幽霊と亡霊と


ソファの在る書店にて、3時間近くかけて以下の主に1、4、5章を読む。



非常に面白い。プロパーとしての立場からは、シュティルナーマルクスと同じく「悪魔祓い」を企図していたという理解は間違っていると言わねばならないけれども、その点は別にして少なくない刺激を与えてくれるテクストである。「亡霊(幽霊/再来霊)」と「精神」の――マルクスによる「絶望的」な・それにもかかわらずデリダが継承してみせようとする――区別は、まだストンと腑に落ちるまで至らないものの、とっても興味深く感じる*1

たぶん事前に稲葉振一郎『モダンのクールダウン』の7章あたりを再読しておいたのが、多少役に立ったと思われる*2デリダ的思考の政治的な方面の可能性(「来るべき民主主義」)については既に処理できたつもりでいるが(「神と正義について」)、主体や存在の問題についての可能性においては、まだ汲み出せるものが在りそうである。

デリダ曰く、「亡霊」とは「別の誰か」であり、偶像・形象・仮象などとは区別され、「絶対的な先行性」を持つのだという(29-30頁)。その現前は反復でありかつ初回(そして最終回)であるように行われるのだが(37頁)、しかしながら「結局のところ、亡霊とは未来なのであり、つねに来たるべきものであり、来るかもしれぬものあるいは再‐来するかもしれぬものとしてしか自らを現前させることはない」のである(96頁)。

明瞭に解ると言えば嘘になる。ただ私は、以前に書いた文章のことを思い出す。以下は、拙稿『利害関係理論の基礎―利害関係概念の再構成と利害関係の機能についての理論的考察―』(2007年度一橋大学大学院社会学研究科修士論文、2008年1月提出)、第3章第1節4に付けられた注478の全体である(太字は原文傍点)。長いが、ここで重要なのは最後の段落だけであり、そこに到達する論理の道筋を理解してもらう便宜のために全て引いた。

 いわゆる「未来世代の権利」についてはJ.ファインバーグが肯定的に論じている。ファインバーグは、生まれたばかりの幼児や胎児が権利主体として承認されるのは、十全な権利主体である成人への成長可能性が根拠であるとした上で、その点では「遠い未来に生まれる人間」も幼児・胎児と大差はないと述べ、未来世代への権利承認の可能性を示唆している(ファインバーグ前掲論文、137-138頁)。


 これに対して森村と宇佐美誠は、未だ存在せず、それが誰であり、どのような特性を持つのかということについて同定できない者に対して、権利を承認することはできないという見解で一致している。(森村進「未来世代への道徳的義務の性質」鈴村興太郎編『世代間衡平性の論理と倫理』(東洋経済新報社、2006年)284-287頁。宇佐美誠「将来世代をめぐる政策と自我」鈴村興太郎ほか編『世代間関係から考える公共性』(東京大学出版会、2006年)80頁)。彼らによれば、未来世代として誰がどのように存在するかは、現在世代の行為に依存している以上、環境破壊の抑止などの未来世代への配慮義務を、未来世代が有する請求権から導くことは困難であるとされる。例えば、現在世代が政策Aを選択した場合の500年後に存在する人々αと、政策Bを選択した場合の500年後に存在する人々βとの間では、αの生活水準の方が遥かに高いと仮定する。この時、αとβは相互に異なる人々であるために、政策Bを選択したとしても、誰の生活水準を低下させたことにもならない。また、βは政策Bが選択されなければそもそも存在し得なかった以上、βが政策B以外の選択を請求する権利を有するとは考えにくい。以上から、未来世代として権利を有する人々を現在時点から想定することは困難であるとされるのである(なお、ここでは立ち入らないが、それぞれ論拠は異なるものの、両者共に未来世代への配慮義務自体は否定していない。また、未来世代に対する道徳的配慮義務についての学説史の整理としては、宇佐美誠「将来世代・自我・共同体」(『経済研究』第55巻第1号、2004年)が詳しい)。


 確かに、こうした主張は一見もっともである。しかしながら、ここで「存在しない」とはいかなる意味であるのか、あまり明らかとは言えないので、問い直してみる必要がある。森村や宇佐美は、「存在する」ということを以て、人間が誕生してから死亡するまでの状態を意味している。だが、胎児はまだ誕生していないが存在している。それゆえ、胎児が生まれ・生きる道徳的権利を有していることを否定する人は多くない。法的権利についても例外的に認められることがあり(損害賠償請求権や相続・遺贈の場合など)、一般的に認めることにも理論的障害は無い。胎児に権利を認めるのであれば、それ以前に遡って受精卵や卵および精子といった存在に権利を認めないことに必然的な理由など無い。そして、卵や精子の前身として、それらを形作る細胞や物質に権利を認めない理由もまた無い。このような細胞や物質は、明らかに存在しているが、先行世代の内部にあって、その一部として存在している。このように考えるならば、未来世代といえども決して「存在しない」とは言い切れず、未成熟な可能性としてではあれ、現在世代の内部に現に存在していると言うこともできる。そうであれば、未来世代とは必ずしも「未だ存在しない者」ではないことになり、権利を認めない根拠は弱まる。


 また、それが誰であるか具体的に同定できなくとも、権利を承認することは可能であろう。現に、私たちは全く見知らぬ土地に住む見知らぬ人々についても、彼らが確実に存在していると知っている場合には、彼らが権利を保有していることを疑わない。将来において、未来世代として誰がどのように存在しているかにかかわらず、現に今、未来世代として現れ得る可能的存在が存在し、そこから誰かが未来世代として現れてくるだろうということを既に私たちが知っているのであれば、彼らに権利を承認することは可能なはずである(現在世代の行為の結果、誰も未来世代として存在しないという可能性は有り得るが、今現在存在すると思っていた人は実は存在しなかったという可能性も同程度に有り得るので、未来世代にだけ権利を認めない理由にはならない)。法は、保有主体を具体的に特定できない権利も定め得る。


 したがって、道徳的にも法的にも、未来世代に権利を認めることは不可能ではないと言い得る。改めて、先のαとβについて考えてみよう。確かに、αとβには、特定の政策などを請求する権利などを認めることはできないかもしれないが、生まれ・生きる権利を認めることはできる。そうした権利を認めるなら、政策Bが選択された結果としてβが現れαが現れなかった時、存在し得たにもかかわらず存在しなかったαの権利は、現在世代の選択によって侵害されたと言い得る。αとβは共に、現在において可能的存在として存在しているため、αは「未だ存在しない者」ではなく「実際に存在しなかった者」であり、権利を認めることはできないという反論は無効である。αは「未だ存在しない」が存在し得る存在として権利を有しているのであって、「実際に存在しなかった者」に転化するのは、現在世代による権利侵害の結果である。


 以上から、未来世代の権利を認めることの意味が解る。それは、将来において実際に存在する者だけではなく、存在し得る者全て、現在における可能的存在の全てに権利を認めるということである。現在からは未来を知り得ない以上、実際に誰が存在するのかを権利承認の分かれ目にすることはできない。未来世代の権利とは、存在し得る全ての可能性が有する権利なのである。


 「過去世代の権利」は未来世代の権利に比して論じられることが稀であるが、未来世代の権利と同様に認めることが可能である。実のところ、私たちは既に、死者の権利を部分的に認めている。ファインバーグが指摘するように、私たちは通常、学術研究や臓器移植のための遺体提供の可否や、財産相続の配分、生命保険の受取人について、本人の生前の意思を尊重し、それに従うべきであると考える。だが、これらの約束の履行は本人の死後であり、死者は権利を持たないと考えるならば、約束の履行を請求する権利も消滅し、遺族や保険会社に約束履行の義務は無いことになる。私たちが約束の履行は義務であると考えているならば、それは本人の権利が死後も継続していることになるだろう。同様のことは、死体損壊の禁止などについても言える。死者が権利を持たないのであれば、死体をどう扱おうが問題とはされないはずであろう。


 もちろん、死体損壊の禁止は死者の権利によるものではなく、公序良俗の維持など社会一般の利益のために設けられる法的ないし道徳的義務であると言うことはできるだろう。また、遺体提供や財産相続、保険金受取について本人の生前の意思を尊重する義務に関しても、社会一般の利益から説明することができるかもしれない。例えば、ファインバーグは、こうした義務が存在するのは、今現在生きている人々が、自分の死後に生前の意思を尊重してもらえるだろうという確信を得ることができるようにするためであると考えて、生きている者の利益から説明可能ではないかと考えている(ファインバーグ前掲論文、132-133頁)。死者の権利を否定する森村も、同様の考えなのかもしれない(森村前掲『財産権の理論』111-112頁、森村進『自由はどこまで可能か』(講談社、2001年)153-154頁。なお、森村進「「大地の用益権は生きている人々に属する」」(『一橋法学』第5巻第3号、2006年11月)によれば、T.ジェファーソンも森村に近い立場である)。


 だが、社会一般の利益を守るために生きている人々に義務が課されていると解することができるなら、同じ理由で死者に権利が認められていると解することもできる(ラズ型利益説を想起されたい)。本稿は既に動物や自然物、ひいては無生物に対する権利承認の可能性を肯定しているから、死体に権利を認められないとする理由は無い(森村も死者に法的人格を与えること自体は理論上問題が無いとする)。そもそも死亡したからといって保有する権利を消滅させることに必然的な理由は存在しない以上、むしろ、死者は生きている人々の利益のために権利を剥奪されていると考えた方が的確であろう。そして、遺体提供の意思表示など、社会一般の利益と合致する一部の場合に限って、死後一定の期間、権利が残されることになっているのである(なお、以上について、死者の権利の可能性について検討した宮崎真由「死者の人格権の可能性」(『現代文明学研究』第4号、2001年)や工藤達朗「死者の取り扱いに関する若干の考察」栗城壽夫ほか編『未来志向の憲法論』(信山社、2001年)が参考になる)。


 そうであれば、私たちは死者の道徳的/法的権利を剥奪しないままにすることも理論上不可能ではないし、その延長として過去世代に権利を認めることもできないわけではない。可能的存在としての未来世代に権利を認められるのであれば、分解され、もはや別の物質となり別の存在の一部となっている過去世代にも権利を認められる(もっとも、物質的には未来世代と過去世代は混交していると考えるべきかもしれない)。それはいわば幽霊の権利であり、ここまででも、既に悪い冗談だと感じられるかもしれない。だが、真に畏怖すべきは、ここからである(なお、当然ながら、ここまで検討した未来世代や過去世代には、非人間も含まれる)。


 存在し得る全ての存在への権利承認という論理と、かつて存在した全ての存在への権利承認という論理が結合した地点には、存在し得たけれども存在しなかった存在への権利承認の可能性が開かれる。それは、先のαのような可能的存在が、βの出現という現実によって権利を侵害されたという結果に留まらず(そこで消えてしまうのではなく)、存在し得たという可能性を終えた存在として、新たな次元でなお権利を保持し続けるという事態である。このような「存在」は、βとαの関係がそうであるように、いわば「この私」とは別の、「他で有り得た私」のようなものであり、現実とパラレルに想定される「ついえた可能性たち」である。それは、もはや幽霊ですらなく、全く得体が知れず不気味であり、その権利の具体的内容が何であるかもまるで見当がつかない。しかしながら、究極的な正義は、「彼ら」の権利を求める。なぜなら、存在し得たけれども存在しなかった存在にも利害関係を想定することは、不可能とは言えないからである。正義は私たちを戦慄させる。私は、J.デリダが『法の力』(堅田研一訳、法政大学出版局、1999年)で提起した脱構築不可能な正義とは、このような正義を意味すると考えている。要すれば、究極的な正義とは、悪い冗談なのである。


既に2年近く前になるが、この無茶な注を書いた時、私は書きながら戦慄していた。綱渡りのような――しかし落ちてはいないと思う――理路の上、論文の本題からは大幅に逸脱しているのだが、自分では密かに「これはなかなか凄いところに踏み込んでいるのではないか」との自負を持っていた。読んだ人の一人でも誰か触れてくれるかと思ったが、今のところ言われたことは無い。

最近、小島寛之『確率的発想法』や加藤秀一『<個>からはじめる生命論』を読み*3、材料は集まったと感じている。あとは東浩紀の議論を絡めることで、まとまった文章にできると思う。時間さえ確保できれば、それほど手間取るまい。それを改めて世に問えば、戦慄をもはや戦慄で無くすることができるかな、と思っている。

*1:それから「憑き物(憑在)=強迫観念」という等置も、シュティルナーの自由論・自己性論を考える上で示唆的であると思った。それにしてもこの本は、フランス語を母語とする人間がドイツ語のテクストの読解についてアメリカで話すという傍から見れば訳分からんように思える営みから成り立っており、しかも私自身はそれを日本語に訳したものを読んでものを考えようとするわけだから、何だかうーむである。

*2:

モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)

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*3:

確率的発想法~数学を日常に活かす

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〈個〉からはじめる生命論 (NHKブックス)

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