革新政党をはじめとする「平和勢力」の強い抵抗によって、与党は憲法改正の封印と再軍備への一定の制約を余儀なくされた。その例として挙げられるのは、67年に佐藤首相が武器輸出の相手国を制限する旨を答弁したこと(武器輸出三原則)、71年に非核三原則が国会決議されたこと、76年に国防費をGNP比1%の枠内に制限することが閣議決定されたこと、などである。

*3:経済」の項を参照。

*4:共同体/市民社会」の項を参照。

*5:革新自治の問題点としては、労組に妥協的であったために公務員の汚職や放漫財政の横行を許し、非能率な官僚組織を温存したことと、いわゆる「バラマキ」政策によって財政難の悪化をもたらしたことなどが挙げられている。

*6:中曽根が同時に目指したのは、憲法改正による小国主義からの脱却であり、中曽根流「戦後政治の総決算」は、「吉田=池田レジーム」からの脱却を意味していた。

*7:97年の「日米防衛協力のための指針」の改定による「日米安保の再定義」。新ガイドラインの方向性を具現化するべく、99年5月に周辺事態法が、2003年6月に武力攻撃事態対処法が、04年6月に有事関連7法が、それぞれ立法された。憲法改正の可能性も大きくなっており、07年5月に国民投票法が成立した。

*8:この選挙での社会党女性候補を多数当選させており、従来の支持基盤である労組よりも、市民派の支持が大きな影響を及ぼしたことがうかがえる。

*9:企業社会統合と開発主義的企業優遇政治によって70〜80年代を乗り切った日本だが、80年代末以降のグローバル化の進展に伴って一国経済を前提にした政治介入が失効。多国籍化する大企業は規制緩和を求めるようになり、政治もそれに応えようとした。

*10:橋本内閣期に設置された行政改革委員会の規制緩和小委員会が提言した規制緩和の内、株式売買委託手数料の自由化、銀行の投資信託の窓口販売、損害保険料率の自由化、運輸分野での需給調整の廃止、持ち株会社とストック・オプションの原則解禁、有料職業紹介の対象業種と労働者派遣業務の原則自由化による労働市場の流動化支援、大店法の廃止、定期借家権の創設による借家市場の拡大、大都市での容積率規制の緩和などが実現した。

*11:せいぜい教育基本法が改正されるとか、憲法が改正されるなどといった程度のことでしかないだろう――それで生活に何の影響があると言うのか?

*12:なお、日本では1968年に消費者保護基本法が制定され、70年からは国民生活センターが設置された。2008年には、消費者行政を一元化する消費者庁構想が具体的な議論に上っている。

*13:「顧客」は、コストに応じたベネフィットを求め、ベネフィットに見合うだけのコストしか負担しようとはしない。消費者のスローガンはいつでも、「より安く、より良いものを」である。

*14:誰も反対できない揚句に、誰も望んでいない裁判員制度が国民参加の掛け声の下に導入されたりする。

*15:ハーヴェイ〔2007〕、62-64頁も参照。

*16:70年代には、ウーマンリブを嚆矢として、私的領域・個人領域の政治化も推進された。

*17:新左翼から市民運動、そしてロハスまでの流れは、物質主義に足場を置きながら脱物質主義を志向することに自覚的になっていく歴史であるのかもしれない(「スピリチュアル/アイデンティティ」を参照)。

*18:松下圭一『シビル・ミニマムの思想』の出版は71年。

*19:親密圏/人権」の項で述べたように、近代化のプロジェクトは前近代的な環境への依存によって成り立つ部分が大きく、中間集団や親密圏における暴力性への公権力の応答を意識的に断絶することによって維持されてきたが(和田〔2004〕)、近代化を推進する担い手は、必ずしもそのことに自覚的でない。日本の近代主義者たちは、そうした近代化プロジェクトの限定性を正しく認識せず、「近代的社会制度の確立によって社会権力による抑圧は解消される」との前提に寄りかかっていたために、大学や学校、病院や家庭に巣くう近代的な権力構造を視野の外に置いてしまった(大嶽〔2007〕、2頁)。70年代後半から80年代前半、ネオ・リベラリズムが「新左翼の議論を逆手にとって左派リベラリズムに厳しい批判を浴びせた時期」に、これと呼応するような形でポストモダンの議論が登場し、「両者が相まって、「丸刈り強制の反対」「学校選択の自由」「内申書の開示」「(臨教審的)大学改革」「インフォームド・コンセント」「カルテの開示」「医療過誤の法的追及」といった主張に理論的根拠を与えた」。「新左翼とネオ・リベラリズムとの双方から挟み撃ちされ」、「日本のリベラル左派たる近代主義」≒「戦後民主主義」は死んだのである(大嶽〔2007〕、9頁)。

*20:現代国家とポピュリズム」も参照。

*21:この点は、国家役割についての自由主義的命題――法の形式的安定性――が「社会正義」の前に屈伏しつつある事態とパラレルであろう(「セキュリティ/リスク」を参照)。なお、ポピュリズムについては「ネーション/国家」の項で詳述する。

*22:具体的には、「生活の物質面での満足感、生活目標は〈身近な人たちとなごやか〉に、近所の人間関係は〈部分的つき合い〉、夫の家事手伝いは〈当然〉、政治的有効性感覚「デモなど」は〈弱い〉、支持政党は〈自民党〉から〈支持政党なし〉に変わり、職場での闘争は〈静観〉、憲法知識では〈人間らしい暮らし〉、外国から見習うべきことが多い、日本は一流ではない」など。

*23:具体的には、「職場での〈全面的つき合い〉の減少、名字は〈当然夫の姓〉が後退、婚前交渉は〈不可〉の後退、日本のために役に立ちたい〈そう思う〉の減少、他国への優越感の減少」など。

*24:親密圏/人権」の項でも同様のことを述べたが、一方で自由民主主義や自由主義的国家観が退場しつつあると述べながら、他方で自由主義の全面的勝利を判定するのは、矛盾に見えるかもしれない。しかし、私見では自由主義は勝利することによって変質し、変質することによって勝利してきたのであり、直近の勝利も、決して自由主義の核――「自律」の実現――から逸脱するものではない。むしろ、それは根本的な自由主義の教義に最も適うものであり、それゆえにこそ全面的な「勝利」と呼ぶにふさわしいのである。この点に関しては詳しい議論の展開を必要とするだろう。可能ならばシリーズの結論部で触れたいが、それが叶わずとも、近い未来の内には関連するまとまった文章を書く機会があるだろう。