stakeholder democracyへ


最近ますます社会評論への関心が衰え、政治学を勉強し直したくなっているのですが、そんなこともあって自分のために少し整理。長過ぎて自分でも読みなおすのがしんどいので、「現代日本社会研究のための覚え書き――結論と展望」からstakeholder democracyのところだけ切り貼りします(適宜改行・強調)。

(1)stakeholder democracyへ


まず、ポピュリズムへの対応を論じる。ポピュリズムの支配によって具体的政策の質が犠牲とされる事態を避けるためには、多様な利害関心の所在が的確に把握され、多元的な敵対性が適切に組織・代表される必要がある。バラバラに所在している多様な利益ないし価値に公的政治過程への伝達回路を確保することができれば、実質的な利害関心から超然とした「空虚なシニフィアン」=ポピュリストが台頭する条件は失われるからである。民主化の極北としてのポピュリズムの肯定的側面に着目するなら、プープル主権と直接制へ近づこうとする傾向はそのままに、利害の伝達/実現回路を新たに構築し直すことを通じて、政治過程への攻撃を強める「人民」のエネルギーをポジティブな方向に流し換えることができるだろう。


ポピュリズムが政治の不安定化をもたらさないためには、フォーマルな政治過程の参加可能性/応答可能性を高めなければならない。そのためには例えば、総選挙の1〜2週間前に「熟議の日」と呼ばれる祝日を設け、地域の小集団で討論を行うことを可能にすることで、政策論議を活発化させる――利害関心の布置を明確にする――などの「熟議民主政deliberative democracy」的な制度を導入することも一案であろう*1。ただし、利害伝達回路の再整備との主旨に根差すなら、熟議民主政の構築は全体性を前提とした何らかの「公共善」の達成を目的にすべきではなく、あくまでも個々の政治主体の利害実現を促進する手段――個人化社会のインフラ――の提供をこそ目指すべきである。




フォーマルな政治過程の外で多くのことが決定されてしまうリスク社会では、社会に流出した諸決定権限に民主的正統性を括り付けて回る作業も必要になる。正統的な政治過程から切り離された決定過程に一般市民が割り込んでいくことを正当化するためには、「利害関係stake」を持ち出すしかない。「治者と被治者の同一性」や「自己決定」を重んじる民主政においては、本来的に利害関係の保持が決定参与の根拠であるはずだが、流動性が高いポストモダン社会では、浮遊する利害関係を「権利」として制度化する作業が決定とその影響の波及の速度に間に合わないことが多い。


それゆえ、制度化以前の多様な利害関係に着目することによって、利害関係が存在する領域への参加可能性を拡大していくことが課題として浮上する*2。企業経営、労使交渉、紛争解決、犯罪者処遇、医療行為など、多面的な分野でstakeholderの決定への参与可能性を高めることが、政治全体の有効性感覚を回復し、ポピュリズムの不安定性を防圧することに役立つだろう。




決定作成へのstakeholderの参加を促進する以上、決定の内容はstakeholder間の交渉に委ねなければならない。国家的機関が担う役割は、市民社会内部における多様な決定作成(合意形成)と決定実践の法的/経済的枠組みを整備することに限定されるべきである。評価国家化、すなわち国家が(固有の行政サービス以外の領域では)民間主体の多様な活動を支援・調整・評価する「メタガバナンス」の役割に特化していく変化の方向性は肯定される。


権限と財源は可能な限り下位レベルに下ろし、自治の範囲を拡大する(補完性原理)。国家が国民の生命と福祉を保障する安全国家としての性格を強めていくことも基本的には肯定されるが、国家による市民社会への介入は最小限に留めなければならない。私的領域や親密圏での人権侵害において介入や救済が必要とされる場面でも、公権力が直接かかわる必要を認めるべき範囲と程度は限られる。


もとより、公権力の介入によって保護や救済が得られても、その後の中長期的なケアや当事者間の関係再構築にまで国が関与し切れるわけではない。ならば必要なのは、公権力の適切な介入を要請することである以上に、社会の側に新たな問題解決能力/機構を整備することであろう。その試みの例がADRであり、修復的司法である*3。今や、「公共性」を市民社会の側でも担っていくことが求められているのである。


もう少しプリミティブな話は、「利害関係とは何か」から。

影響を受けることについては発言できるべきだ、決定できるべきだ、という自己決定の原理を受け容れるなら、私たちは自民党の総裁を選べるべきだし、アメリカの大統領を選べるべきである。日本の意思決定には日本国籍を持たない人でも参加できるべきだし、企業の意思決定には株主や経営者以外も参加できるべきだ。治者と被治者の同一性とは、そういう意味である*2。およそ何らかの利害関係を持っているならいつでも、対象についての決定権や発言権が与えられて然るべきだし、少なくともそれを要求する理由が認められる


このプリミティブな理念的な話から、具体的な制度・組織の話に繋がる理論的なところ、すなわち結局stakeholder democracyって何なのかということは、修論の補論から(制度設計の素描もそこにもう少し詳しく書いてあります)。要するにそれは、治者と被治者の同一性原理(同一性原理)という価値理念から引き出される二つの規範命題に応えるための仕組みです。

まず、(1)同一性原理の実現を追求し、社会内のあらゆる決定について、当該決定から影響を被り得る全ての利害関係者が参加できるように求めることが一つである505。企業経営における株主資本主義からstakeholder capitalismへの移行論が象徴的であるが、その他、利害関係者中心の刑事司法の在り方を構想する修復的司法論や506、行政機関の「ガバメント」から多数の関係主体のネットワークによる新たな経済的・社会的調整システムとしての「ガバナンス」への移行を主張する立場などを507、同様の方向性に位置付けることができる。これは、狭義の政治的決定のみならず、社会内における決定一般に対する利害関係者の参加可能性を極大化していき、利害関係者中心の社会運営を実現しようとする規範的立場であり、従来の政治理論からすれば参加民主主義理論に接続されやすい508。


そしてもう一つは、(2)あらゆる規範や政治的境界線の非自明性を前提とした上で、利害関係に基づく政治的討議を通じた決定による規範や境界線の問い直しを促進するような制度設計を行うべきであるという方向性である。すなわち、規範や境界線は政治的決定によって再審され得るという記述的な可能性の認識に留まらず、積極的にそうした再審可能性を高めていくような処置を行うべきであるという立場である。これは、特定の政治的決定によって同一性を実現できていない者に対して政治的再審可能性を開くことにより、同一性実現の可能性を拡大するという意味で、同一性原理にかなっている。具体的には、特に政治過程を利害関係者に対して開くように再設計する制度構想として、(1)の議論と密接に結び付くことになる。こうした立場は、政治的討議の活性化を志向するという面から、従来の政治理論の中では熟議民主主義理論に接続されやすい509。


(1)は同一性原理という社会構成原理に照らした正当性を問題にしようとする方向性を持つのに対して、(2)はむしろ、決定手続きを利用しやすくすることにより、その正統性を高めようとするものである。利害関係理論は各個体において同一性原理が完全に実現されることを目指すのみで、特定の望ましい社会的帰結についての想定を伴わないため、(2)によって政治的討議が活性化されたとしても、討議の結論とそれに基づく決定の帰結を評価する特定の価値基準が設けられることはない(帰結主義的正義の拒否)。また、既に述べた通り、利害関係者の全員一致によらない政治的決定を倫理的に正当化することは不可能であり、その意味で適正な手続きを経た(手続き的正義を満たした)からといって決定が「正しい」ことにはならない。それでも、「よりよい」決定を求めて既存の決定を批判的再審にさらし続けることは決して怠るべきではなく、そうした再審の可能性を高めることは欠かすことのできない営為である。


(1)と(2)から導かれる課題は、同一性原理の実現を極大化するような政治的・経済的・社会的システムはいかにして可能か、ということであり、そのシステムの総体をここでは「利害関係者民主政stakeholder democracy」と呼んでおこう。利害関係者民主政においては、全ての主体に対して、彼らが利害関係を負う事象についての決定への参加可能性をできる限り拡大することが目指される


あー、早くstakeholder democracy研究やりたい。思想的・哲学的な話はあと1、2年でいいな。

……などと言う前に「かかわりあいの政治学」を進展させねばならんことを忘れてました、すいません。