社会科学の禁欲と跳躍
本書の実証性に疑問を挟む研究者がいるかもしれない。大胆な分析と解釈を含むからである。きわどいいい方をすれば、厳密な分析が意義深い知見を生むとは限らない。どのような「事実」を発見しようとし、それをどんな「文脈」にのせて議論するか。この社会を生きる者として持っているはずの切迫した課題意識と規範的判断がなければ社会科学者は使命を果たすことができない。私は、その重要性を表現したものとして本書を読む。
asahi.com(朝日新聞社):学力と階層―教育の綻(ほころ)びをどう修正するか 著 苅谷剛彦 - 書評 - BOOK(評者 耳塚寛明)
微妙ですね。ここには、いわゆる「厳密派」の罠(cf.水俣)に陥ることを避けながら、いかにしてヴェーバー的「価値自由」の要請に応え続けるかという容易でない課題が横たわっています。価値自由とは価値に中立であれということではありませんが、事実と価値の問題――正確には存在と当為の問題――を分離せよということではあります(「経験科学はいかにして政治的たり得るか」を参照あれ)。また、丸山眞男は、社会科学、とりわけ政治学においては、「一つの問題設定ないし一つの範疇の提出自体がすでに客観的現実の中に動いている諸々の力に対する評価づけを含んでいる」ことを認めなければならないと言い、政治学が科学であるためには、「理念としての客観性と事実としての存在制約性との二元のたたかい」を前提にした「禁欲」が必要とされると主張しました*1。
苅谷著は未読ですので引用部に限っての言になりますが、「課題意識と規範的判断」が無ければ社会科学者は何も達成できないことや、時に「大胆な分析や解釈」が必要になることには賛同しつつ、そうした事実は実証性を濁らせることの正当化に使われるべきではないとも言い添えておきたいと思います。科学は常に価値に拘束されていますが、それでもそうした拘束からできる限り離れたところで仕事を為し、その成果を世に発することによって価値選択を促すべきです。つまり、明白な価値との結びつきが許されるのは入口と出口においてであり、作業過程においては価値と無縁ではいられないからといって事実を取り扱う手の「消毒」を怠ってよいということはありません*2。それが価値自由の意味です。評者には釈迦に説法かもしれませんが、読者への伝達の過程で誤解を招きかねないと思いましたので補足させて頂きました。
なお、科学について語ると「科学」の意味について云々されることが多いのですが、私の定義については既に「科学的なるものの概念」にまとめてありますので、そちらを参照して(から云々して)下さい。思うに、科学を実証性に還元しようと定義するのは、最も安易かつ浅薄な振る舞いです。では、科学についてするあなたのその定義は、いかなる実証性に支えられているのか。科学について考えることが科学ではないと言うのなら、科学とは何でしょうか。
- 作者: マックスヴェーバー,Max Weber,富永祐治,折原浩,立野保男
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