「国策捜査」の意味


検察が小沢の首を獲るべく動いたことが「国策捜査」であることは否定できない。しかし、それは検察が政府の意を汲んだということであるとは思えない。そうではなく、「国民代表」である検察が、国民の――より正確に言えば「人民」の――「民意」を汲んだ(あるいはやや過剰に忖度した)結果だと解釈するべきである。現代日本における検察の行動原理を理解できない政治家は、ただポピュリズムの波に呑み込まれて沈むだけだろう。良くも悪くもゲームのルールは既に変わったのであり、後は行くところまで行くしかないのではないかと思える。

佐藤優国家の罠』を読んで感じたのは、何だか検察という機関は思いの外「民意」なるものに左右されやすいということであり、それはかなりの程度に民主化された現代的な国民国家における公権力の在り方を現わしている事態にほかならない。これはフーコーが言う「生‐権力」とも繋がってくる話であり、その辺りのことは萱野稔人『国家とはなにか』に余すところなく書かれてあることだが、つまり統治権力が民のために働くということ、民意に仕えることを目的に定めるということが、国家が「国民のもの」になる結果の自然な成り行きなのだと。この方向性をずんずんと進めるとどういうことになるのかと言うと、要は「国民代表」なる機関にフリーハンドを認める余地がずいずいと小さくなっていくことになる。国民代表とはつまり統治を担う人のことで、政治家でも官僚でも裁判官でもいい。彼らが「好きにやれる」範囲をできる限りわずかにしていくこと。領収書を1円から出させるとかご立派な公務員宿舎の利用は許さないとか刑事裁判の場に市民を送り込むとかいった世の流れは、こういう文脈の中に在る。


この部分はできれば、今日のこれと同じくらいの冗長な書き方を用いた過去のエントリも参照しながら読んで欲しいのだけれど、見方によっては、現状はぐんぐん直接制の統治に近づいて行こうとしているとも言える。国民代表に許すフリーハンドの範囲を狭めていくという意味で、だ。本来なら、ある国家の統治を担うということは、私たち一般庶民にはうかがい知れない様なシンボーエンリョなどに基づいて、あまり公にはできないことや法の枠を少うし跳び越えるようなことをすることもあって「然るべき」なのだが、国家権力をひたむきに民主化していくということは、そういった逸脱を許そうとしないことである。同じことを、ナシオン主権からプープル主権への転換が進んでいると表現してもよい。とにかく「私たち」日本民衆は、国家権力を思うさまにコントロールしたがっている。「私たち」の一体性や、その意思=「民意」の在りかなどが明らかならぬままに。何はともあれ、日本国家の舵取りを「私たち」の手に取り戻さなければいけないのだ、との漠とした昂ぶりとともに。


現代国家とポピュリズム


引用文中の「過去のエントリ」は、「法外なものごとについて」。


国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)

『国家とはなにか』

『国家とはなにか』